ADD?先生の発達障害児 教育応援サイト

ADD?傾向のある塾教師がADHDやアスペルガー症候群の子にどうかかわり教えたらいいのか模索していくブログです。

だ~れが 殺したクックロ~ビン?? 2

2008-04-20 09:40:37 | 番外
私の住んでいる団地の向かい側の団地に
変質者とうわさされる男性が住んでいました。
年は20~30歳くらいの見るからにもっさりした外見の男性で
いつも近くの公園のブランコの近くにいたように
思います。
私自身が被害にあったわけではないので
あくまでもうわさなのですが、
何人かの幼女がブランコの後ろから抱きすくめられた…という
話をよく耳にしていました。

そこで私が公園に行くときや夕方の習い事に行くときは
近所の男の子をまるで護衛のように
あてがわれていた(?)記憶があります。
男の子と言うのは、2人いるんですが、ひとりは本当の仲良しで
小学校の高学年になるまで気持ちの通い合う子だったんですが、
もうひとりは少し年上の苦手な子…。
親同士の気遣いが重かったです。

今の時代なら、近所の人がそんな事件を起したとなれば、
住民同士で団結して追い出しにかかると思うのです。
ですがその時代は、
いつもその男性を警戒しながらも
誰も何も言い出せずにいました。

また そんな折、
近所の年上の女の子のお父さんが
近くの路上に車を止めていた男性に殺害されるという
痛ましい事件がありました。
そのお父さんはごく普通のサラリーマンで
また殺害した男性もごく一般的な男性だったと記憶しています。
殺害の理由は おそらく誤解で、とてもささいなものでした。
いつも車をいたずらされて腹を立てていた男性が
たまたま通りかかって車に触れてしまった
女の子の父親を刺してしまったようなのです。
(子どもの時に聞いた話なので正確なことはわかりません。)

あまりの突然のことに
事件前の口げんかひとつない住宅街のクリーンさと
事件後の何事もなかったかのような静かな(うわさに忙しい人こそいましたが)
光景が
どこか異様な風景として記憶に刻まれています。

そんな中で いつも悪口を言われ 憎まれ 毛嫌いされ
何とかしよう!という住民の話し合いの対象となっているのは
農薬の匂いでも 近所の人の嫌なところでも 変質者でも
女の子の父親を奪っていった殺人者でもありませんでした。

ハト!
ハト!
ハト!
ハト!

団地の人々は、ハトに怒ってました。
ハトをののしり、憎み、いつも何とかして駆除しなければと
頭を悩ませていました。

ハト!

そんなある日、
2羽の小さなハトは、首を、ふつうの人の手で、
へし折られたのでした。
それを残虐だと感じる人は、いないかのようでした。 
子どもの目の前で、そうした行為に走ることを
とがめる人もありませんでした。

その後も平和で、
会えばみなにこやかに挨拶する
団地暮らしは続きました。

しばらくして
「だ~れが殺したクックロ~ビン~」という歌が
友達の間ではやりはじめた時
私は何度も
プラン~と垂れた小さな首のことを思い出しました。
 
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だ~れが 殺したクックロ~ビン~?? 1

2008-04-20 06:21:04 | 番外
私が子どもの頃、パタリロというマンガの影響で
「だ~れが殺した クックロ~ビン~」と歌いながら
振り付けをつけて踊る友達が何人かいました。
このフレーズはいつも私の耳に残っていて、
あるひとつの事件を思い出さずにはいられなくなります。

以前、記事の中で、
近所の方が我が家に乗り込んできて、ベランダにいた小バトの首をへし折る
という子どもの頃 遭遇した事件について書かせていただいたことがあります。

この出来事が、どうして起こったのか?
その背景について、もう少し記憶を掘り起こして書いてみたいと思います。

この事件が起こる数ヶ月前から、
「ハト公害」と言う言葉が、激しい怒りを伴って世間を賑わせていたように思います。
私の住んでいた団地でも、

「ベランダに干したふとんにハトが糞をする」という理由で、
ハトを徹底的に排除しよう!!
という意見が飛び交っていました。私の両親も同様の理由で、ハトを嫌がっていました。

ところが、ベランダに出していた家具と隣のベランダとの境界にある隙間に、
ハトが巣をつくり
ヒナがすでに孵ってしまっているのに気づいた時、
ピィピィ鳴く愛らしい姿を前にして、
それらを殺すことまではできなかったようです。
そこで、家の中でまで小声になって、
「どうせ鳥のヒナなんて、すぐに飛べるようになる。あれらが巣立ったら、
あの隙間を埋めてしまおう」と相談していました。

ところがある日、近所からの通報があって、
家の中に乗り込んできた団地の世話役の方の手によって、
私と妹という幼い子どもの目の前で、ハトのヒナの首をへし折られる…
という残酷な出来事へと発展してしまったのです。

この団地の世話役の方は、
礼儀正しくまじめな会社員の方で、
2人の、私と妹より年下のお子さんの父親でもありました。
そうした方が、なぜ、
もしハトのヒナを処分するにしろ、そっと、見えない場所ですることができなかったのか?
なぜ 見せしめのように、ハトのヒナの首はへし折られたのか?
そこから感じた強い憎悪のエネルギーは
何であったのか?

私は何度か そのことについて考えたことがあります。

私の住んでいた団地というのは、
美しい桜の並木で有名な場所で、
毎年お花見シーズンには、テレビ局も訪れる場所でした。
そうした良い環境のイメージのおかげで土地は高騰し
団地に住んでいるものですら、
どこかで高級住宅街にすんでいるという特権意識を抱いて暮らしていました。
しかし桜と言うのは、一時期、目を楽しませてくれるけれど、
害虫も多く、害虫駆除の薬の散布や、毛虫の大量発生やらで、
常にストレスを生じさせる木でもありました。
それで、誰もが、桜に敵意すら抱いていたのですが、
それを表に表現する人はいませんでした。

当時、団地に住んでいる人と言うのは、四国、名古屋、沖縄…など
地方から来た人の寄せ集めでした。
ですから、当然、それぞれ、考え方も感じ方も違います。
しかし団地という、あまりにも密接した空間を共有しているため、
お互いに何か不満があっても、
それを口にする人もなければ、
ささいな口論というのも見かけたことはありませんでした。
しかし一見仲がよく、
会えばあいさつする間柄の中で、
お互いへの不満や憎悪は、多々存在していたようです。

田舎者の母は、近所の子にねだられれば、
ホットケーキやおやつを焼いて食べさせたりしていましたが、
食事前に甘いものを食べた…という理由で、
そのうちの子が外で立たされているのを見た時、
母に告げることもできず、
私は悲しくなって団地の陰で泣いていました。

長くなったので、次回に続きを書きますね。
 
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佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったか? 4

2008-04-19 20:03:34 | 番外
慢性的に親に暴力を振るう子どもは
親を必要としないわけではなく
むしろ依存しきっていて ある種の甘えがそこに存在しているそうです。
ですから 子どもが親に暴力を振るうのは
親子の関係が逆転しているからではなく
そこに共依存度の高い関係が成立しているからなのだそうです。

けっして自分を見捨てない親の内面に
自分への潜在的な依存を読み取っているからなのだとか。

こうした共依存の関係が破綻すると
それは社会生活からの撤退を意味しているのだそうです。

こうしてみると
家庭内暴力もひきこもりも
共依存という同じ土壌から生じてくるものなんですね。

こうした共依存的な関係は
ネットの世界でよく成立しやすいと指摘されています。
インターネット上の人間関係は
リアルな世界の人間関係と違って 情報の取捨選択が可能です。
自分の鏡像(自己の分身のようなもの)にふさわしい相手だけに
アクセスし
自己承認の欲求を満たすのに必要な情報だけ
他者から受け取ることができます。

そうした関係は 優しく快適なものに感じられます。

しかし そうした「優しい関係」が何より一番!!
が少しでも損なわれると
たとえそれが些細なものであっても
自分という存在が全否定されたと受け取られてしまうようです。
つまずきの相手を「親友」と感じ
強い鏡像関係が成立していたらなおのこと
取り返しのつかない重大事と感じられます。
それが
つまずきをもたらした相手に対する
物理的な暴力へと
飛躍する場合もあるようです。


佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったか?
それもやはり
こうした
「やさしい関係」のつまずきに端を発しているように思えます。


この女の子にはアスペルガー症候群という軽度発達障害があったのではないか?
と言われています。
私も その幼児期の発達の様子や
作文の文体から それを感じ取りました。
ですからこの事件をここまで痛ましいものとした原因には
それも関与していることは確かです。
しかし 軽度発達障害の子どもたちは
昔も今も存在しています。
それなのに 今の時代になって 
そうした子たちが
世間を騒がす犯罪を犯してしまう背景には
やはり今の時代の問題が隠れているはずです。
社会性の発達の未熟な子を
しっかり導き育ててあげられるものが
社会に足りないのです。

ですから ゴシップを楽しむ感覚で
多くの方が 犯罪の原因を発達障害の中だけに見ることは
あまりに偏った見方ではないでしょうか?


『「ややこしい子」とともに生きる』という本の中で
著者の河原ノリエさんが

「親の育て方が悪いんじゃない。先生も悪くない。君も悪くない。生まれながらのあなたの脳神経のせいよ。」という感性で

クラスで暴走していく子どもには
丁寧にみていけば
その子を煽る問題のありかが
取り巻く環境の中にも必ずあるはずなのに

その子の微細な神経の問題に事柄の原因を帰結させ
発達障害のレッテルを貼り
問題を本人の脳神経の問題に押し込め
その子に対する不適切な扱いなどの議論すべき問題を不問に付して
問題がある子を集団から析出して
特別扱いすることで
誰も傷つかないスマートな解法に向かう…

そうしたあり方を

生まれながらの本人にどうにもならないものだとされながらも
神経的素因というある種の「自己責任」に還元していく
管理教育の危うい構図

として警告しています。
私も同様に感じています。
また犯罪や家庭内暴力の問題も
社会の抱える問題や子どもたちをめぐる問題を
議論することもせず

ここでも
発達障害を唯一の原因のように決め付けていく
態度には疑問を感じます。
そしてそこには
何よりも「優しい関係」を最優先する現代人の心の問題が
見え隠れしてきます。

  注(今日 ねこやなぎさん という方から 
丁寧なコメントをいただきました。
その方はご自身の経験を通して本当の意味での
優しい視点を獲得された方です。
そうした方の作り出す「優しい心のある関係」と
ここで表現する 友達を気遣っているようでいて
じつは自分を気遣っているという若者たちが作る
「優しい関係」は別のものです。)

 
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佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったのか? 3

2008-04-19 17:59:12 | 番外
現在の若者はたちは、自らのふるまいや態度に対して
言葉による根拠を与えることに意義を見出さなくなったそうです。

なぜ…だから…や
観念や信念といったものはなくて

自分がそう感じるから そうなんだ!



からだに感じる感覚 =心や感情の動き

と捉える傾向を強めているそうです。

確かに2~3歳のお子さんをお預かりしていると
眠いだるい=腹が立つ
となって 叩いてきたりします。
その境界がはっきりしない状態が 若者にまで広がっているんですね。

若者たちは
自分の内部から沸き上がってくる自然な感情を 自分らしさの最高の発露

としての絶対的な価値を置いています。
でもこの生理的な感覚や内発的な衝動による直感は
「いま」だけのもの。
言葉によって構築された思想や世界のように継続することができません…。

だから自分にOKを出すために
常に周囲の承認を必要としています。

TVのお笑いタレントは
過去から継続される世間一般の価値に照らして
(かしこいとか芸がうまいとかハンサムだとか)
価値があるのではなくて
常にその時々の周囲の承認によって
価値を決められています。
トップの座にあったお笑いタレントも
皆に認められなくなったとたん いきなり存在価値を失います。

それと似た世界…
自分を努力と経験で磨いていくのではなく
周囲の承認によって 自分の価値が決まるような世界が
現在の子どもを取り巻いているようです。

そんな風に周囲の承認なしに 一時として過せない子どもたちは
友達と常に気遣いあう「優しい関係」を築きます。

筑波大学大学院人文社会科学研究科教授の土井隆義氏は
家庭内暴力のような
親密圏の暴力は
こうした過剰に配慮しあう「優しい関係」から
派生してくる…とおっしゃっています。

長くなりますので次回に続きを書かせていただきます。
 
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佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったのか? 2

2008-04-19 13:45:50 | 番外
インターネットの掲示板に
「容姿や性格についての悪口を書かれた」ことが契機で
殺人事件にまで発展してしまったこの事件。

被害者と加害者の少女は
親友同士であったと言われています。
それで多くの方は
仲良くしながらも実は些細なけんかやいじめが長期間続いていたのかも?
と考えるかもしれません。
ところが 報道で伝えられてくる二人の少女の
交換日記やチャットの記録に残るのは
お互いに対して異様とも思える配慮をしあう姿
なのだそうです。
つまり けんかした形跡なし…

『「個性」を煽られる子どもたち』の著者の土井隆義氏によれば

かつて 親友と言えば お互いに対立や葛藤を経験し
決別と和解を繰り返すなかで ゆるぎない関係を作り上げていく
間柄を指していたそうです。

かつての親友が自分の素直な想いをストレートにぶつける相手だったのに対し
昨今のそれは それを抑え込まなければならない相手となっているそうです。
そうしなければ 
相手と「良好な関係」の維持が
難しいと感じられるようになっているのです。

1999年の東京都青少年基本調査のデーターによると
現在の若者たちは 親しい間柄の人間に対しては
過剰なほどの優しさをしるし
相手が傷つかない細かい気配りをするけれど
第三者に対してはまったくの無関心なのだそうです。
また 親しい間柄でも 自分が傷つくことに
強い恐怖心をもっていて 
とことん議論することを避ける傾向があるそうです。

アメリカの若者は 自分の周囲の人間にあまり気を配らないけれど
困った人がいれば
見知らぬ人のでも積極的に助ける傾向があるそうです。
対して 日本の若者は真逆の傾向にあるのだとか…。

そんなわけで
現在の子どもたちにとって
親密圏の人間関係はあまりに重過ぎるようです。
そしてお互いの対立点が顕在化してしまうのは
耐え難い脅威と感じられるらしいのです。

どうして子どもたちが 他者との対立を避ける「優しい関係」の維持に
懸命になるのでしょう?
そしてそれはどのような危険を含んでいるのでしょうか?

引っ張るようですが 続きは次回に書かせていただきます。

 
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佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったのか?

2008-04-19 07:45:28 | 番外
2004年の6月 
長崎県佐世保市で起こった
小学6年生の女児が同級生を死亡させるという痛ましい事件を
覚えていらっしゃる方は多いと思います。
また翌月にも 小6男児による類似の未遂事件がありました。

この事件をここまで痛ましくしたのは
ゴシップ紙で連日取り上げられていた通り 
発達障害 
フレーミングと呼ばれる衝突の燃え上がりを起しやすいネットの掲示板の特性 
暴力的な映画 などの
影響があったことは確かです。
しかし この事件が起こった背景には
発達障害の有無にかかわらず 
現代に生きている子どもたちの全てに関わる問題が隠れているようです。

私は数年前 元新聞記者だった方に誘われて
その小6少女の心理状態について
その子の書いていた文章から読み解いて研究なさっている方の
お話を聞きに 京都まで行ったことがあります。
まずその日 その場に居合わせた人々を驚かせたのは
その少女の完璧なまでの文章力でした。
確か 小5の時に書いた作文だったと思います。
少女は どこにもたどたどしさがない美しい文章で
日常の一コマを描写していました。
私をそこに誘ってくださった元新聞記者の方は
ひたすら驚いて その才能に感服していました。
ただ私は その文章の中に等身大のその子の姿が見えてこず
どこか流れるコマーシャルのように生活を表現している部分に
それまで学習でお世話してきたことのある
「アスペルガー症候群」の子どもの表現と近いものを感じました。

途中で悪いのですが続きは次回に書きますね。

 
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[ハルハロランチ]に行ってきました♪

2008-04-18 18:31:01 | 番外
今日は「ライブタウン」(フリーペーパー)の編集長をされていた女性に
お誘いいただいて
アジア協会アジア友の会の「ハルハロランチ」に行ってきました。

「ハルハロランチ」とは
金曜日のお昼 12時~1時半に 大阪市西区江戸堀1-2-16山下ビル4F
(電話 06-6444-0587)で
食事と講話を楽しめる会です。
参加費1000円を支払えば 誰でも参加できますので
興味のある方はぜひ連絡を取ってみてください。

ランチは8品で 肉 魚 野菜 の3品と 麺類 五版もの 手作りパン 
ケーキなどのおいしい手料理です。
今日の講話はオーストラリアで移住者と難民への英語教師をされている方の
お話でした。生の英語が聞けて うれしかったです。

4月25日の講話は 天野澄子さん 
スリランカに行っておられたシェフの天野さんが
スリランカのお料理を通してスリランカを紹介してくださるそうです。

5月2日はお休みで

5月9日の講話は
NHKのちりとてちんに出演してタレント活動もされていた
サェーハンさん。(内モンゴル自治区)
モンゴルの琴 ヤトグの演奏が聴けるそうです。

ハルハロランチって ホームパーティーみたいな感じです。

今回 お食事に誘ってくださった方とは
以前 地域の「歴史ガイド」のイラストを頼まれていたときに
出会いました。写真下のイラストです♪
慣れない和風のイラストにとまどいながら描きました。
そして今回は
アジア協会アジア友の会の事務局長さんを紹介していただき
「子どもにアジアのことを伝えるために絵本を作ろうと思っているので、ぜひそのときは…」といったうれしいお話もいただきました。
いろいろなところに
出会いや縁があるんですね。
実は 娘が小さいときから難民の問題と動物虐待を防ぐ問題に強い関心があるんです。
そんな意味でも 良い出会いができたとうれしくなりました。
 
 
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どうして見えないの?

2008-04-17 09:16:10 | 番外
私の子どもの頃
父は使いたいだけギャンブルにお金をつぎ込んでは
負けたいらだちを母への暴力という形に
変えていました。
父がげんこつを振り上げて
母をボコボコと殴り始めると
決まってまだ幼稚園児だった妹が
父の前に飛び出していって 母に覆いかぶさるようにして
「お母さんをたたかないで!」と叫びながら
死の恐怖にも似たものと戦いながら
母を守っていました。
そんなとき 父親っ子でもあった私は
「けんんかしたら どっちも悪い。
お父さんもお母さんも悪い。私はどちらも味方はしないよ。」と
強い口調で言い放っていました。
子どもだったとはいえ
暴力を振るう父と
振るわれる母のどちらが悪いのかは十分承知していたと思います。
また 暴力への恐怖から そんなもの言いになっていたのでも
ないと思います。

というのも 同じ時期に外で子どもだけで遊んでいたときに
妹と妹の友達が幼児にいたずらするとうわさされていた郵便局の配達員に
手を引かれて団地の裏に連れて行かれそうになったことがあったのです。
その時には 
殺されるかも知れないという恐怖(そういううわさを耳にしていたので)を振り払って その大人の男性から妹たちを奪い返していましたから。

幼児の頃から 私はとても直感的な子どもで
その場の空気の流れに敏感でした。
そのため そこで私も妹とともに泣きながら母をかばうという
悲劇の一シーンに飛び込むことが
事をさらに荒立てることに 感覚で気づいていたのかも知れません。
あえて ここで母に冷たくし
父に暗に味方しているように振舞うことで 父の激しい怒りが少し静まることを
肌で感じていました。

ほぼ毎日のようにそんな恐ろしい晩がやってくるというのに
朝が来るとまるで童話の中のような
明るい優しい世界がありました。
母は私と妹に手作りのおやつを焼いて
手作りの服を着せ
絵本を読んでくれ
礼儀正しく人に接するようにしつけようとしていました。
母がちょっと少女趣味なあこがれで子育てをしていたことは
私が近所のやんちゃ3きょうだいの(女男男)家に遊びに行って
「こんにちは。お邪魔します。」とあいさつすると
「おや、お嬢様が遊びに来たよ。お母さんは幼稚園のスモッグにまで
アイロンをかけているんだね。」とからかうように
言っていた言葉からもわかります。

日中 母の最大の関心事は妹のしつけでした。
妹は友達から人気のある明るい活発な気質でしたが
聞き分けがなく わがままな一面もありました。
近所の子がお昼ごはんを外で食べると聞くと
自分も外食すると言って 2時間近くわめきちらして泣いていたり
近所の人が妹に話しかけると 足でけったり つばを吐きかけたりしていました。
そして姉の私と平等…というのが がまんならなくて
全部自分の分だ!と いつも激しく主張するのです。

あまり物に執着しなかった私は
自分が我慢して 妹に譲ることが多かったのですが
それを不憫がった母は 「この子はいい子で損をする」と私を猫かわいがりして
妹を叱ってばかりいました。

妹が叱られているとき私は 夜になると父のげんこつから母をかばって
母に覆いかぶさるようにしている妹の姿が目に浮かんできて 
とても悲しくなりました。

どうして母は 朝になるとそのことを忘れてしまうんだろう?
どうして妹ばかり叱られるんだろう?
私には見えるのに どうしてお母さんには
いろんなものが見えないんだろう?

と考えていました。
今思うと 母はあまりにも辛い現実に
心がいっぱいいっぱいだったのです。
ですから近所の人の どんなにささいな悪口も冷たい視線も
がまんできないほど辛いものだったのです。
しつけのよい かしこいよい子を育てている母親として
周囲の人に認め続けてもらわなければ
母はその日一日を過すことすら 苦しくてたまらなかったのでしょう。
けれど妹はいつも母の期待を裏切って
近所と揉め事を起します。
よそのお家のテーブルに上がった…とか
近所の子とけんかして 団地の壁にその子の悪口を書いた…とか
そんなことが団地中を巻き込んでの騒ぎとなった時代でした。

ですから 母は まるで妹の母への深い愛情やその純粋な心が
見えないかのように
妹に向かえば 注意と小言とため息と叱責を
繰り返していたのでした。
それから長い年月 母と妹は戦い続けました。

今となっては 重い病に倒れた母を 親身に看病し続けたのは
ワガママ放題してきた父でした。
病から来るあまりの痛みに母がわがままで怒りっぽい一面を出し始めたとき
父は温和になりおとなしくなって行きました。
大人になるにつれ私は 母と妹がとてもよく似ていることに気づきました。

だれが悪いとか良いとか…もうそれはどうでもいいこととなりました。

でも 母にはどうして妹の心が見えなくなっていたのだろう…?

とその頃の出来事を思い出すたびに ふとその疑問がぶりかえすのです。

 
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今 子どもに良い未来のイメージをプレゼントするということ

2008-04-15 21:47:16 | 番外
「こころのチキンスープ2」ダイヤモンド社
という本に
「魔法の小石」というお話が載っています。
とても好きな話なので 簡単に紹介させてください。

ある晩 遊牧民の群れが夜を過すための支度をしていると
突然あたりが光に包まれ
聖なる声が聞こえました。
みな何か大切なお告げがあるものと期待したのですが
「できるだけたくさん小石を拾いなさい。その小石を袋に入れ
一日旅をしなさい」という ちょっとがっかりするような内容でした。
大いなる宇宙の真理について啓示が下ると思ったのに
小石を拾うと言うつまらない作業とは…とぶつぶつこぼしながら
それでもいくつか小石を拾って
一日旅をしました。 
翌日 袋から小石を取り出してみると
なんと どの小石もダイヤモンドになっていたではありませんか!
人々はダイヤモンドに変わったことを喜び
もっと拾ってこなかったことを悲しみました。

このお話を地でいった実話が紹介されています。
著者が教職に就いて間もない頃 アランという中2の男の生徒がいました。
問題を起し 停学処分を受け 窃盗にも手を出していた生徒でした
その頃 著者は 名言を毎朝暗誦させていました。
出席を取るとき 前半を先生が言い 後半は生徒が言います。
言わなければ欠席扱いです。
著者の教え子たちは
自分の未来が明るくイメージできるような名言を
1年で150も暗唱していました。

でもアランは誰よりも このお決まりの時間を嫌がっていたのだとか…

5年後 著者のもとにアランから電話がかかってきました。
アランの話では 少年院に入れられた後
問題を起して鑑別所に送られていたのだそうです。
そしてついに そんな自分に嫌気がさして カミソリで手首を切りました。
「ねえ、先生。そうやって自分の命が消えかかっていくのを
感じながら横たわっていたときです。
いきなりあのばかばかしい文句が頭に浮かんできたんです。

先生がいつか20回もおれにかかせたやつですよ。
『努力し続けている限り、失敗はない』。
こいつの意味が突然わかったんです。おれが生きている限り
おれの人生は失敗じゃない。
でも もし自分で命を絶ってしまったら
失敗そのものになっちゃうじゃないか。そう思ったんです。
それでおれは残りの力を振り絞り 助けを呼んだ。
新しい人生を始めたんですよ。」

アランが名言を学んでいた頃
それは小石に過ぎませんでした。
でも ぎりぎりの状況に追い詰められ導きを必要としたとき
それがダイヤモンドに変わったのです。
電話をしてきたとき アランは大学で特別コースを受講して 前向きに生きるようになっていたのです。

このお話を読んだとき
私は 死の間際に思い出したのが
親や教師の悲しそうな涙やため息でなくてよかった…と
胸をなでおろしました。
そして自分も
今は たとえ聞いていないように見えても
たくさんの小石を子どもたちに拾わせておこう!と思いました。

本人は気づいていないその子の良いところ。
困ったとき慰めてくれたり励まされる言葉。
明るい未来を作った人の話。
人生に役に立つ言葉。

それらはいつかダイヤモンドとなる小石です。

例えば

常日頃から考えていることが、人生を形作っていく。それは、
いろいろな人々との交わりより人生に大きな影響を及ぼす。
親友でさえこれほどの影響力はない   J・W・ティール

いつか、
本当のあなたを認め、
あなたの可能性を見出す人との出会いが訪れる。
その不思議なめぐり合わせこそ、
あなたが力を最大限に発揮させるきっかけとなるだろう。ラスティー・バーカス

など。子どもにぜひ贈りたい小石たちです。

 
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「いい人」のまま発達障害の子を育てているとどんな問題が起こるの?2

2008-04-15 12:47:20 | 教育論
「いい人」が発達障害の子を育てていると
どういう問題が起こるか?
という話の続きです。

日本人は「いい人」が多いです。
自分さえ我慢すれば…
自分が頑張れば…
と前向きに努力します。
しかし そうして自分を犠牲にして頑張っている限り
解決しなくてはならない社会の問題は
個人の苦労の中に消えてゆきます。

海外では 発達障害児の教育環境が日本よりずっと行き届いている国が
あります。
それは ひとりひとりが 先生も親も
出来ない無理をせず
問題は問題として ワガママなほどに社会に要求してきた
からでもあると思います。
問題が明るみに出ないと
大変な人が 大変だと騒がないと…

だれもがすごい自己犠牲を払って
問題を抱え込んでいる限り
世の中の人は そんな問題があることすらしらずに
生活しているのです。
そこで「いい人」が控えめに 
すごく遠慮がちに
「発達障害児」の教育環境を少し整えて欲しいです…
と申し出たところで
大騒ぎして「これが必要だ!!」とわめいている人たちに
予算を持っていかれるがオチですよね。

「いい人」は かわいそうな人や苦しんでいる人を見ると
親身になって相談に乗り 慰め 励まします。
もちろん それは 悪いことではありません。

でも 知らないうちに
他の人の苦しい現実や悲しみや不幸を
たくさん目の当たりにしてしまいます。
そして世の中の悲しい部分に目が行きがちになります。
引きこもりになった子がいると聞けば
自分の事のように心配します。

潜在意識というのは
日ごろ自分が考えていることを引き寄せて
現実にしていくと聞きます。
もし 誰か苦しんでいる人のことを一生懸命思いやるなら
それと同じかそれ以上の明るい楽しい話題を
自分のためにプレゼントしなくてはならないはずです。
意識してそうしていかなければ
未来を良いものにしていくことは難しいのではないでしょうか?

発達障害のある子の未来が 大変であるのは現実です。
でも 発達障害があっても偉業を残した人
普通に明るく働いている人
LDがあっても先生になったという人
多くの成功した人々が語る子ども時代が
発達障害の子の育ちとそっくりである…というのも
現実です。
「いい人」は「いい人」であるがゆえに
そうした明るい話題
明るい未来のイメージを持ちにくくなっています。

そのことに気づいて
普通に「いい人」になって
苦しんでいる人の相談に乗り 慰め 励ますのは
すばらしいことです。
でも無防備なまま「いい人」でいることは危険なように思います。


発達障害の子には
明るい未来のイメージが必要です。
他の子よりどんなに遅れを取っていても
進む方向さえ間違っていなければ
時間はかかっても いずれ行き着くからです。

 
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「いい人」のまま発達障害の子を育てているとどんな問題が起こるの?

2008-04-15 07:47:30 | 教育論
発達障害について知識を持っている人が
発達障害の知識がなくて 子育てに苦しんでいる人を見ると
つい自分のわかっていることを教えてあげて 
少しでも楽になってもらいたい…と感じます。
でもそれは相手にとっては 攻撃やいじめにしか感じられない場合は
多々あります。

前回紹介した いい人悪い人の「バランスの法則」にしても
いい人でがんばってもがんばっても苦しいことばかり続いている人に
そうした話を ひとつの参考にでも…と伝えようとしても
200パーセントがんばりきって生きている人には
200パーセントじゃダメだ!300パーセントがんばれ!
と言われているようにしか伝わらない時が
あります。
でも「いい人」は、がんばって 少しがんばらないようにして
ふつうの「いい人」になるように意識を向けていかないと
発達障害の子を育てていくのは はてしない苦行となってしまいます。

なら「いい人」のまま 発達障害の子を育てていると
どんな問題が起こるんでしょう?

私の母もそうでしたが
「いい人」はいつ何時も
周囲の期待や要望にきちんとこたえようとして
暮らしています。
学校で自分の子どものせいで
先生が困り 友達が傷つき 祖父母が嘆けば
なんとか子どもをしつけよう 自分がなんとかしようと
がんばります。

でも学校で先生が困るのは
何パーセントかは必ず発達障害の子がいることは
確率上わかっているのに
教育システムが整っていないからで 
現場の先生のせいでも 親のせいでも 子どものせいでもありません。
だから発達障害の子どもが学校で問題を起したら
親は悩むよりも
その事件のおかげで 少しでも「発達障害児」のための教育環境を考える
良い機会を提供した…くらいの気持ちで
いてもいいのだと思います。

たとえば ライオンとシマウマをいっしょの檻で飼っている動物園があったとして
ライオンがシマウマを傷つけたとします。
それは十分えさを与えていなかったと言う理由で
飼育係が責められるものでも
きちんとしつけていなかったととライオンの親が責められるべきでも
ライオン自体が責められるべきでもありませんよね。
問題はその動物園のシステムにあります。

また心臓病に対応する設備がない病院で
心臓病で患者さんが亡くなったとすれば
悪いのは
現場の医師の力不足でも
病気になった患者でもありません。
まして その患者を育てていた親が「栄養や健康に気をつけていたか…」など
遠まわしに責められても 方向がまちがっているのは誰にもわかります。

でも それにもかかわらず
「いい人」は そんな中でも それを自分の問題として捉え
責められたり 
何か起こったりすれば
悩み 苦しみ 反省します。
またなんとかしようと もがきます。

そうする一方 子どもに対して優しい
良い親でいようと
自分に無理をさせます。
怒るのが当然の場面でも
怒ったという理由で 過度に反省します。

またお友達に暴言を吐いてしまう
暴力を振るってしまった…という事件も
いじめられる子の親の苦しみも怒りも絶望感も
いじめてしまう親の苦しみも怒りも絶望感も
どちらも比較のしようがないものです。

この場合 いじめられた側が感情的になって 
いじめた側を責めて傷つけてしまいがちです。
でも責められた発達障害児を持つ側の親だって
苦しいのです。大変なのです。
苦しいのはお互い様なのですから
「苦しみの表現」としては 非難を受け止めても
自分を責めたり 深く傷つく必要はないのだと思います。

話が長くなったので続きは次回に書きますね。

 
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良い人と悪い人~バランスの法則~って何?

2008-04-14 15:36:11 | 番外
良い人と悪い人の「バランスの法則」というのをご存知ですか?

心理学では 一方が「良い人」役を取ってしまうと、もう一方は「悪い子ちゃん」になってしまう…と言われています。

家族の中のバランスとしたら
家族のことを大切にするいい夫をしているのに、息子は金属バットを振り回してる・・・なんて形に出てくるのだそうです。

くわしいことはこちらのブログでお勉強してくださいね。

私の子どもの頃は「いい子」でした。
そして母は「いい人」でした。
そしてこのバランスの法則の通りに 母が「いい人」として生きるほど
父は暴力やギャンブルに走り
妹は荒れていました。

どうしてこんなに愛情深い優しい母が
こんな苦しい思いばかりしなくてはならないのか…?
私は不思議でなりませんでした。
母は父や妹に二度と立ち直れないほどにひどい目にあわされてもなお
ちょっと愚痴るくらいで
すぐに父や妹の事を案じる優しい思いを取り戻し
一生懸命生活していました。
子どもの頃の私は
いつも母の愚痴を涙を流して聞きながら
心理学書や教育書 宗教書などさまざまな本を読みあさりました。

妹と母とが毎日のようにぶつかり合い
傷つけあう中で
妹は妹として とてもかわいく感じていた私は
ここでもまた深く苦しみました。

今 大人になった私は
自分の経験してきたことを
また別の次元から眺めています。
そして「いい子」だった私は
「いい人」を経て 普通の「いい人」となって
快適に暮らしています。

そして 「いい人」としてがんばってるのに
次々難題が突きつけられて 苦しみばかり味わっている方を見ると
ついおせっかいに
そのことを伝えたくなります。

今 150%、200% 「いい人」をしてしまって問題が起こっているのなら
少し「いい人」のレベルをさげて 100%くらいの「いい人」になったら
すごく暮らしが快適だし 
問題も起こりにくくなるんです。

人と人はかかわりの中で暮らしているので
一人が「いい人」の役割を引き受けすぎると
もう一人は「悪い人」として生きざるえなくなってしまう
ことがあるんですね。
それは精神的な病や発達障害が関わっている場合でも
原因はバランスだけに寄らないとはいえ
ありえると思います。
発達障害の子どもさんを育てていると
「周囲に迷惑をかけさせないようにしよう」とか「子どもが困らないようにしつけを…」とかがんばりすぎてしまいますが
ある部分 開き直って
子育てが大変な分 自分に寛容になったり ちょっとワガママな部分を外に表現したり…としていると あんまり子どもの問題は大きくならないようです。
子どもだって いくら発達障害だからって
家族と違いすぎて自分だけ「悪」をもっている存在…
となれば疎外感も感じますが
「お母さんだって汚い言葉も使うじゃないか、ぼくと同じだ。」といった
感覚を持てたら
ほっとして それほど荒れることもないんですね。

150%いい人をしていて、ようやく認めてもらっていると思っていたら 
50も手放したら皆から認められなくなってしまうんじゃないか?
って怖れを抱いてしまうかもしれません。

親から期待されることが多かったり、あるいは、犠牲をしてしまうパターンをもっていると、確実にこの罠にはまってしまうのだそうです。

でも、実際は元々優しいからこそ、150や200の優しさを出そうとするわけなので そうした人は本当に優しい人。
そして、そんな頑張り屋だから
人からの信頼を得ることはそう難しいことではなくて
普通にしていれば 自然と人から慕われ 信頼されるようになるのだそうです。

私も普通に「いい人」にするようになってから
信頼できる友人も増えたし
子どもたちからも慕ってもらえて
一生懸命「いい人」だったころより
ずっと幸せです。

カウンセリングの現場では
普段の意識付けのために、

「思い切って悪い子ちゃんになってみましょう」
なんて宿題が出たりするそうです。

いい人にとっては悪い子ちゃんになるくらいがちょうど良い加減なのだとか…。

実際、ちょっと悪いことしてみようかな~と思い巡らせて
アイデアが浮かべてみると…
スッキリする場合もあるんだとか…
心の世界は奥が深いですね。


私が大好きなブログです。良かったら遊びに行ってくださいね。↓
私が愛する、宇宙人のような問題児の記録☆

 
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「発達障害」は「発達障害」、「個性」は「個性」。

2008-04-13 17:22:45 | 教育論
先週の木曜日
高機能自閉症の小3の☆くんが レッスンに来てくれていました。
学習面はしっかりしたもので
最高レベルの国語問題集でしたテストは90点。
算数も1学年上のレベルを難なくマスターしていきます。
にもかかわらず ふらりと立ち上がっては
赤ちゃん向けのおもちゃで遊び始めるのです。
学習面と社会性の開きは ずいぶん大きいようです。
軽く注意すると
「そ~でした、すいませんすいません。」とぺこぺこ謝りますが
数分もしないうちに忘れてふらふら~。

この子だけでなく どの子もなんですが
通ってくるようになって何度も会ううちに
その子の「個性」としての愛らしさやおもしろさが前に出てきて
発達障害である事実やそこから起こる問題は
背後に隠れていきます。
何かがない限り忘れてしまう…といった感じかも知れません。

さっきの☆くんにしても
アンバランスな部分も含めて魅力的なのですが
それは 「障害を個性として認める」と言うのとは
ちょっとちがう気がします。
その子にしかないユニークさは
ふつうとかふつうでないとか
そうした比較する作業を抜きにして
「好き」の気持ちに似ています。


レッスンに通ってくる子の中には
親御さんに反抗したり 暴力を振るってしまう子もいます。
でもそうした出来事を通してかかわっていくうちに
あとから思い出し笑いをしそうな
その子らしいユニークさにも触れることになります。
ひどい暴言を吐いちゃう一方
決められた約束事をまじめに守っていたりなど…。
「そんなに生真面目だと緊張して 心が荒れるよ~!」とアドバイスしたくなります。

発達障害のある子には
可愛がるだけでなく
将来 働いていけるような社会のルールを
教えていってあげなければなりません。
学習面も「個性」として放っておくのでなく
その潜在能力が十分開花できるようにお手伝いしてあげる必要があります。

それでも 普段は「発達障害」なんて言葉を忘れて
その子の「個性」と
自分の「個性」とで
お付き合いしていきたいな~と考えています。


「発達障害」を「個性」として見るのでなくて
「発達障害」は「発達障害」
「個性」は「個性」ですから。

 
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割り算を教えるコツ

2008-04-12 20:47:23 | 算数
写真は「九九でビンゴ」というゲームです。
わざわざゲームを買わなくても
お家で手軽に手作りできますよ。

九九の答えとなるカードを作ります。
1~6までのふつうのさいころと
7,8,9、と☆を書いた手作りさいころを用意します。

☆にはどんな数を入れてもいいというルールです。

写真のように
6と☆が出たら、
「☆に6を入れる!」と言えたら 36が取れます。

こうした遊びをしていると
いつのまにか割り算ができるようになっていますよ。

 
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子どもの頃の風景

2008-04-09 20:35:22 | 番外
岩波少年文庫の創刊に携わり
数々の児童文学の名作を世に送り出した石井桃子さんが
お亡くなりになりました。

子どもの頃に出会う本を
その人の考え方なり生き方なりを決定するものとして
大切に大切に捉えて
児童文学の普及と質の向上に一生を捧げた方でした。
今日 本屋で なつかしい石井桃子さんの訳書を見つけ
思わず買ってしまいました。

「100まいのドレス」です。
差別やいじめをテーマに描かれた子ども向けの本ですが
「いじめはいけない!」と大人の考えを押し付けるのではなく
読んでいる子どもの心に
純粋な優しさや正義感が 自然とあふれ出してくるような
良書です。
本当に本当にすばらしい本です!!

ぜひ大人の方もいっしょに読んで
感想を語り合ってくださいね。

石井桃子さんのおっしゃるとおり
今の私の考えを形作っているのは
子ども時代に読んだ本の数々です。
今度は私が
子どもたちに 一生の宝となる精神的な財産を
与える役をしていきたい!と考えています。

話は変わりますが
私の子ども時代の印象に残っている2つの出来事を紹介させてください。

鳩のフン公害が問題になっていた頃のお話です。
あるとき ベランダの隣の家との境に
鳩が巣を作ってしまいました。気づいたときには
ヒナの鳴く声が聞こえていました。
「鳩の巣を見つけたらただちに撤去すること」という
団地の決まりがあったのですが
両親は さすがに生まれたヒナごと巣を撤去する…ことは
できなかったようです。
そこで
ヒナが巣立つ日まで 家族で罪人のように
コソコソして暮らしていました。
けれど ついに誰かに通報されてしまいました。
あげくに団地の世話役の方が我が家にすごい剣幕で押し入ってきました。
ベランダでは灰色の大きく育ったヒナが2羽
ちょこんと巣におさまっていました。

次の瞬間
その世話役の人は 怒り狂いながら
私たちの目の前で ヒナの首をボキンボキンと折ってしまいました。
未だに ヒナの首がプランっと垂れ下がった映像を
忘れることができません。
当時の大人の世界のルールでは 鳩は悪の存在で
ルール違反も 即罰せられて当然のことなのでした。
でも子どもの私は それとは別次元で
その出来事を静かに見つめていました。

別の時
私は友達と子猫を見つけました。
私も友達も飼えません。けれど子猫がノミだらけだったので
せめてお湯で洗ってやって もう一度この場所に戻しておこう…と
決めました。
ところが 子猫を洗ったあとで 元の場所に置いていく段になって
「あんたたち猫を捨てるの?」と知らない大人から
厳しい注意を受けることになりました。
おまけに 情が移ってしまい
私も友達も猫を抱いたまま ひたすらうろうろ
ほっつき歩いていました。私は団地の決まりで猫は飼えず
友達はすでに猫をたくさん飼っていて 親から厳重注意を受けていました。
しまいに 私も友達も涙をこぼしながら
友達の家に猫を連れて行きました。
友達のお母さんは 私の顔を見るなり「この猫拾いがー!!」と言いながら
私のほっぺたを引っ張ったあとで
ため息をつきながら子猫を引き受けてくれました。
実は そこの家の前の猫も 前の前の猫も私が拾ってしまった子でした。
今思うと 本当にいっぱい迷惑をかけました。
○ちゃんのおばちゃんありがとう!!今も感謝しています!

子ども時代って こんな風に傷ついたり癒されたりの連続でした。
そうした経験の中で
何が正しくて 何が間違っているのか
本当のものは何か?
感じたり考えたりしながら 成長してきたんですね。
なつかしい童話を読みながら そんな子ども時代に思いを馳せました。

 
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