虹色教室では、幼児や小学生、軽度発達障害の子とともに
「プチ哲学」という1~2コママンガをもとにして
時々、哲学について学ぶときがあります。
今回、6歳のYくんと
「前提条件」ということについて
こんな2コママンガで学習しました。
1コマ目
「うっかりして自分が古い電池か新しい電池か
わからなくなったんです」
と電池君がラジオさんにたずねました。
ラジオさんは
「そんなのすぐに教えてあげるよ」
と言いました。
2コマ目
ラジオさんの新しい電池を取り出して
自分がラジオさんのおなかの中に入った先ほどの電池君は、
だまって寝ているラジオさんに
「ねぇ、どうして何もおしえてくれないんですか?」とたずねてから、
「あ!そうか!」と気づきました。
このラジオさんは、電池君の質問に答えません。いえ、答えることができないのです。それは電池君が古い電池だったからです。
この世の中には、その前提条件で、すでに
「ある事がわかっている」ことが、
おうおうにしてあるようです。
ようやく、やっとのことで、終結に向かった
今回のネット上でのトラブルは、
この哲学のちょっとした知恵「前提条件が助けてくれる」ということに
最後の最後になって、助けられたようです。
多くの方の関心は、
あちらのブログ主の言うことは、すべて真実で、向こうの言うとおり私が嫌がらせをしたり、向こうで自作自演のコメント欄の荒らしをし続けたので、向こうの読者である方々が、こちらのブログを非難してきているのか?
あちらのブログ主は、何もしておらず、私も何もしておらず、勝手な読者たちが、ブログの炎上を願って、いたずらコメントをしているのか?
実はあちらのブログ主が、騒ぎの張本人で、自分のブログのコメント欄をかき回したり、私のブログに嫌がらせをしたり、うその報告をしたりしているのか?
その3つのどれが正しい答えなのか知りたかったのだと思います。
前回のコメント欄にも書いたのですが、
まずあちらの方が、
擁護する方々がおっしゃるとおり奥ゆかしく立派な方で、少なくとも良心的な方だと仮定します。
なら、私が施設の実情をお知らせしたときに、どうしてブログの中でそのことを取り上げなかったのでしょう?
もしかして、自分の勧めで、さくらさんという方は子どもさんをお預けになるかも知れず、そこで大きな問題が起こるかも知れないのです。
またブログの読者が、施設に預ける決意を固めていたかもしれないのです。
なぜ、そのことに無関心でいられるのでしょう?
さくらさんのお子さんは男の子だからでしょうか?
もし男の子が、夜いっしょの部屋で寝かされている女の子との間に間違いを犯したとき、どういう結果が待っているでしょう?
おそらく施設から、「お宅の子がとんでもないことをしでかしてくれた」と親に連絡が来るでしょう。そして、女の子の親への示談金を払うなりして、事は静かに処理されるでしょう。もしかして施設にも迷惑をかけたお詫びの金品を支払わなくてはならないかもしれません。
男の子の親は、家での問題行動が、とうとう外にまで及んでしまったと悩むでしょう。
また、ただ、信じていた方に裏切られたという経験で終わるのかもしれません。
そうした誰でも推測がつくことに、どうしてあちらのすばらしいという方は、無視を決め込めるのでしょう?
こういう場合、良心的な人なら、すぐさま情報元と連絡を取り、
詳しい事情を調べて、ブログ内でお詫びの発表をすることでしょう。
たとえ、その寺と私のテレビで見た寺が別のものだったとしても、
今一度、子どもの安全についてブログの中で考えを述べるのでは
ないでしょうか?
それなのに、たとえ私からひどいコメントがきたところで、
自分の被害にばかり気をとめているのはなぜでしょう?
つまりブログ主は被害者だと訴えたことで、
自分が良心的でないことを証明してしまったんですね。
それが↑で学んだ「前提条件」ということです。
また、このプチ哲学には、
「裏の裏は表」という学びも載っています。
今回の事件を例に挙げると、あちら側を擁護するという人物が、
こちらで自分側の正しさを証明するために、
騒げば騒ぐほど、
私が向こうに出かけては、嫌がらせをしていたという確率は低くなります。
一方が問題行動に出ると、
その行為のおかげで、私の無実は証明されていくのです。
ある事を知るために、ある事ではないことを知る方法があるんですね。
そして、これまでのこと全てが、私の自作自演で、
今日の記事を書くためにやってきた…というトンデモストーリーに
持ち込みたい人がいても、
残念ながら読者はそれほど浅はかではありません。
今回の事件を操作していた人物にとって、
もっとも想定外だったもの…
それは、「ブログの読者はみんなバカではない
」
という事実なんでしょう。
これで終結!
そう信じています
最後なのですが、ひどい言葉を書き連ねていた人は、
それほど底意地の悪い特別な悪人なのでしょうか?
私の答えは、「違う」と思います。おそらく別の人になりすましでもしなければ、
当然してもよい主張すら遠慮してしまう、
また汚い言葉も使えない、
「いいひと」なんだろうと思います。
明日からまた頑張ろうと思えば大丈夫♪
普段から、すこし嫌な自分も出していけば、
そして自分にもう少し優しくなれば、
ちょうどそこで、みんなから信頼される良い感じの「いいひと」になれると
思いますよ
↑励みになります。応援ポチをお願いします
引用は「プチ哲学」 佐藤雅彦 マガジンハウス