ADD?先生の発達障害児 教育応援サイト

ADD?傾向のある塾教師がADHDやアスペルガー症候群の子にどうかかわり教えたらいいのか模索していくブログです。

「前提条件」ってなあに? 子どもと学ぶ哲学と トラブルの終わり

2008-04-23 17:15:16 | 国語
虹色教室では、幼児や小学生、軽度発達障害の子とともに
「プチ哲学」という1~2コママンガをもとにして
時々、哲学について学ぶときがあります。

今回、6歳のYくんと
「前提条件」ということについて
こんな2コママンガで学習しました。


1コマ目
「うっかりして自分が古い電池か新しい電池か
わからなくなったんです」
と電池君がラジオさんにたずねました。
ラジオさんは
「そんなのすぐに教えてあげるよ」
と言いました。

2コマ目
ラジオさんの新しい電池を取り出して
自分がラジオさんのおなかの中に入った先ほどの電池君は、
だまって寝ているラジオさんに
「ねぇ、どうして何もおしえてくれないんですか?」とたずねてから、
「あ!そうか!」と気づきました。

このラジオさんは、電池君の質問に答えません。いえ、答えることができないのです。それは電池君が古い電池だったからです。

この世の中には、その前提条件で、すでに
「ある事がわかっている」ことが、
おうおうにしてあるようです。

ようやく、やっとのことで、終結に向かった
今回のネット上でのトラブルは、
この哲学のちょっとした知恵「前提条件が助けてくれる」ということに
最後の最後になって、助けられたようです。

多くの方の関心は、
あちらのブログ主の言うことは、すべて真実で、向こうの言うとおり私が嫌がらせをしたり、向こうで自作自演のコメント欄の荒らしをし続けたので、向こうの読者である方々が、こちらのブログを非難してきているのか?

あちらのブログ主は、何もしておらず、私も何もしておらず、勝手な読者たちが、ブログの炎上を願って、いたずらコメントをしているのか?

実はあちらのブログ主が、騒ぎの張本人で、自分のブログのコメント欄をかき回したり、私のブログに嫌がらせをしたり、うその報告をしたりしているのか?

その3つのどれが正しい答えなのか知りたかったのだと思います。
前回のコメント欄にも書いたのですが、
まずあちらの方が、
擁護する方々がおっしゃるとおり奥ゆかしく立派な方で、少なくとも良心的な方だと仮定します。
なら、私が施設の実情をお知らせしたときに、どうしてブログの中でそのことを取り上げなかったのでしょう?
もしかして、自分の勧めで、さくらさんという方は子どもさんをお預けになるかも知れず、そこで大きな問題が起こるかも知れないのです。
またブログの読者が、施設に預ける決意を固めていたかもしれないのです。

なぜ、そのことに無関心でいられるのでしょう?
さくらさんのお子さんは男の子だからでしょうか?
もし男の子が、夜いっしょの部屋で寝かされている女の子との間に間違いを犯したとき、どういう結果が待っているでしょう?
おそらく施設から、「お宅の子がとんでもないことをしでかしてくれた」と親に連絡が来るでしょう。そして、女の子の親への示談金を払うなりして、事は静かに処理されるでしょう。もしかして施設にも迷惑をかけたお詫びの金品を支払わなくてはならないかもしれません。
男の子の親は、家での問題行動が、とうとう外にまで及んでしまったと悩むでしょう。
また、ただ、信じていた方に裏切られたという経験で終わるのかもしれません。
そうした誰でも推測がつくことに、どうしてあちらのすばらしいという方は、無視を決め込めるのでしょう?
こういう場合、良心的な人なら、すぐさま情報元と連絡を取り、
詳しい事情を調べて、ブログ内でお詫びの発表をすることでしょう。
たとえ、その寺と私のテレビで見た寺が別のものだったとしても、
今一度、子どもの安全についてブログの中で考えを述べるのでは
ないでしょうか?
それなのに、たとえ私からひどいコメントがきたところで、
自分の被害にばかり気をとめているのはなぜでしょう?

つまりブログ主は被害者だと訴えたことで、
自分が良心的でないことを証明してしまったんですね。

それが↑で学んだ「前提条件」ということです。

また、このプチ哲学には、
「裏の裏は表」という学びも載っています。

今回の事件を例に挙げると、あちら側を擁護するという人物が、
こちらで自分側の正しさを証明するために、
騒げば騒ぐほど、
私が向こうに出かけては、嫌がらせをしていたという確率は低くなります。
一方が問題行動に出ると、
その行為のおかげで、私の無実は証明されていくのです。

ある事を知るために、ある事ではないことを知る方法があるんですね。

そして、これまでのこと全てが、私の自作自演で、
今日の記事を書くためにやってきた…というトンデモストーリーに
持ち込みたい人がいても、
残念ながら読者はそれほど浅はかではありません。

今回の事件を操作していた人物にとって、
もっとも想定外だったもの…
それは、「ブログの読者はみんなバカではない
という事実なんでしょう。

これで終結!
そう信じています

最後なのですが、ひどい言葉を書き連ねていた人は、
それほど底意地の悪い特別な悪人なのでしょうか?

私の答えは、「違う」と思います。おそらく別の人になりすましでもしなければ、
当然してもよい主張すら遠慮してしまう、
また汚い言葉も使えない、
「いいひと」なんだろうと思います。
明日からまた頑張ろうと思えば大丈夫♪
普段から、すこし嫌な自分も出していけば、
そして自分にもう少し優しくなれば、
ちょうどそこで、みんなから信頼される良い感じの「いいひと」になれると
思いますよ

 
↑励みになります。応援ポチをお願いします
引用は「プチ哲学」    佐藤雅彦  マガジンハウス

「マイナスである障害の部分をプラスである個性が補っている」ということ

2008-04-23 08:40:31 | ADHD
いまだに静まっていないネットのトラブルの最中
昨日まではブログの閉鎖も考えて疲れていた私の心が、
多くのこれまで私を支えてくださった方々の励ましと、
新しくこのトラブルを通して出会った方との出会いへの感謝の思いで、
今朝は少し明るく持ち直しました。

特に、ひまさんという高機能自閉症のお子さんを育てている親御さんの
息子さんのお話には、
心底、救われたような心地がしました。

このブログでつづってきた
子どもの良い部分を見つめていこうという思い、
自己肯定感を育てていきたいという願いは、
発達障害児をかかえ、苦しい生活に翻弄されている方々にとって、
前向きになれと良い親であれ、という
プレッシャーをかける意味しか持てないのだろうか…?
そんなもやもやした悲しい気持ちの中に沈んで、
それまで書いてきたような記事が書けない心理状態にありました。
しかし、そこから私を
救い出してくださったのが、このひまさんからのコメントでした。


 今年度は二男が6年生で小学校生活最後の年となりました。
 高機能自閉症を秘めた息子は多くの先生や職員の方々、そして何より周りの子供たちの理解と支援により、1年生から1日も学校を休まずに(忌引きやインフルエンザなどの出席停止をのぞき)通うことができています。
 息子は、周りに合わせられる空気を感じることが苦手ですが、親の私でもびっくりするくらいすごく優しい気持ちを持っています。
 低学年の子にはいたわりをもって接することができるし、先生のお手伝いは大好きです。言われる前にさっさと要求以上のことができる能力があるのです。
 これはすごい個性ですよね。そして、それを周りの子供たちが認めてくれています。

 5年生最後の授業参観では総合学習の発表会がありました。

 息子はこの総合学習が大の苦手です。1年間調べたことをまとめて、学んだことを自分の言葉で発表するという、最後の答えが曖昧でわかりづらい学習です。
 息子の場合、何をどう調べればよいのか、どう思ったことをまとめればいいのか、悩みだしたら止まらなくなり、そのうち思考が停止します。つまり固まります。びくとも動かなくなるのです。誰がどおしようと動きません。
 
 トイレに立てこもったまま、下校を過ぎても出てこなく、学校からお呼び出しを頂いたこともあります。
 「なにやっとんのぉ、早く出ておいで」と言うと、すごすご登場してきたので「臭かっただろうに、よく我慢してたね」と私が言うと、にこにこしながらけろっと「うん」という返事。気の毒になってしまいました。
 
 班を組んでの総合学習はもっと大変なようでした。何度言われても自分の役割がよく理解できす、先生の指導を頂いても困難でした。
 これが障害と言われる部分なのでしょう。言われすぎてよけいに混乱してしまい、学校内で逃げ回った事件も起こしてくれました。担任の先生が青くなって自宅まで見に来たそうです。その時私は仕事でいなかったのですが、たまたま長男が在宅しており、様子を伝えてくれました。
 
 二男が抱えているさまざまな困難を周りの子供たちが理解しようとしてくれています。
授業参観では個人の発表会形式でした。事前に宿題で持って帰ってきていた資料はほとんど私の口述筆記の状態ではありましたが、きちんと発表していました。
 それよりです。発表前の待機場所への移動で、二男がみんなの前を通って行こうとしたときです。数人の子供たちが小さな声で「後ろから移動だよ」と声掛けをしてくれていたのです。とても自然に小さな声で。周りの子たち、数人が。
 その様子を見せていただいた時、ただただ、感動でした。
わが子がいることで多くの迷惑をかけているであろうクラスメートなのに、その子の持っている困難をさりげなくフォローできている姿に非常にうれしく、そして貴重な体験をさせてもらったのでした。
 息子にかかわるすべての人たち。それぞれにいろいろな困難を抱えさせているはずです。トラブルも多々あったでしょう。それでも息子を認め支えてくれているのです。
息子なりにつらい思いをいっぱいしてるはずです。自分の思いと周りの思いの差。
 
 でも、それを補うことができているのは、息子の持っている個性、「思いやりが深く、とても気の付く部分」だと理解しました。

 マイナスである障害の部分をプラスである個性が補っている。なおみさんが以前ブログでおっしゃっていたことをようやく整理し、理解することができました。
 この調子で、私がフォローできる部分と、周りが理解し、支援してくれる部分が重なったときに、息子の生きやすさとして、実力以上の力を発揮し、イキイキ活動することができるんですよね。
 なんだか、わくわくしてきました。

 今年度は小学校のPTAで部長職につかせていただきました。少々荷が重く感じるのですが、5年間の恩返しです。
いろいろな人とのかかわりが決して得意ではない私です。
それでもがんばって行動すると、苦手だと思っていた人の意外な一面を見ることができたりして、苦手意識がなくなって行くのは 楽しい体験です。

 そして、どんな子供でも高学年になるとちらちら現れる横着病とさぼり癖が出てきた息子への軽いプレッシャーでもあるのです。

「お母さんは今年はたくさん学校にいくからねっ。楽しみにしておきなよ


このコメントを読んで、
小6の時、同じクラスの女の子がいなくなり、探し回っていたら、長時間
トイレに閉じこもっていた…という事件を思い出しました。
その後、そうした事件で授業の進行が遅れるという親たちの苦情の中で、クラスの中で様々な子とともに暮らしてゆくことの価値を、
毅然とした態度で説いていた小6の担任の姿を思い出しました。

小学校時代の思い出

また、ひまさんのお子さんの顔が、
以前、子どもさんをお預かりする有料ボランティアで出会った
一人の男の子のきれいな笑顔
と重なりました。
その子のお母さんには、二人目のお子さんが誕生されたばかりで、
まだ身体ももとの体調に戻らない状態でした。
そんな中で、
眠りが浅く、早朝から起きだして、
癇癪を起したり、暴れまわったりする2歳の息子さんを、
一日数時間、私に託していたのでした。
その子は、子ども好きで、悪態をつかれても可愛いと思える育児に慣れた私にも、
愛らしさを見つけるのが難しいほど、
育てにくいお子さんでした。
抱かれると反り返り、機嫌の良い時間がほとんどない。
無表情で、目が合わず、
いつも走り出して、買い物すら満足に出来ない…。
そんなお子さんを、
はじめての育児で、
ましてや二人目を授かったばかりの母親が
懸命に子育てされている姿に、胸が熱くなりました
そんな子どもと散歩に出た先で、
私に向けてではないけれど、風やはばたくハトに向かって
ふっと見せるその子の笑顔の美しさがいつまでも目に焼きつきました。
そうして描いた絵が、傘をさした子と猫を抱く男の子です。

 
↑励みになります。応援ポチをお願いします