ADD?先生の発達障害児 教育応援サイト

ADD?傾向のある塾教師がADHDやアスペルガー症候群の子にどうかかわり教えたらいいのか模索していくブログです。

大人になったアスペルガー

2009-11-23 22:38:34 | 昆虫博士からの研究発表
NPO京都ハートネットの発達障害当事者グループの方々や
カウンセラーの方々といっしょに淡路島旅行に行ってきました。
とっても楽しい旅行でした♪

発達障害当事者グループの方々というのは
ほとんどが成人のアスペルガー症候群の方々です。

私の場合、ADD気味なので、
アスペルガー症候群の方のように対人関係の苦手さはないのですが、ワーキングメモリーの弱さとか、聴覚の過敏さとか、疲れやすさとか、アスペルガーの方と同じ悩みもいろいろ持っています。
私のハンディーなんてたいしたことないんでしょうが、それだけでも、日々、自分のADD脳に疲れ果てていますから……その大変さの一端はわかります~

一般にアスペルガー症候群って人の気持ちがわからない冷酷なイメージや
極端にわがままだったり、人間関係がとことん苦手で引きこもってる人なんてイメージが勝手にひとりあるきしているのですが……。

現実は、男の方は素朴でマジメで、一昔前の不器用で恥ずかしがり屋でただただ一生懸命生きてた典型的な日本人……という感じだし、
女の方は、顔立ちも話し方も
今時の芸能人にならいくらでもいるかわいらしい感じです。

旅行先での話し合いでテーマとなっていたのは、「親子関係」
と「就労問題」

まず「就労問題」について……

発達障害のある方々が、就職にこぎつくことの困難はもちろんなのですが、
「続ける」ことはさらに難しいことです。

続かない理由は、わがままとか根気がないとか……
人とうまくやっていけない……とか、
個人的な問題と見られがちです。

でも、
実際は職場環境や発達障害に関する誤った解釈や無知に
ある場合も多い気がするのです。

アスペルガー症候群の方は
「新しい環境」に非常に弱いのです。
仕事を覚え始める時は
実際の能力をほとんど発揮することができないし、
定型の人がかける厳しい指導向けの言葉を全て真に受けるので
がんばればがんばるほど空回りしてミスを連発することになることです。

しかし、その「初めての体験」という新しさを求められる時期を過ぎると、
「まじめ」で「几帳面」で、「ルール厳守」で、
面倒なことも嫌がらずにコツコツする性質ですから、
上司よりもパソコンなどの技術を正確にマスターして
仕事をこなしていくことができるのです。

当事者の方々と話していると、本当にまじめで一生懸命で
どんな仕事についていても、どんな学歴にめぐまれていても、
「自分はダメな人間だ」「他人に迷惑をかけてしまう」
「どんなにがんばっても普通にできない」という自己嫌悪に陥っていました。

自分を責めてばかりいると、当然、うつ病といった2次障害となってしまいますよね。
多くの方は、

そうして「うつ」になってしまって、
混乱して働く能力が弱まっている状態=アスペルガーの大人=仕事ができない

と捉えている気がします。
現実のアスペルガー症候群の方々は、できることであれば、120パーセント、200パーセントがんばり続ける
「純朴なまじめさ」が強みなのです。

それは実際会ってお話していればよくわかります。
大学院まで進んでいても「自分はできない、ダメな人間だ」と、周りから受ける評価を、自分の評価としている方もいました。でも、まじめでがんばりやでなければ、大学院まで進んだりできないですよね。

「できること」は全力でしたはずなのです。
でも「できないこと」ができなかったのでしょう。

定型発達の方も「できないこと」は、できません。
でもその「できないこと」が、一般的な大多数の「できない」とうまく重なるために、許容されるし、うまく他の人に頼れるのです。

でも、発達障害の人の「できない」は、
他の人には「当たり前にできる」ことが多いのです。

ですから、あとのことがどんなにできても、「そんなこともできないのか?」と
バカにされて、認めてもらえません。
「わからないこと」もそうしたズレから、教えてもらえません。
また、アスペルガー症候群の方々は、
他人に頼ったり伝えたりすることが苦手なので、すべてを抱え込んでしまうのです。
そうして、仕事を覚えて慣れるまでの「不安定な短い期間」を乗り越えられません。また、仕事の部署の変化に追い詰められていくのです。

それでも、みなさんがんばっていてすごいな~という印象でした。

旅行を主催しているNPO京都ハートネットの河原さんは、
「発達障害の幼い子を抱えて悩んでいる親御さんたちが、
ここに来たら、こんな大人に育っていくんだな~と安心する」といったことをおっしゃっていました。

確かに、アスペルガー症候群の当事者の方々って、マスコミが作り出す
アスペ=犯罪者のイメージと180度かけ離れていますから。
あえて言うなら、都会に染まっていないおっとりしたまじめな人、
四六時中、何とかちゃんとした人間になりたいと努力している人(そのために、かなりたくさんのスキルを持ってる人)という感じです。

私は、職場や周囲の人々が、発達障害の人が
「初めての環境」にとまどって、能力が極端に落ちている間、「育てる」気持ちで少し待つことが大事と感じています。
心の余裕を取り戻すことで、ある時期を過ぎたら、非常に生産的な
かけがえのない人材となるのですから。
これは、発達障害のある子が学校や幼稚園に入学するときにも
必要な周囲の態度だと感じています。


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大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 3

2009-10-25 17:22:10 | 番外
☆「生き辛さ」を抱えて生きるということという過去記事に、居眠り猫さんがこんなコメントをくださいました。


「何が何だかわからない安心できない世界」の中で生きているということは、社会に対する基本的信頼が形成されにくいということでもあります。
教師の言葉に従って行動したら、学級で自分ひとりだけ違うことをしていたとか、友達と話し合って決めたことを実行したら、自分以外誰もそうしていなかったとか、そういうズレを多数経験すると、何を信用していいのかわからなくなることがあります。
客観的には本人が相手の言葉の意図や場の状況を把握できなかっただけのことですが、本人の主観では虐めに遭ったのと区別がつかない場合もあります。
しかし、どのように生まれつこうと、心的向こう傷のない人生は有り得ないですし、すべてを理解しあえることも有り得ません。
自閉スペクトラムという概念を知って、自分のズレが招いた様々なことに何年かかけて納得した時、社会に対する恨みが減少しました。
ほどよく諦めがついたのが、建設的に作用したのだと思います。



私は、できるだけ早い時期に 発達障がいの可能性に気づいて、
親や周囲の大人は、
そうした知識に目を通すだけでもしておいた方がいいと考えています。

それを、何でもかんでも「病気」と決め付ける行為とは
思っていません。

そうして、いくつかの対応をとってみたら問題が消えて、
気にしすぎだったな~と笑えるときがくると、
とてもうれしいです。

どうして早めに発達障がいかも……という気づきが得たいかというと、

知能に問題がないのに、発達障がいによる2次障害が原因で、
勉強についていけなくなる子や、
不登校になる子を減らしたいからです。

また、子どもがいじめを受けたと感じて傷ついているときに、
親や教師といった大人たちまでも「おまえが悪い」と決め付けて、取り返しがつかないほど子どもを傷つけてしまうようなことをしたくないからです。
居眠り猫さんの言葉が心にひびきます。

そうして、困り感を減らすうちに、発達障がいなどという
言葉がそぐわなくなったなら、
それほどうれしいことはないのです。

子どもに、「何が何だかわからない安心できない世界」の中で生きているという
そんな辛い思いだけは抱かせたくない
と心底 思っています。



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大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 2

2009-10-23 21:38:53 | 昆虫博士からの研究発表
大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 

という疑問の『病気』という言葉は、
今、親や教師や療育関係者や社会が理解しようとつとめはじめた
『発達障がい』という言葉があらわしている概念と重ならなくなってきているように感じます。

確かに、最初、発達障がいは、病院という場で、子どもの不適応や不登校や情緒的な問題を分析する中で、体系化されてきた歴史はあるのでしょう。

そのように障害として見ることからスタートした
発達障がいに関する知識の蓄積は、
現在、発達に、ある特性がある子、
一般的な発達の順序とは少し異なる育ち方をする子、
脳のタイプが多数派ではない子というかつてより幅広い捉え方で、
子どもの困り感に寄り添おうとする親や教師たちの
情報源となっているように思います。

昭和の時代のように、差別するためにレッテルを貼るという発想は、どんどん社会から失われているのです。それよりも、違いはある、できるできないはある、
といった運命に対するあきらめを含んだ態度から、

ひとりの子の人権、可能性、幸福、最適の教育、教師のあり方を
模索していく個にフォーカスしたひとりひとりを大切にする発想が、
支持されつつあるのだと思います。

現代の学校は、確かに問題もたくさんあるのでしょうが、
かつてより、ひとりひとりの子どもを大切にしていることも事実なのです。

発達障がいの知識は、けっして、検品作業の中で、一部の子を
粗悪品として除外するために使われている訳ではないはずです。

さまざまな個性を尊ぶ、人権が大切にされつつある世の中の動きのなかで、

かつては、読字障害のある子は、知能の遅い子とみなされたり、
一生できないまま終わっていたところを、
方法さえ探ればできるようになる可能性を与えたり、

かつては感覚過敏の苦痛を訴えればわがままとして、
ただ我慢させられたり、鍛えられたり、わがままと叱られるだけで終わっていたのを、
感覚過敏を理解し、最低限の暮らしやすさを約束してあげることにつながったり、

多動ゆえに、知能に問題がないのに教育から恩恵が受けられなかった子に、
教育のチャンスを与えたり、

不登校、家庭内暴力、ニート、鬱、離職といった、発達障がいの2次障害の問題が起こらないようにする

ことに役立ってきたのです。

科学にしたって、最初は錬金術からのスタートです。
同じように、発達障がいをめぐる問題は、
最初こそ、障害を研究することからはじまったのでしょうが、今は障害という概念を越えて
さまざまなレベルの子の困り感に役立っていると感じています。

妙な例で、例えると、肩こりは病気って呼べるでしょうか?
言えませんよね。
しかし、肩こりという痛みや困り感を軽減するのに役立つ知識は、
病気の研究から出発して蓄積されたものですよね。
(そんな肩こりも、病院で薬をもらって直そうとすると、「●●●障害」なんて、
えらくかしこまった名前をつけられるかもしれません。)

それと同様に、今、発達障がいについて、正確に知りたいという方が増え、
その知識の蓄積が
子どものさまざまな問題の解決に役立ち始めた現代は、

子どもの可能性をできる限り伸ばそう、
「できない」とあきらめていたことも、解決法があるのではないか……

といった期待のもとで、発達障がいについて考えていく方が増えたのだと思います。

教師が、発達障害では?と子どもに疑問を抱くとき、「変な子だな~」と思って、親を傷つけるために、そうした考えを持つことはめったにないと思います。
どう教えてもできるようにならない子も、
きちんと正しい手順を踏めば……方法を学べば……解決法を探れば……
できるようになるのではないか?
そうした思いで、発達障がいについて学び始める方がほとんどだと思います。


話が長くなりすぎたので、次回に続きます。


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大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか? 1

2009-10-23 18:14:39 | 番外
☆発達障害児は多すぎる? 1
☆発達障害児は多すぎる?  2
の記事に、次のようなコメントをいただきました。

ひまさんがとてもていねいなコメントのお返事をしてくださっているのですが、私も、少し書かせてくださいね。(まだコメントのお返事ができていない方、後回しになってすいません)


今は親ともに安らぐ子育てはしてはいけないのですか?昭和の時代の子育てはジャイアン症候群とかのび太症候群なんて病気はありませんでした。ジャイアンのような子はガキ大将として、のび太のような子は、優しい子として周りは接してくれていました。しかし今は少しでも着替えが遅いと病気ガキ大将的存在の子は病気、何か苦手な分野がみつかると、病気!病気!病気!何なんですか?!大人の手をやかせる子はみんな病気なんですか!


昭和の時代は、ある意味、おおらかで生きやすい時代でしたよね。

昭和の時代は、確かに病名こそつかなかったけれど、虐待に近いしつけもまかり
通っていたはずです。また明らかな差別もありました。
理解できないものは、追い払う、排除する、という人権を無視した行為が
行われても、だれも疑問も持たないような空気もあったのです。

「窓際のトットちゃん」がちょっと落ち着きがないからと、
小学校をやめさせられたことを
知っている方はたくさんいますよね。

私が小学生のころも、クラスに、今なら発達障がいと診断を受けるような子がいたのですが、親たちの苦情と、先生の無理解のなかで、転校していきました。☆お塩の足りないスープ鍋
という記事で書いています。

私が中学生だったころも、今思うと発達障害があったと思われる子が保健室で体育の先生からボコボコに殴られるなんて日常茶飯事でした。

それこそ、中学3年間、最高の「悪さ」が、廊下を早足で歩いた程度という
まじめ一筋の私や友人でも、廊下で少しふざけていたという理由で、
体育教師から思い切り平手打ちにあったり、頭をげんこつでなぐられたりしたことが何度もあるのです。
教室で態度が悪い子がいるからと、英語の教師が教室内で竹刀を振り回したこともありました。
でも、どんな理不尽な出来事も、テレビのニュースで取りあげられることもなければ、親たちが騒ぐこともありませんでした。

また、当時は医学的な知識がなかったので、自閉傾向を持つ子の母親は、育て方が原因とされて周囲から責め立てられ、
それは辛く苦しい思いをして子育てをしていました。
きちんとさせようという責任感が、子どもへの虐待行為に
なっていたことも多かったと思います。

実際、大人になって発達障がいがあることに気づいた方が、
子ども時代を振り返って、辛い記憶を告白するとき、
先生から汚いもののように扱われたり、裸に近い格好をさせられたり、
「また学校に来たのか?よく来るな…」といやみを言われたり……
と信じられないようなお話をたくさん耳にすることがあるのです。

それでも、昭和の時代は、大人が今のように子どもを監視する習慣はなかったので、
どこか間が抜けていて、すき間だらけで、
やんちゃで乱暴な子にも、いじめられっ子にも、居場所があったような気もします。
また、確かに、小学校が、親たちから文句を言われない完璧さを
保とうと今のようにピリピリしたところがなかったのでしょう。

長くなったので、引っ張るようですが、続きは次回に書きますね。



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「生き辛さ」を抱えて生きるということ

2009-09-28 19:13:06 | 番外
大人になって、自分は発達障害ではないかと疑いを持ちました……とおっしゃる方々からコメントをいただくことがあります。
そうした方のコメントは、いつもとても深い洞察を含んでいます。

発達障害児を育てる親御さんのコメントとは少し異なる
「生き辛さ」を抱えて生きるということを自分で経験してきた方の
生の言葉です。

発達障がいを持った子を育てていると、
どうやって普通に近づこうか、困った癖をやめさせようか、
ひとつでも何かできることを増やそうか、自立への道を歩ませようか
とそればかりで頭がいっぱいになってしまうかもしれません。

少しでも生きやすくなるためにそうした支援は必要ではあるけれど、

実際、「生き辛さ」を抱えて生きている当の本人にすれば、
何が何だかわからない
安心できない世界から、毎時間毎分、
ダメな自分、できない自分、
足りない自分、変わらなくてはならない自分を
つきつけられて、

自分を信じる
自分を受容する

という人として生きていく基盤となるような部分が
いつもぐらついた状態で、
生きていることが周囲に対し申し訳ないような思いまで抱きながら暮らしているのが現状です。

運動オンチの人がオリンピック選手を養成する体操クラブに入れられれば、
たとえ、バカにされたり、期待されたりしなかったとしても、
周囲のようにできない自分に自信を失い、
苦しみを感じて生きるようになりますよね。
発達障がいを持って生きるということは、支援を受けていても、優しくされていても、
挫折感とコンプレックスと疎外感と誤解される悲しみと絶えず向き合いながら
それを受容し、呑み込んでは、
一歩、一歩、前に進んでいく作業です。
障害特性ゆえに苦しい、感情がコントロールできないという事実とは別に、
現実がむごすぎて、
苦しくて、感情がコントロールできなくなるのです。

それでも一生懸命、生きている子がいて、
そうした苦しい受容を途方もないほど繰り返しながら、
大人になって、一生懸命生きている方がいます。

私たちは、自分が持っている「ふつう」という固定観念と比べて、
経済的に自立しているかとか、
社会的に認められているかとか、
人間関係が上手にこなせているか、
とかで人を比べたり、評価したり、人を社会のお荷物とみなしたりします。

でも、もし、人類というひとつのまとまりのなかで、
何割かの人が、
必ず 自分たちが過去に汚した環境の影響をかぶって
障害を持って生まれる役を引き受けなくてはならなかったり、
誰かは必ず、進化しようとする遺伝子の影響で、
ある部分だけ特化した
生きずらい生を引き受けなければならないとしたら、

人類が自分も含んで確率的に持っているもののひとつを
引き受けてくれた人に対し、
あれこれ比べたり評価するというのはどうなのでしょう?

そうした生をバカにする人や、変わるように急かす人が、
なら次は自分がそうした苦しい生を引き受けて、
最後まで生き抜きます~と簡単に言えるのでしょうか?

こうした生き辛い生には、苦しみとひきかえに、
ひとつのすてきなプレゼントが用意されています。

ジョージア州に、成功者と億万長者を20年間調べ続けて、
自分もその仲間入りをした方がこんなことを
おっしゃっています。

『人とちがうことは利益をもたらす』
トマス・J・スタンリー

人が褒めてくれるような長所は、意外に、利益をあまりもたらさないのだそうです。なぜなら誰もがあこがれる見栄えの良いところには、
人が群がって競争が激しくなるからです。

『戦って勝つのは下策。戦わずに勝つのが最上』と孫子も言っています。

本田宗一郎は、

『私は世間でいう゛悪い子゛に期待している。なぜかといえば、そういう子どもこそ ゛個性の芽生え゛を持つ頼もしい可能性に満ちた本当の意味での
゛いい子゛なのである』

『失敗もせずに問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、
十回失敗した人をとる。
同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性となり人生の飛躍の土台となる』

と語っています。
生き辛さは、このように、きちんと生き抜けば、それだけで価値があるものなのです。


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