慢性的に親に暴力を振るう子どもは
親を必要としないわけではなく
むしろ依存しきっていて ある種の甘えがそこに存在しているそうです。
ですから 子どもが親に暴力を振るうのは
親子の関係が逆転しているからではなく
そこに共依存度の高い関係が成立しているからなのだそうです。
けっして自分を見捨てない親の内面に
自分への潜在的な依存を読み取っているからなのだとか。
こうした共依存の関係が破綻すると
それは社会生活からの撤退を意味しているのだそうです。
こうしてみると
家庭内暴力もひきこもりも
共依存という同じ土壌から生じてくるものなんですね。
こうした共依存的な関係は
ネットの世界でよく成立しやすいと指摘されています。
インターネット上の人間関係は
リアルな世界の人間関係と違って 情報の取捨選択が可能です。
自分の鏡像(自己の分身のようなもの)にふさわしい相手だけに
アクセスし
自己承認の欲求を満たすのに必要な情報だけ
他者から受け取ることができます。
そうした関係は 優しく快適なものに感じられます。
しかし そうした「優しい関係」が何より一番!!
が少しでも損なわれると
たとえそれが些細なものであっても
自分という存在が全否定されたと受け取られてしまうようです。
つまずきの相手を「親友」と感じ
強い鏡像関係が成立していたらなおのこと
取り返しのつかない重大事と感じられます。
それが
つまずきをもたらした相手に対する
物理的な暴力へと
飛躍する場合もあるようです。
佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったか?
それもやはり
こうした
「やさしい関係」のつまずきに端を発しているように思えます。
この女の子にはアスペルガー症候群という軽度発達障害があったのではないか?
と言われています。
私も その幼児期の発達の様子や
作文の文体から それを感じ取りました。
ですからこの事件をここまで痛ましいものとした原因には
それも関与していることは確かです。
しかし 軽度発達障害の子どもたちは
昔も今も存在しています。
それなのに 今の時代になって
そうした子たちが
世間を騒がす犯罪を犯してしまう背景には
やはり今の時代の問題が隠れているはずです。
社会性の発達の未熟な子を
しっかり導き育ててあげられるものが
社会に足りないのです。
ですから ゴシップを楽しむ感覚で
多くの方が 犯罪の原因を発達障害の中だけに見ることは
あまりに偏った見方ではないでしょうか?
『「ややこしい子」とともに生きる』という本の中で
著者の河原ノリエさんが
「親の育て方が悪いんじゃない。先生も悪くない。君も悪くない。生まれながらのあなたの脳神経のせいよ。」という感性で
クラスで暴走していく子どもには
丁寧にみていけば
その子を煽る問題のありかが
取り巻く環境の中にも必ずあるはずなのに
その子の微細な神経の問題に事柄の原因を帰結させ
発達障害のレッテルを貼り
問題を本人の脳神経の問題に押し込め
その子に対する不適切な扱いなどの議論すべき問題を不問に付して
問題がある子を集団から析出して
特別扱いすることで
誰も傷つかないスマートな解法に向かう…
そうしたあり方を
生まれながらの本人にどうにもならないものだとされながらも
神経的素因というある種の「自己責任」に還元していく
管理教育の危うい構図
として警告しています。
私も同様に感じています。
また犯罪や家庭内暴力の問題も
社会の抱える問題や子どもたちをめぐる問題を
議論することもせず
ここでも
発達障害を唯一の原因のように決め付けていく
態度には疑問を感じます。
そしてそこには
何よりも「優しい関係」を最優先する現代人の心の問題が
見え隠れしてきます。
注(今日 ねこやなぎさん という方から
丁寧なコメントをいただきました。
その方はご自身の経験を通して本当の意味での
優しい視点を獲得された方です。
そうした方の作り出す「優しい心のある関係」と
ここで表現する 友達を気遣っているようでいて
じつは自分を気遣っているという若者たちが作る
「優しい関係」は別のものです。)
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親を必要としないわけではなく
むしろ依存しきっていて ある種の甘えがそこに存在しているそうです。
ですから 子どもが親に暴力を振るうのは
親子の関係が逆転しているからではなく
そこに共依存度の高い関係が成立しているからなのだそうです。
けっして自分を見捨てない親の内面に
自分への潜在的な依存を読み取っているからなのだとか。
こうした共依存の関係が破綻すると
それは社会生活からの撤退を意味しているのだそうです。
こうしてみると
家庭内暴力もひきこもりも
共依存という同じ土壌から生じてくるものなんですね。
こうした共依存的な関係は
ネットの世界でよく成立しやすいと指摘されています。
インターネット上の人間関係は
リアルな世界の人間関係と違って 情報の取捨選択が可能です。
自分の鏡像(自己の分身のようなもの)にふさわしい相手だけに
アクセスし
自己承認の欲求を満たすのに必要な情報だけ
他者から受け取ることができます。
そうした関係は 優しく快適なものに感じられます。
しかし そうした「優しい関係」が何より一番!!
が少しでも損なわれると
たとえそれが些細なものであっても
自分という存在が全否定されたと受け取られてしまうようです。
つまずきの相手を「親友」と感じ
強い鏡像関係が成立していたらなおのこと
取り返しのつかない重大事と感じられます。
それが
つまずきをもたらした相手に対する
物理的な暴力へと
飛躍する場合もあるようです。
佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったか?
それもやはり
こうした
「やさしい関係」のつまずきに端を発しているように思えます。
この女の子にはアスペルガー症候群という軽度発達障害があったのではないか?
と言われています。
私も その幼児期の発達の様子や
作文の文体から それを感じ取りました。
ですからこの事件をここまで痛ましいものとした原因には
それも関与していることは確かです。
しかし 軽度発達障害の子どもたちは
昔も今も存在しています。
それなのに 今の時代になって
そうした子たちが
世間を騒がす犯罪を犯してしまう背景には
やはり今の時代の問題が隠れているはずです。
社会性の発達の未熟な子を
しっかり導き育ててあげられるものが
社会に足りないのです。
ですから ゴシップを楽しむ感覚で
多くの方が 犯罪の原因を発達障害の中だけに見ることは
あまりに偏った見方ではないでしょうか?
『「ややこしい子」とともに生きる』という本の中で
著者の河原ノリエさんが
「親の育て方が悪いんじゃない。先生も悪くない。君も悪くない。生まれながらのあなたの脳神経のせいよ。」という感性で
クラスで暴走していく子どもには
丁寧にみていけば
その子を煽る問題のありかが
取り巻く環境の中にも必ずあるはずなのに
その子の微細な神経の問題に事柄の原因を帰結させ
発達障害のレッテルを貼り
問題を本人の脳神経の問題に押し込め
その子に対する不適切な扱いなどの議論すべき問題を不問に付して
問題がある子を集団から析出して
特別扱いすることで
誰も傷つかないスマートな解法に向かう…
そうしたあり方を
生まれながらの本人にどうにもならないものだとされながらも
神経的素因というある種の「自己責任」に還元していく
管理教育の危うい構図
として警告しています。
私も同様に感じています。
また犯罪や家庭内暴力の問題も
社会の抱える問題や子どもたちをめぐる問題を
議論することもせず
ここでも
発達障害を唯一の原因のように決め付けていく
態度には疑問を感じます。
そしてそこには
何よりも「優しい関係」を最優先する現代人の心の問題が
見え隠れしてきます。
注(今日 ねこやなぎさん という方から
丁寧なコメントをいただきました。
その方はご自身の経験を通して本当の意味での
優しい視点を獲得された方です。
そうした方の作り出す「優しい心のある関係」と
ここで表現する 友達を気遣っているようでいて
じつは自分を気遣っているという若者たちが作る
「優しい関係」は別のものです。)
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