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ADD?傾向のある塾教師がADHDやアスペルガー症候群の子にどうかかわり教えたらいいのか模索していくブログです。

佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったか? 4

2008-04-19 20:03:34 | 番外
慢性的に親に暴力を振るう子どもは
親を必要としないわけではなく
むしろ依存しきっていて ある種の甘えがそこに存在しているそうです。
ですから 子どもが親に暴力を振るうのは
親子の関係が逆転しているからではなく
そこに共依存度の高い関係が成立しているからなのだそうです。

けっして自分を見捨てない親の内面に
自分への潜在的な依存を読み取っているからなのだとか。

こうした共依存の関係が破綻すると
それは社会生活からの撤退を意味しているのだそうです。

こうしてみると
家庭内暴力もひきこもりも
共依存という同じ土壌から生じてくるものなんですね。

こうした共依存的な関係は
ネットの世界でよく成立しやすいと指摘されています。
インターネット上の人間関係は
リアルな世界の人間関係と違って 情報の取捨選択が可能です。
自分の鏡像(自己の分身のようなもの)にふさわしい相手だけに
アクセスし
自己承認の欲求を満たすのに必要な情報だけ
他者から受け取ることができます。

そうした関係は 優しく快適なものに感じられます。

しかし そうした「優しい関係」が何より一番!!
が少しでも損なわれると
たとえそれが些細なものであっても
自分という存在が全否定されたと受け取られてしまうようです。
つまずきの相手を「親友」と感じ
強い鏡像関係が成立していたらなおのこと
取り返しのつかない重大事と感じられます。
それが
つまずきをもたらした相手に対する
物理的な暴力へと
飛躍する場合もあるようです。


佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったか?
それもやはり
こうした
「やさしい関係」のつまずきに端を発しているように思えます。


この女の子にはアスペルガー症候群という軽度発達障害があったのではないか?
と言われています。
私も その幼児期の発達の様子や
作文の文体から それを感じ取りました。
ですからこの事件をここまで痛ましいものとした原因には
それも関与していることは確かです。
しかし 軽度発達障害の子どもたちは
昔も今も存在しています。
それなのに 今の時代になって 
そうした子たちが
世間を騒がす犯罪を犯してしまう背景には
やはり今の時代の問題が隠れているはずです。
社会性の発達の未熟な子を
しっかり導き育ててあげられるものが
社会に足りないのです。

ですから ゴシップを楽しむ感覚で
多くの方が 犯罪の原因を発達障害の中だけに見ることは
あまりに偏った見方ではないでしょうか?


『「ややこしい子」とともに生きる』という本の中で
著者の河原ノリエさんが

「親の育て方が悪いんじゃない。先生も悪くない。君も悪くない。生まれながらのあなたの脳神経のせいよ。」という感性で

クラスで暴走していく子どもには
丁寧にみていけば
その子を煽る問題のありかが
取り巻く環境の中にも必ずあるはずなのに

その子の微細な神経の問題に事柄の原因を帰結させ
発達障害のレッテルを貼り
問題を本人の脳神経の問題に押し込め
その子に対する不適切な扱いなどの議論すべき問題を不問に付して
問題がある子を集団から析出して
特別扱いすることで
誰も傷つかないスマートな解法に向かう…

そうしたあり方を

生まれながらの本人にどうにもならないものだとされながらも
神経的素因というある種の「自己責任」に還元していく
管理教育の危うい構図

として警告しています。
私も同様に感じています。
また犯罪や家庭内暴力の問題も
社会の抱える問題や子どもたちをめぐる問題を
議論することもせず

ここでも
発達障害を唯一の原因のように決め付けていく
態度には疑問を感じます。
そしてそこには
何よりも「優しい関係」を最優先する現代人の心の問題が
見え隠れしてきます。

  注(今日 ねこやなぎさん という方から 
丁寧なコメントをいただきました。
その方はご自身の経験を通して本当の意味での
優しい視点を獲得された方です。
そうした方の作り出す「優しい心のある関係」と
ここで表現する 友達を気遣っているようでいて
じつは自分を気遣っているという若者たちが作る
「優しい関係」は別のものです。)

 
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佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったのか? 3

2008-04-19 17:59:12 | 番外
現在の若者はたちは、自らのふるまいや態度に対して
言葉による根拠を与えることに意義を見出さなくなったそうです。

なぜ…だから…や
観念や信念といったものはなくて

自分がそう感じるから そうなんだ!



からだに感じる感覚 =心や感情の動き

と捉える傾向を強めているそうです。

確かに2~3歳のお子さんをお預かりしていると
眠いだるい=腹が立つ
となって 叩いてきたりします。
その境界がはっきりしない状態が 若者にまで広がっているんですね。

若者たちは
自分の内部から沸き上がってくる自然な感情を 自分らしさの最高の発露

としての絶対的な価値を置いています。
でもこの生理的な感覚や内発的な衝動による直感は
「いま」だけのもの。
言葉によって構築された思想や世界のように継続することができません…。

だから自分にOKを出すために
常に周囲の承認を必要としています。

TVのお笑いタレントは
過去から継続される世間一般の価値に照らして
(かしこいとか芸がうまいとかハンサムだとか)
価値があるのではなくて
常にその時々の周囲の承認によって
価値を決められています。
トップの座にあったお笑いタレントも
皆に認められなくなったとたん いきなり存在価値を失います。

それと似た世界…
自分を努力と経験で磨いていくのではなく
周囲の承認によって 自分の価値が決まるような世界が
現在の子どもを取り巻いているようです。

そんな風に周囲の承認なしに 一時として過せない子どもたちは
友達と常に気遣いあう「優しい関係」を築きます。

筑波大学大学院人文社会科学研究科教授の土井隆義氏は
家庭内暴力のような
親密圏の暴力は
こうした過剰に配慮しあう「優しい関係」から
派生してくる…とおっしゃっています。

長くなりますので次回に続きを書かせていただきます。
 
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佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったのか? 2

2008-04-19 13:45:50 | 番外
インターネットの掲示板に
「容姿や性格についての悪口を書かれた」ことが契機で
殺人事件にまで発展してしまったこの事件。

被害者と加害者の少女は
親友同士であったと言われています。
それで多くの方は
仲良くしながらも実は些細なけんかやいじめが長期間続いていたのかも?
と考えるかもしれません。
ところが 報道で伝えられてくる二人の少女の
交換日記やチャットの記録に残るのは
お互いに対して異様とも思える配慮をしあう姿
なのだそうです。
つまり けんかした形跡なし…

『「個性」を煽られる子どもたち』の著者の土井隆義氏によれば

かつて 親友と言えば お互いに対立や葛藤を経験し
決別と和解を繰り返すなかで ゆるぎない関係を作り上げていく
間柄を指していたそうです。

かつての親友が自分の素直な想いをストレートにぶつける相手だったのに対し
昨今のそれは それを抑え込まなければならない相手となっているそうです。
そうしなければ 
相手と「良好な関係」の維持が
難しいと感じられるようになっているのです。

1999年の東京都青少年基本調査のデーターによると
現在の若者たちは 親しい間柄の人間に対しては
過剰なほどの優しさをしるし
相手が傷つかない細かい気配りをするけれど
第三者に対してはまったくの無関心なのだそうです。
また 親しい間柄でも 自分が傷つくことに
強い恐怖心をもっていて 
とことん議論することを避ける傾向があるそうです。

アメリカの若者は 自分の周囲の人間にあまり気を配らないけれど
困った人がいれば
見知らぬ人のでも積極的に助ける傾向があるそうです。
対して 日本の若者は真逆の傾向にあるのだとか…。

そんなわけで
現在の子どもたちにとって
親密圏の人間関係はあまりに重過ぎるようです。
そしてお互いの対立点が顕在化してしまうのは
耐え難い脅威と感じられるらしいのです。

どうして子どもたちが 他者との対立を避ける「優しい関係」の維持に
懸命になるのでしょう?
そしてそれはどのような危険を含んでいるのでしょうか?

引っ張るようですが 続きは次回に書かせていただきます。

 
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佐世保の小6女児の事件はなぜ起こったのか?

2008-04-19 07:45:28 | 番外
2004年の6月 
長崎県佐世保市で起こった
小学6年生の女児が同級生を死亡させるという痛ましい事件を
覚えていらっしゃる方は多いと思います。
また翌月にも 小6男児による類似の未遂事件がありました。

この事件をここまで痛ましくしたのは
ゴシップ紙で連日取り上げられていた通り 
発達障害 
フレーミングと呼ばれる衝突の燃え上がりを起しやすいネットの掲示板の特性 
暴力的な映画 などの
影響があったことは確かです。
しかし この事件が起こった背景には
発達障害の有無にかかわらず 
現代に生きている子どもたちの全てに関わる問題が隠れているようです。

私は数年前 元新聞記者だった方に誘われて
その小6少女の心理状態について
その子の書いていた文章から読み解いて研究なさっている方の
お話を聞きに 京都まで行ったことがあります。
まずその日 その場に居合わせた人々を驚かせたのは
その少女の完璧なまでの文章力でした。
確か 小5の時に書いた作文だったと思います。
少女は どこにもたどたどしさがない美しい文章で
日常の一コマを描写していました。
私をそこに誘ってくださった元新聞記者の方は
ひたすら驚いて その才能に感服していました。
ただ私は その文章の中に等身大のその子の姿が見えてこず
どこか流れるコマーシャルのように生活を表現している部分に
それまで学習でお世話してきたことのある
「アスペルガー症候群」の子どもの表現と近いものを感じました。

途中で悪いのですが続きは次回に書きますね。

 
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