なんくるのひとりごと

日々の想いを言葉にしてみたい

安心して我が家で暮らしたいだけなのに

2007-04-23 16:52:53 | 日記
話を聞けば、家の向かいの人からの嫌がらせはもう7年もつづいているという。
最初話を聞いたときから、そうかもう7年もたったのかとそうおもった。

家の玄関を向かいから監視カメラでとらえて、でかけるとなるとすごい勢いで追いかけてきて、聴きたくないことばで罵るのだというのだ。
7ね年前、子どもがまだ小さいとき(いまでも小学生と幼稚園児がいる)家に帰るのが怖いといって、なんくる家で時間を過ごすことがしばしばあったことを、思い出した。

サーチライトで家を照らされたことがあるという。毎晩毎晩、我が家に向かってあのサーチライトが照らされるのだ。考えただけで異常者じゃないの相手は?といいたくなる。これが7年もつづいていると言うのに、警察は「自分たちで解決してください」と取り合ってくれないと言うのだ。

周りの住民がターゲットだったときには間りの住民たちも一緒に対策を考えることが会った。というが、だんだんターゲットが絞られてきてその方の家だけになったとのだという。いまや孤軍奮闘になってしまったのだ。

夫婦二人ともが調子を合わせてすごい剣幕で、手をかざして拳をあげて罵るのだと。先日テレビでみた「やかましいののしりおばさん」の映像をみたことがある。「あれと同じように?」と問うてみた。「そうですあんなふうです」というのだ。
我が家が一番くつろげるはずなのに我が家に帰るとき、恐怖心で胸が張り裂けそうになると言うのだ。
持ち家なので、家を離れるわけには行かない。

運が悪いと片づけられる問題なのだろうか。
前の住民も、その前の住民もこの行為に心や身体をやられて、病気になり出ていったのだとも。それを知らずに家を買ってしまったことからこの悲劇が始まった。

「今度どんなことをどんな風にやるのか見せて」と私は、その人に伝えた。
学校に行く子どもに向かって罵る。行き交う人にも暴言はあるらしい。
その辺りではその悪行は有名らしいが、誰も注意することもできず警察も見て見ぬふりだと言う。こんなことってあり?
腹が立つ。話を聞きながら私は飛んで行って話し合いたい気持になったほどだ。

あまりにも嫌がらせが続き、ご主人が相手に手を出したことから警察沙汰になったと言う。警察沙汰にしたいのはこっちの方なのに。
もちろん暴力に出たことは悪いことだと、重々罪を認めて反省して、そのことの償いはするつもりだ。が、今後またつづくことを考えたら~

こんなときにこそ警察は住民の安全を守り、自分の家で安心して暮らす権利を守ってあげないといけないのではと、腹を立てているのだが。間違いなのか?

午後から太陽がのぞく。小さな鯉のぼりを外にだす。短くて軽くて絡みつかない大きさの鯉のぼりが何十匹も泳ぐ。
動きがリズミカルなもので子どもたちも小躍りする。動くものが嬉しい。自然に鯉のぼりのうたが聞こえる。だれもが口ずさんでいるのだろう。

鯉のぼりでおもう。

2007-04-23 11:32:13 | 日記
あー雨だっと朝目覚め、わたしはそうそうつぶやいた。
カーテンを開けると、
今朝は薄いペールのカーテンを下ろしたような・・・ハッキリしない空なので。

案の定、わたしの出勤を待っていたように「こいのぼり掲揚はどうします?」と職員が待ち受けていた。
何匹もの鯉のぼりが、ひとつの紐にゆわえられて、大空高く登るのを待ってた。
年長さんの手作りのこいのぼりが、色も鮮やかに鎮座して出番を待っている。
さて、どうしたものか。わたしの考えは決まっていた。天気のよい日まで延期と。

職員は、決まった日にやりたい風で「やりましょう」のことばを待っている。と見て取れる。
「予定通りやった方がいいとおもう?」と問うと、「はい」という。
「なんのためにやるのか考えてから返事して」と意地悪なわたし。
「決まったことをやることが目的ではないとおもうが・・・」とわたしはなおも突っ込む。

決まったことをとにかく片づけて、なんとなく「ほっ」としたい。けじめをつけたい。と、おもう気持も分からないでもない。が、わたしはしつこいのだ。
なんの為に、誰の為に、最上の方法を検討したか・・・そのことにかなりこだわる。

折角つくった手作りのこいのぼりが、雨の予報が確実で、どんどん空模様があやしくなっている中で、決行すれば、どうなるか予想するのは簡単なこと。
雨でぐっしょり濡れた洗濯物を見るのは心が晴れない。
ましてや新品の新作の手作りこいのぼりが色鮮やかに目の前にある。
それが一時間後には濡れてぐしゃぐしゃになり、濡れ雑巾のようになるのは忍びないではないか。
風に舞うどころか、雨のしずくを集めて流す吹き流しなんて見るに忍びない。

そんなことを一人思いながら、
また意地悪く「こんな天気にやる意味があるの?晴れを待つことはできないのですか?」と少しきつい言葉になった。
察した職員は、どきまぎしながら「そうですねー」と少しひるむ。

わたしがだす決断を待つまでもなく、「こんな風にしたいと思います」「今日のところは子どもが期待しているので、こんなことをしたいとおもいます。」と持ち前の保育センスで、いま、一番いい方法を提案してほしかった。

予定通りには行かないことを知るのも、子どもにとっては大切なこと。雨が降りそうな中で、(これを書いている途中土砂降りになった。)予定だけをこなすことには教育的意義もない。

子どもは、延期を告げると「やりたい、いやだー」と来るだろう。
でもその時が、大切な時間。「予定を取りやめるのも大切な勉強」生きていく上には予定と降り行かないことが山ほどあることを知ることにもなるからだ。

あさから、ちょっとしたことでわたしの心は揺れた。
保育士も、もっともっと学ばなければならない。現状判断能力を培わなければならない。
保育センスをあげなければ、子どもの好奇心や子どもにとって大切な「いま」を豊かにはできないだろう。

ほんのちょっとしたできごとの中に我が保育園の全体のレベルをしることになりる。
いずれにしても、レベルを上げるのもわたしの責任なのであって、誰の責任でもない。
30人の職員ひとりひとりのステージをあげ、柔軟で掘っても掘っても水が湧いてくるような心ゆたかな人間に育てる義務をわたしは担っているのだから。

なんくる家の正美さんがコーヒーをいれてきてくれた。コーヒーの香りが事務所に流れ~。気持を切り換えなければ。と、そうおもった