日本基督教団 七尾教会

能登半島にたてられた七尾教会の日々です

台風接近で心配なこと

2007年08月02日 | 主日礼拝
梅雨が明けた途端に、「台風」。
また九州の方では被害が出ているようです。天災の恐ろしさをまたまた感じます。
幼稚園にお迎えにきたお家の方が「穴水の実家が心配だ」と言っておられました。穴水は七尾と輪島の間にある町で、今回の地震では駅前商店街の半分以上が全壊し、今は更地になってしまったという大きな被害がでたところなのですが、あまり大きく報道はされていません。
その人の実家も大きな被害があって、今ベランダが固定されていない状態なのだとか。
「強い風がふいたらあのベランダははずれてしまうかも」と真剣に心配していました。
どこの地域にいる人にも大きな被害が出ませんようにと祈るばかりです。
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台風のニュースを気にしながら

2007年07月14日 | 主日礼拝
台風4号のニュースが気になる一日でした。
能登半島地震の経験で、報道されていないところでも被害があるのではないかと気になります。テレビなどのニュースはどうしても被害を数字で表します。「土砂崩れで全壊5棟、床上浸水・・・軒」、遠くで冷たく見ていると、たいしたことのないように思ってしまいがち。でもその家の人にとっては大事な家。まだ近畿地方を直撃しそうな台風。心配です。
午後、北陸学院高校の生徒と先生が来訪。能登半島地震の事を現地に見に来てくれました。本当は輪島までいく予定だったそうですが、大雨の為、輪島へは行くのを断念したようでした。
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新しいブログ

2007年07月01日 | 主日礼拝
地震のあとで、このブログで七尾教会の様子を伝えてきました。これからも、復興の様子などを中心に、お伝えしていこうと思いますので、主日礼拝のカテゴリについて、別ブログに蓄積していくことになりました。
今後、礼拝説教については
http://blog.goo.ne.jp/nanao-message
こちらのブログで記録していきます。
どうぞ、よろしくお願い致します。
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神は、生きている者の神である(マルコ12:18~27)

2007年06月17日 | 主日礼拝
◆立派な答え
 本日は、来週の聖書の箇所を朗読することろから始めたい。
マルコ12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。
 少なくとも、当時の聖書の専門家は、イエス様の答えを立派だったと認めた。サドカイ派の人々はこの論争に敗北して去る。私たちにとって、イエス様の答えがよく分からなかったとしても、聖書(旧約聖書)の専門家にとっては、非常に良い論争であり、イエス様の答えは立派だったというのである。
 サドカイ派の人々は、当時の上流階級の人々に支持されていた知的にも財的にも豊かな人々だった。この人々は、復活は無いということを主張していた。その論争をしていくために、聖書に基づいて説得していた一番有名なところが今日の箇所である。したがって、練り上げられた話なのである。そうやってサドカイ派は勢力を伸ばしてきた。旧約聖書の中だけでなく、今のキリスト教の世界にも、復活はないという人々もいる。
 
◆聖書の預言の聞き方
聖書の論争を聞くときに心に留めておきたい箇所がある。
 ペテロの手紙Ⅱ 1:20~21 何よりもまず心得て欲しいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
 当時の状況の中で、神の言葉として語った言葉を一般化してはいけない。一般化してよいものと悪いものがある。「聖書にこうかいてある」と言って、論争をしてきた人もいた。一般論にして、論争するのは愚かなことである。
 では、どういう流れに基づいて解釈すべきか。それは、聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだから、神様の御心として聞くべきであると、パウロが言っている。自分の主張を正当化するために神の言葉を利用してはいけない。
 今日の箇所は、一人の女性が子供を産まなかったために、別の人と結婚していくべきではないかとモーセが語った箇所を利用して、復活はないということを言おうとしている。サドカイ派の人々の言葉に埋没しないようにしていただきたい。イエス様は、神の心はどこにあるのかということに基本を置いて語った。天空からの言葉と地面からの言葉の差である。
 「その女はだれの妻になるのでしょうか」これが、言葉のマジックである。私たちの周りでは、もう少し巧妙である。誰が考えても復活はないと言われている。復活を信じていると言うと、驚かれる。あなたは復活すると言われた。ばっかじゃない?で終わる。

◆命は誰のものか
 信じられないかもしれないが、今でも教会の中に復活を信じられないグループもある。しかし、私たちは復活を信じるものの群れとして生きている。イエス様が死者の復活について、こう語る。
マルコ12:24~27
 この箇所を読んで、そうか、と納得する人は少ないと思う。夫婦仲が良い人が、死んだ後も一緒になりたいと思っているが、地上では一緒でも、神の国では別れ別れということか。どの夫婦も死んだ後も夫婦でいられるのか、と言われたことがある。私が七尾に来た頃は、いろんな人が尋ねてきた。最初の頃は、よく来た。
 復活があるかないかという議論は、おろかな議論である。なぜなら、復活を確認することはできないからである。しかし、復活させると神様はおっしゃった。よく考えていなければならないことはない。新聞を開いて、誕生欄も死亡欄もあるが、復活欄はない。誕生ということは、何もなかったところから新しい命が生まれることである。死とは、いままであった命がなくなることである。何もないところから新しい命をつくることと、前に一度創ったことのある命をもう一度創ることが、神にとってはどちらが簡単か。これは、人間の感覚なのでそういう論争は不要である。大切なのは、神の御心である。
 神は、あなたを復活させると言われたのである。大切なのは、命が誰のものかということである。命は神のものである。誕生を与えたのが神様ならば、復活を与えることも可能だろう。私たちの方に命があると考え、神様は関わっていないと考えるならば、私の命を神様ごときが、復活されるということは考えられなくなる。サドカイ派の人々は、私の命は私のものなので、死んでしまえば終わりで結構と考える。彼らは子孫を残すことが大事だと考えていた。この地上で人がどう生きていくか。こちらの方に興味があった。

◆神の御心に聞く
 あなたたちは、聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
「復活させる」というのは、神の約束である。モーセの言葉で論争を挑んだ彼らに対して、モーセに語られた神の言葉で切り返している。モーセに語られた神は、私は生きている人の神であると言った。
 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出る。この律法学者の問いは、イエス様が、神の言葉を第一にしていることを知ったがゆえに、どれが神の言葉で一番大切かを問うたのである。モーセの言葉ではなく、モーセに語られた神の言葉の方を大事にするイエス様の答えを聞いたのである。私たちは、神の言葉を聞いて、日々、具体的な事実の中に展開する。モーセは、神の言葉をきいて、この地上で命を永らえることは祝福されることだと言った。その家庭の中に子孫が絶えないように、こう工夫しなさいと言った。聖書の言葉を自分勝手に解釈してはならない。
 命の主が、私たちに何を語っているのか。私たちに命を与え、人生を与え、死を賜り、信じるものには復活を賜る神の言葉に帰依することが大事である。自分の考えを一度捨て、神様がなんと言っておられるかによく耳を傾けてみると、違うものが見えてくるのである。
(2007年6月17日 釜土 達雄牧師)
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あなたに欠けているものが一つある(マルコ10:17~22)

2007年02月18日 | 主日礼拝
◆永遠の命を与える旅の始まり
 一連の物語の前半である。旅に出ようとされたイエス様のところに、その人が走り寄ってきた。先週も、私たちは、このたびがどんな旅であったかに耳を傾けた。緊迫感のある旅であった。十字架へ向かう旅である。
 イエス様は、死と復活を予告されていた。弟子たちは、その言葉の意味が分からなかったが、緊迫感のある旅となっていた。このあと、十字架に向かう最後の1週間に入る。マルコの目的は、最後の1週間をきちんと描くことであった。イエスは先頭に立って進み、この11章以下の最後の1週間になだれ込んでいく。
 イエス様の生涯は、最後の一週間、そしてそのピークである十字架に向かうためにあった。クリスマスがあったのは、この十字架に向かうためである。神様の目的は、主が十字架につけられることであった。イエスキリストの生涯は、十字架に向かう旅であった。その直前の出来事である。イエス様は、自分が十字架につけられることをあからさまに語っていた。
 しかし、弟子たちは理解できなかった。神様から愛されている神様の子が、神様から見捨てられて、十字架につけられるということは、常識的には考えられない。しかし、神様はイエス様を、十字架に向かわせるためにこの世に生まれさせた。そして、その目的は達成される直前まできた。
 その旅のはじめに、問うたのである。主イエスキリストは、何ゆえに十字架に向かって歩むのか。それは、永遠の命を信じるものたちに与えるためであった。主イエスの生涯の目的を、まさに、この若者は、旅の初めに聞いたのである。これほど、見事な問いはなく、この場所にふさわしい問いはなかったはずである。最後、十字架に向かっていく旅のはじめに、問うたのである。
 マルコは、たくさんあった質問のなかから、この問いをピックアップして、この場所に記した。物語を書くときには、ストーリーが出てきて、ポイントが出てきて、リズミカルに動くと言うことが大切である。いよいよエルサレムに向かう、最後の旅のスタートである。マルコは、いろんなことを考えて、この物語を挿入したのだろう。神の配材というべきか、この話こそ、ここにふさわしいと思っている。マルコがそう思って、この話を入れたんだろうな、と思って読むべきである。

◆イエス様の性格
今日の話は噛み合っていない。イエス様と、その周りの人々の会話は、よく「とんちんかん」になる。分かっている人と、分からない人がいる。今日のスタートもおかしい。永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいかという問いである。まさに、その物語がここに入っているのには意味がある。永遠の命を与えるために、イエス様は十字架に歩まれた。にも、関わらず、この問いに対する答えをこうされた。
「なぜ、私を『善い』と言うのか。」
こういうところが、イエス様のイエス様たるゆえんである。イエス様は、私たちを包んでくださるお優しい方だと思っていたら、神の国に入って躓くだろう。何と冷たい言い方だろう。これが私たちの主イエスである。知っておくべきことは、本当に、冷たく意地悪でおっしゃったのか、それとも他に意図があるのかということである。
イエス様は、なぜ子供たちを祝福するために憤られたのか。単に短気な人ではない。そういう人なのよ、と思っていてはいけない。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
「先生、そういうことはみな、子供のときから守ってきました」
この質問をした人は、律法を知っていた。忠実にそれを守ってきた。この男に対するイエス様の態度が、一変したのはこの後である。イエス様は彼をじっと見つめ、慈しんで言われた。“慈しんで”言われたのである。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」

◆彼の不安と迷い
ここで、イエス様がおっしゃっているのは、こういうことである。「あなたは、答えを知っているはずなのに、なぜ私に問いに来たのか。イスラエルの中で、律法を守っていれば、永遠の命を受け継ぐことを知っているはずだ。それなのに、何を私のところに聞きにきたのか。」そういう問いをされたのである。イスラエルのなかで、永遠の命を受け継ぐには、どうすればよいかを律法によって、聖書によって、長老たちによって聞かされているはずである。なぜ、それ以上に聞くのか。不満なのか、心配なのか、間違っていると思うのか。他の人たちは、律法をきちんと守らなければならないと聞いて、それをきちんと守っている。
それまで、律法を守ってきたにも関わらず、彼は不安であった。確信が持てなかった。本当に永遠の命を受け継ぐことができるかどうか、不安であった。だから、イエス様に問うた。ひとつは、永遠の命を受け継ぐことができるかどうか、確信が持てなかった。もうひとつ、永遠の命を受け継いだからといって、どうなるのかという迷いがあった。
当時、永遠の命を受け継ぐというのは、自分が死ぬということだったのである。これは、ザカリヤのところで話をした。子供がいなかったザカリヤは、神殿の中でイスラエルの救いを祈らなければいけなかった。人の復活はないということが、当時の常識であった。永遠の命を受け継ぐということは、自分の命がわが子の中に入っていて、代々、受け継がれること。神の国に、自分の子孫が生きることが、自分の永遠の命という意味であった。だから、子供がいないということは、永遠の命に預かれないということ、救いの中に入れられないということであった。
私たちは違う。イエス様の十字架と復活を信じているので、私たち自身が復活することを知っている。しかし、彼は違った。永遠の命を受け継ぐには、どうすればよいのでしょうか。この問いは、いま彼の置かれている状況の限界であった。

◆天に富を積む
このあと、再来週に23節以下を取り扱う。イエス様が、あのらくだの話をする。金持ちが神の国に入る話をしている。永遠の命を受け継いで、自分が死ぬ話ではない。金持ちが、神の国に入る話をしている。これは、再来週聞くべき、大どんでん返しである。
いずれにしても、金持ちの彼は、問うた。イエス様は、いったん皮肉を言ったが、彼をじっと見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」
イエス様は、天に富を積む話をされた。すると、その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
「天に宝を積む」この言葉は、不思議な言葉である。なんとなく分からないし、どういう意味を持っているのだろうと思う。神の国に行って、富を持っていてどうするか、と思う。それを使って良い暮らしができるわけでもない。しかし、イエス様はこの言葉が大好きである。彼は、イエス様から、こうしなさいといわれて、悲しみながら立ち去った。「それはできない」と思ったからである。だから、彼は去っていった。「あなたに欠けているものが一つある」
しかも、この言葉はなんと不思議な言葉であろうか。「天に富を積むことになる」と言ったが、永遠の命を確実に受け継ぐことができるようになるとは語られなかったのである。この言葉のどこに気を落としたのか。彼の問いに対する答えでなかったからだろうか。天に富を積むつもりになれなかったからか。ただ、一つだけ、彼がイエス様の前に立っていたときの態度が分かる。彼は、自分の生活を変えるつもりはなかったということである。自分の生活のすべてをうち捨てるつもりで聞いたわけでなかった。アドバイスは求めるが、その通りにするかどうかは、彼が決めるつもりであった。
もし、本当に永遠の命を受け継ぐためにすべきことを知りたかったならば、「先生、そうすれば、確実に永遠の命を受け継ぐことになりますか。」イエス様が、そうだ、と言われれば、彼はそうしただろう。しかし、彼はそうは問わなかった。そこまでするつもりはなかったからである。自分の人生のすべてを賭けるつもりはなかったからである。この人は、なんと言うのだろうか。そうか、大丈夫、それならば永遠の命を受け継ぐことができるよ、という言葉をきっと期待していた。「あなたに欠けているものが一つある」という言葉は、期待していなかった。イエス様が慈しんで言われた言葉を、彼は、慈しみだとは思わなかった。

◆イエス様に従い、十字架を見る
私たちは、イエス様が、実はここでも不思議なことを言っておられることを見ておかなければいけない。欠けているものが一つと言っているのに、イエス様は2つのことをおっしゃっている。持っている物を売り払うだけでなく、「それから、わたしに従いなさい」と言っている。持ち物を売り払うことではなく、こちらの方が重要だということを、私たちが後から知ることができる。
彼が、このままイエス様に従って行って、見ることになるのは何だろうか。イエス様は、おっしゃった。「それから、わたしに従いなさい」このたびは、永遠の命を与える旅であった。そのために、主は十字架に向かって、最後の旅を始められる。あなたご自身が、神の国に入れられるという約束、赦しの契約であった。彼の問いの奥底にあるすべての事柄を含めて、どうすればあなたが永遠の命を受け継ぐことができるか、しっかり、その眼で見ることになる。
しかし、彼は悲しみながら立ち去った。イエス様に従うつもりがなかったからである。今の生活を捨てて、主に従うものとして地上を生きるかどうか。しかし、彼は主に従う生き方ではなく、自分の生き方を選んだ。そこに永遠の命を受け継ぐ道はない。
(2007年2月18日 釜土 達雄牧師)
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メシアの秘密(詩編110:1,マタイ22:34-46)

2007年01月29日 | 主日礼拝
◆主イエスの問い
 今日の御言葉を通して、主は私たちに次のように語りかけておられます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」今、この御言葉を聞いている私たち一人一人がそのように問われているのです。私たちは一体この問いに対して、何と答えるでしょうか。
 この問いは元々、ファリサイ派の人々に対して向けられたものでした。彼らは律法の専門家です。他の誰よりも律法を厳格に守り、神の御心に適った生活を送っていると自負していました。しかし、主イエスは彼らの偽善を暴かれました。彼らの信仰が上辺だけのものに過ぎず、心から神を畏れ敬っていないこと。律法を厳格に守っているということに安心してしまい、自分で自分を義としていること。そして、自分たちと同じように律法を守ることのできない人々を見下し、心の中で裁いていたこと。主イエスはそういう彼らの偽善的な態度を批判されたのです。そして、彼らが自分たちの偽善に気付き、心から悔改めるように促されたのです。
 しかし、彼らは決して悔改めることはありませんでした。むしろ、自分たちの罪を指摘されればされるほど、彼らの心は頑なになって行ったのです。そして、何とかして主イエスを罠に陥れようと、敢えて意地悪な質問を主イエスにぶつけたのです。

◆ダビデの子
 ところがここに来て、今度は彼らの方が逆に信仰を問われる立場に立たされたのです。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」そう問われたのです。そして、この方の人格に隠されている深い秘密の前に立たされることになったのです。
 もちろん、この時、ファリサイ派の人々は、主イエスが御自身について問うておられるということに気付いてはいませんでした。彼らは主イエスが「メシア」であるとは信じていなかったからです。「メシア」というのは、旧約聖書のヘブライ語の言葉で「油注がれた者」という意味の言葉です。新約聖書のギリシャ語では「キリスト」という言葉で訳されています。「キリスト」という言葉も「油注がれた者」という意味です。旧約聖書においては、神がある人を特別な使命を果たすためにお選びになる時に、その人の頭に油を注ぐという儀式を行ないました。それは主に預言者や祭司や王といった人々でした。そこから「メシア」というのは、神の使命を果たすために特別に選ばれ、遣わされた人のことを意味するようになりました。旧約聖書においては、このメシアがダビデ王の子孫から生まれると約束されていたのです。ですから、ここでファリサイ派の人々がメシアは「ダビデの子です」と答えたのは間違いではなかったのです。
 この「ダビデの子」という言葉にはいろいろな意味が込められています。ダビデというのは、イスラエルの歴史の中で最も偉大な王と称えられている人物です。彼の時代、イスラエル王国が成立し、イスラエルは最も繁栄しました。しかし、その後、王国は北と南に分裂し、捕囚に遭い、国は滅ぼされることになります。主イエスの時代にも、ユダヤの国はローマ帝国の支配下に置かれておりました。ユダヤの人々は重い税金を取り立てられ、皇帝崇拝を強いられ苦しい生活を強いられておりました。ですから、イスラエルの人々は再び、力ある指導者が現われ、ローマ帝国を滅ぼし、あの輝かしいダビデ王朝を再建する日を夢見ていたのです。人々はそういうメシアがダビデの子孫から生れることを期待していたのです。

◆メシアの秘密 真の人・真の神
 しかし、主イエスは彼らが期待したようなメシアではなかったのです。否、遙にそれ以上の方であったのです。そのことを示すために、主イエスは詩編110編1節の言葉を引用されました。それはダビデ王自身の言葉とされています。そこには、次のように記されています。「主はわたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで』」。ここで最初に「主は」と言われている言葉は、旧約聖書では神の名を表す「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と言う言葉です。ヘブライ語のアルファベットでは四文字で書きます。しかし、十戒にも「神の名をみだりに唱えてはならない」とありますように、イスラエルの人々は神の名を口にすることを恐れて、これをヘブライ語で「わが主」という意味の「アドナイ」という言葉に読み替えたのです。そのようにしている内に、誰も本来の発音が分からなくなってしまったと言われています。それゆえに、この神の名は「神聖四字」と呼ばれるようになりました。「アドナイ」という言葉は、一般的に僕が主人を呼ぶ時に使う言葉で、神だけに使われる言葉ではありません。それは一般的に「主人」を表す言葉です。「わたしの主」と言われている2番目の言葉はこの「アドナイ」です。主イエスの解説によれば、ダビデが二番目に「わたしの主」と呼んでいるのは、メシアのことであると言うのです。これはこういうことです。人々はダビデの子孫からメシアが生れると信じて来た。しかし、そのダビデ自身が、そのメシアを「わたしの主」と呼んでいる。そうであるならば、それは単なるダビデの子ではなく、それ以上の存在ではないか。そう問うておられるのです。敢えて言うならば、最初の「主」は父なる神で、ダビデが「わたしの主」と呼んでいるのは、御子なるイエス・キリストのことです。しかし、ダビデが自分の子孫からイエス・キリストがお生まれになることを知ることができるはずはありませんから、ダビデは「霊を受けて」そのように語ったのだと主イエスは言われているのです。つまり、人間には知りえないことを、ダビデは聖霊の働きによって預言したというのです。
 これは大変興味深いことではないでしょうか。ここでは、私たちが聖書を読む際にとても大切なことが語られているのです。聖書はイエス・キリストを証しするために書かれた書物です。ですから、イエス・キリストを信じることなしに、聖書を理解することはできません。聖霊の働きがなければ理解できないのです。私たちは使徒信条において「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生れ」と告白しています。これがイエス・キリストの人格の秘密なのです。イエス・キリストは、マリアより生れた点においては真の人です。ダビデの子なのです。しかし、この方は聖霊によって宿った点においては神の御子であり、真の神なのです。ダビデの主である方なのです。このメシアの秘密を理解する時、初めて聖書の御言葉を正しく理解することができるようになるのです。
聖書は私たちをイエス・キリストへと導き、この方を「わたしの主」と信じ、告白するために書かれた書物です。私たちがこの方を信じ、礼拝をするために書かれた書物です。ですから、聖書は礼拝の中で、私たちの主の御言葉として読まれる時に、初めて正しい仕方で聞かれるのです。

◆他者と共に生きる
 この前の部分で語られている二つの戒めも、イエス・キリストが語られた御言葉として聞く時に、初めて正しく理解することができます。ここで主イエスがこの二つの戒めについて語ったきっかけはファリサイ派の問いかけでした。しかし、きっかけはいずれにしても、ここで大切なことは、主イエスにおいては、神を愛することと隣人を愛することとは、分かち難い仕方で結びついていたことです。それはこの方の人格の秘密と深い関わりがあるのです。この二つの戒めに共通することとは一体何でしょうか。それは一言で言えば「他者と共に生きる」ということです。人間が孤独な存在としてではなく、他者と共に生きる存在として造られていること。そのように他者と共に生きる時に、人間は本当に自由で幸せな人生を生きることができることをここで主イエスは教えて下さっているのです。人間は生来、神と共に生き、隣人と共に生きる存在として造られたのです。だから神を愛し、隣人を愛して生きる時に、人間は最も自然で最も幸せな人生を歩むことができるのです。
しかし、聖書においては、人間が神に背を向け、自分一人で生きようとし始めた時から、人間に不幸が訪れたのです。人間は真の神を神として崇めず、自分をあたかも神のように崇めるようになりました。それを聖書では罪、より厳密に言えば「原罪」と言います。その結果、隣人との関係もおかしくなりました。アダムはエバに罪の責任を転嫁したのです。そして、この夫婦から生れた最初の子供たちは、妬みゆえに、兄弟殺しの罪を犯しました。人間が神と向きあうことをやめ、自分を絶対化するようになってから、人間関係は崩れ始めたのです。私たちが神との正しい関係を失う所では、隣人との正しい関係はありえません。いつも自分を隣人の上に立て、隣人を自分の都合の良いように利用するようになります。私たちは隣人を愛しているように見えながら、隣人を自分のために利用していることが如何に多いことでありましょうか。

◆隣人との関係
 聖路加病院の理事長をされておられる日野原重明先生は、その著書の中で、大変興味深いことを語っておられます。そこで、日野原先生は医師としての経験されておられますが、医師は宿命的にある「悪魔性」を心の内に持っていると言うのです。それは何かと申しますと、一人の患者を「人」としてではなく、「もの」として見てしまう誘惑だと言います。腕の良い外科医には特に見られることだと言うのですが、兎角、自分の腕を試したいために、患者を手術の実験台にしてしまうというのです。そこで、若い医師には「それが自分の愛する人や家族であっても手術をするかどうか、まず自分に問いなさい」と日野原先生は教育しているそうです。日野原先生は続けて次のように言っておられます。「…医師はかけがえのないひとりの人間である患者を見ずに、自らの研究の対象として、病んだその臓器を見ています。自分のもとに、ひとつでも多くのがん化した臓器や老化した血管がいまにも到着することを待ち望む気持ちにもとらわれます。厄介な病であればあるほど、研究意欲に燃える医師の心は湧き立つのです。」それを日野原先生は自分の内に住む「悪魔性」と呼んでおられるのです。
 それは何も医者に限らず、私たちすべての者の内に潜んでいる悪魔性ではないでしょうか。人を人とも思わず、単なる「もの」として扱ってしまう誘惑は、私たち自身の内にもあります。それは最近の兄弟殺しや夫婦の間の殺人を待つまでもなく、私たちが常に犯している過ちです。自分にとって都合の良い内は人を利用するだけ利用しておいて、都合が悪くなると、ものを捨てるように人を捨ててしまうことがないでしょうか。
 それは家庭においても言えることです。ただ同じ家の中に住んでいれば、それで家族なのではありません。私たちは家族に対して、一人の掛け替えのない人格として出会う時に、初めて家族になるのです。子どもに対してもそうでしょう。子供を愛しているように見えながら、親はしばしば自分の理想の子供の姿、自分の願望を子どもに押し付けているだけのことがあります。そこでは、本当に子どもと出会っていない。一人の掛け替えのない人格として子供と出会っていないのです。あるいは、教会の中でもそうでしょう。私たちは今こうして、同じ礼拝堂の中に身を置き、共に礼拝をしていますが、本当に隣りにいる人がわたしの隣人になっているでしょうか。
 
◆キリストによって愛する者へと変えられる
 神との関係についても同じことが言えます。私たちはあたかも、私たちを幸福にするための道具であるかのように、神を「もの」のように扱っていないでしょうか。お賽銭を投げ入れて、お願い事をすれば叶えてくれるような機械仕掛けの神のように扱っていないでしょうか。あたかも使い捨てカメラのように、神を次々に代えて行くのが、現代人の姿ではないでしょうか。
 しかし、そのような中途半端な関わり方しかできない私たちの所に、神は自ら人となって来て下さったのです。それがイエス・キリストというお方です。この方は御自身の命を捧げ尽くすほどに神を愛されました。文字通り、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる神を愛されました。イエス・キリストは、御自身の命を十字架において献げられることを通して、神の前に唯一正しいと認められる礼拝を捧げられたのです。
そして、同時に、この方は私たちの真の隣人となって下さったのです。神が人となられたということは、神が私たちを御自分と対等な人格として扱って下さることを意味します。神を神とも思わない私たち罪人をも、神はなお一人の掛け替えのない人格として愛して下さる。どこまでも身を低くし、私たちと同じ目線に立って向かい合い、私たちの心の奥深くまで分け入って、私たちの心の訴えに耳を澄ましてくださる。そして、私たちの罪を背負って、十字架の贖いの死を遂げて下さった。イエス・キリストは御自身の身を滅ぼすほどに、私たちを愛された。そのようにして、イエス・キリストは私たちの真の隣人となって下さったのです。イエス・キリストにおいては神への愛と隣人への愛が一つとなっているのです。
私たちはこの真の救い主によって罪から贖われ、キリストの御身体なる教会の肢とされた者たちです。教会はこの方が満ち満ちている場です。聖霊が働いておられる場です。この方は今は天にあって、神の右に座しておられます。そこから、御言葉と聖霊によって、私たちを御自分の身体として相応しく造り変えて下さるのです。私たちの内から神や人をもののように扱う悪魔のような心を取り除き、柔かく血の通った心に新しく造り変えて下さるのです。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する者へと造り変えられて行くのです。このキリストの御身体なる教会においてこそ、神は真に「わたしの神」となり、隣人は真に「わたしの隣人」となるのです。この真の主を証しする日々を今週も歩んで参りましょう。
(2007年1月28日 2007年度石川地区交換講壇 野崎卓道牧師)
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自分自身の内に塩を持ちなさい(マルコ9:42~50)

2007年01月21日 | 主日礼拝
◆小さな者を受け入れる
 先週と同じ聖書の箇所である。前回は42節から48節を中心に、本日は49,50節が中心に聞く。しかし、今日の箇所は先週の箇所と深く関わっているということを知って、御言葉に耳を傾けたい。先週のつまずかせるという言葉は、9章37節にある「受け入れる」という言葉と対になっている。私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れる。私の名のためにこのような子供の一人を受け入れない者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまうというのである。イエスさまは、時々このような厳しいことをきちんと伝える。幼稚園のお友達は、新しいお友達、小さなお友達のために大きなお友達は一生懸命お世話をするようにと語る。B組の子供たちは、1日入園のときは、年長の先生と過ごす。C組の子供たちは、
D組の子供たちには、前からいたお姉ちゃんやお兄ちゃんとして、新しいお友達を受け入れるんですよ、と言う。はじめて幼稚園に来るお友達。あなたは、小さいお友達だという話をするのではない。大きなお友達として、小さなお友達を受け入れるようにと言う。
 ところが大人は、おもしろい。「そんなことを言われると私はつまずく。」これを、弱者の恫喝という。受け入れられるものとして生きていきなさいということは書いていない。教会を去っていった人あり、そのままいる人もあり、様々である。周りの人々の善意に頼って、ぬくぬくと教会の中にいると、この御言葉が自分ではなく、自分の周りに向かって語られていると思う。
 しかし、あなたを「小さな者」とは聖書は言っていない。あなたが、小さな者を受け入れなさいと言っている。ここをしっかり知っておく必要がある。そうであるがゆえに、42節と43節は違う。

◆あなたがたは地の塩
 先週はおへその話を聞いた。これらの言葉が「塩」という言葉で集約される。
人はみな、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。
私は、長老の息子として育ち、教会学校に行かなければお小遣いがあたらなかった。立山町でクリスチャンホームはうちだけで、周りの人と話が通じない。周りの人は、ダビデやアブラハムやゴリアテの話は知っているが、桃太郎や金太郎の話は知らなかった。とってもよく理解できた聖書の話と、分からなかったところがある。その中でも小学生のときに「何でか」と思っていた箇所のひとつが、この塩の話である。
塩に塩気がなくなれば、というが、そんなことはあるだろうか。酒は、放っておくと酢になる。豆腐も納豆もずっと置いておくと腐る。しかし、塩は腐らない。砂糖も結晶になるだけである。塩も腐るのかと思っていたが、塩は結晶になると知ってから、この箇所が分からなくなった。塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。塩に味をつけたことはない。しかし、教会学校の先生は、この言葉をよく使う。
マタイ5:13の方が、よく使うかもしれない。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」
 「どうして、僕だけなんで教会学校に行かなだめなんけ?」と、よく言ったものである。そうしないとお小遣いが当たらなかった。この質問をしつこくし続けたら、教会学校の先生は怒る。「お前たちは地の塩なんだから、来なければいけないんだ。世の光だから来なければいけないんだ。だから、おまえたちだけ来れば、いいんだ。」この言葉は、あとから真理だと分かる。

◆塩が塩気をなくすとき
どうやったら、塩が塩気を失うのか。神学校に行って、ある説教集で「塩が塩気をなくすとき」という説教を見た。塩が塩気を失うのは、どういうときか知っているか。それは、塩が溶けない時である。周りをラップで包んで、料理の中に入れる。コーティングして料理の中に入れる。周りに触れないようにする。周り中を塩水にして飽和状態にしておけば、溶けない。
説教は続く。「今はあんまりなくなりましたが、昔はご飯を食べるとき、ご飯と同じ大きさの石がよく入っていました」溶けない塩が料理の中に入っているのは、石が入っているのと同じ。塩が塩味でなくなるのは、そういうときである。その説教は、こう続く。キリスト者はそれぞれの持ち場立場へ遣わされていって、塩とならなければいけない。塩が塩のままでいようとする限り、塩味がつかない。周りの人々の中に入っていって、溶けていって、自分の存在を捨てて、周りの人々を生かすことになるのではないか。私は、これは決定的に人生を変える説教となった。私は、クリスチャンです、周りの人々のことなどどうでもよい、私が主と共に生きることが大事である、私の信仰を守り通して生きたいというとき、それは塩であることは間違いないが、塩気が無くなっている状態に違いない。

◆主が愛されたのはこの世
クリスチャンは時々間違える。自分が救われることに興味があり、自分が神様を求めることに興味がある。しかし、小聖書と呼ばれるヨハネ3:16はどうだったか。
 神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じるものが
あの有名な箇所である。この聖句は、神はそのひとり子をお与えになったほどに、キリスト者を愛されたとも、教会を愛されたとも、神を信じる者を愛されたとも書かれていない。「世」を愛されたと書かれている。だれがひとり子を信じているかさえも、書いていない。神様が愛されているのは、教会だけではない。キリスト者だけではない。この世を愛し、この宇宙を愛し、私たちの周りにいる一人ひとりを愛している。
 神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
 法律のベースとなる、有名な言葉「罪を憎んで、人を憎まず。」これは、教会が生み出した言葉である。現代法の基礎のひとつとなった。神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ならば、何ゆえに私たちの役割はなにか。
 それは、地の塩だからであり、世の光だからである。塩の役割を果たさなければいけない。光の役割を果たさなければいけない。神が私たちを、そのような者として、神の御心に沿うものとして、それに忠実に従う僕とならなければいけない。私は、その役割を果たしますと決心し、洗礼を受け、人が私を恨んだとしてもうらまず、人が私を呪ったとしても、その人の祝福を祈る。それがキリスト者である。けれど、挫折することもある。その塩が塩味を求めるときがある。地の塩だといわれても、もう塩をやってられないと思うときがある。塩は、私が塩をやってられないと言っても、塩である。水の中に入れば溶けてしまう。これが、塩である。
 光は輝きたいと思って輝いているのではない。輝いてしまうのである。溶けないように、溶けないように頑張ることの方が、大変である。溶けちゃうのが塩なら、溶けちゃったらいいのに、とイエス様がおっしゃっている。

◆塩で味付けされた言葉
 今日の聖書の箇所では、「人はみな、火で塩味を付けられる」と言う風に、私たちの中に塩があるという話になっている。罪を犯す足や手や目がある。そのあなたがたは、キリストという塩味がつけられている。塩は良いものだ。塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。
 私たちキリスト者の中に塩をお与えになった。塩で味付けられたこの世、塩で味付けられた一人ひとりを神様は愛すると言ってくださっている。私たちは、そのことをしっかり知っておかなければいけない。
コロサイの信徒への手紙4:2~6
 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人ひとりにどう答えるべきかが分かるでしょう。
私たちが、それぞれの持ち場に遣わされて行くときに、私たちが塩であることがわかるのは、私たちの言葉であり、態度である。あなた方が地の塩、世の光、体の中に塩を持っている一人ひとりである。そうであれば、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。御言葉に耳を傾けて、それぞれの言葉を整えよう。主がお喜びになる言葉をおのずと発してしまう。安心して、語ればよい。そのときに、主の御心がどこにあるかをたずねれば、それに味付けされた言葉しか話せない。
(2007年1月21日 釜土 達雄牧師)
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命にあずかるほうが良い(マルコ9:42~50)

2007年01月14日 | 主日礼拝
◆底本に欠けている箇所
同じテキストで2回、御言葉に耳を傾ける。今日は前半の48節までがポイントになる。聖書を読むときは、知識を持つとよく理解できる。聖書自体を読んでいくときに知識を持つことは大事なことである。旧約聖書と新約聖書があるという知識は、基本中の基本である。一時期、新約聖書だけを多く印刷したために、新約聖書のみを持って来る人も出てくるようになったが、旧約と新約が一緒になって、聖書である。新約聖書だけでは、聖書ではない。
マルコによる福音書は、最初の福音書である。ペテロといつも一緒にいたマルコが書いたといわれている。エルサレムに家があった。おそらく、最後の晩餐の家を提供したマルコの息子だろうと思われる。ペテロと行動を共にして、聞いた事柄を細かく記録した。これが、土台となって、マタイによる福音書が書かれる。ローマの高官に個人的に手紙を書く形で、報告書として提出したものがルカの福音書である。したがって、マルコとマタイ、ルカは共観福音書と言われる。
ただし、ヨハネによる福音書は違う視点で書かれた。これが聖書に入る過程で、非常に議論になった。
聖書の節とは、あとからつけられたものである。ギリシャ語には、句読点がない。単語がずらっと並んでいる。聖書は、最初から章や節、タイトルがあったわけでない。昔は写本といって、一生懸命写した。同じような形で巻物をつくり、テストをする。聖書全文を1つを一生のうちに作ることができれば優秀な方である。
今日は、聖書の中で変だなと思っていることに気がついているか。44節と46節は、どこに行ったのか。98ページの下に、9章44節と46節が出てくる。底本に欠けている箇所の異本による訳文である。43節から48節の間の物語には、3つのフレーズがあって、最後に「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」が入っている。もともとマルコが書いたものは残っていないので、それを写していくあるグループにはこれらの節があるが、ない方が古いものだと分かっている。つまり、どのような過程で聖書が書かれ、それが誰の手によっていつの時期に写されたかまで分かる。世界の中で、古い歴史のものでは、聖書の研究が一番進んでいるというくらいに、聖書のことはよく調べられている。

◆つまずくとは受け入れないこと
マルコ9:37と9:42は対比されている。つまり、「受け入れる」の反対が、「つまずかせる」という言葉になっている。クリスチャンらしく生活していないことを躓きだと思っている人たちがいる。清く正しく生活しなければいけないという。そういう生活から離れて誤解されることを躓きと言う。しかし、これはつまずきという言葉ではない。つまずきというのは、本当につまずくことである。つまり、受け入れられない。つまずかせないならば、どうなるのか。それは平和に過ごせるということなのである。受け入れるというのは、互いに平和に暮らすためのことなのである。

問題は、43節以下である。
「もし片方の手があなたをつまずかせるなら・・・」
つまずかせる相手は、42節は「私を信じるこれらの小さな者」になっているが、43節からは「あなたを」になっている。心が戦い切れない。誘惑に負けてしまっている。42節は、自分の外にいる人のことである。しかし、43節以下は、自分のことである。
 自分の責任を取ろうとしないで、自分の罪を免れるために、言い訳をしていくあなたの問題を話している。外の枠は「小さな者」ということでくくり、「小さな者」とは何か。

◆おへその話
 故・富山浩一先生のおへその話を聞いたことがあるだろう。聖書の話をした後に、こういう。イエス様は、もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさいとおっしゃいました。私の体の中で一番罪を犯すのは何であろうか。口だろう。見てはいけないものばかり見てしまう。目もえぐらなければいけない。人の不幸は蜜の味。そんな話を聞くのは大好きや。あれもこれも、と考えていたら、罪を犯さないところを捜したほうが良いと思った。風呂屋で、自分の身体を見て、罪を犯さないのは、おへそだけだろうなと思った。富山こういちが死んだとき、おへそだけが神の国に行って、ふわふわふわ~と神の前に立つ。イエス様に「おまえは、誰だ」「はい、富山こういちのおへそです」「残りはどうした」「他はどうした」「地獄で永遠の火に焼かれております」こんな話をしたら、婦人会の人にしたら、「先生、おしたわしや~」と言われた。私の話は、実はそこから始まるのである・・・と、こういう説教である。罪を犯し続けるこの身体で、地獄に行っているこの身体を全部神の国に入れるのが、イエス様の十字架と復活なのです・・・という、説教である。
 先日、小松教会でもこの話をしてきた。よくみると小松教会で、富山先生からこの話を聞いた人が少なかった。

◆生き様を見ている主
しかし、よく読んでみると、イエス様の十字架と復活は、この箇所には出てこない。
 地獄に落ちるという話ではない。ちゃんと生きていないと地獄に落ちるから、立派な生き方をしなさいと言っているのではない。あなたの生き様を神が見ている。神があなたの生き方としてみている。一番最後になって、あなたは天国、あなたは地獄というふうに割り振るのではなく、いま、あなたの生き方を見ておられる。そして、あなたの生き方が変わることを望んでおられる。では、手を切り落とせばよいのか。いいえ、手に悪さをさせるのは、私たちの心である。罪を犯し続ける心が変わらない限り、身体のどこかが罪を犯す。そのあなたを神様は見ておられる。
「だーれも見ていなくても、神様が見てるんでしょ。」この言葉は、どれほど大事なことか。我々が生きている、その生き様すべてを見ている方がいる。地獄に行くのが怖いから、ということではない。心の奥底まで、神様は見ている。私たちの心が変わること、神様、助けてくださいと祈ることを期待してみておられる。神様が見ておられるということを知って地上を生きていくのと、神様なんか見ていないと思って生きていくのには、大きな違いがある。
 神様が私たちの一生、人生をしっかりと見ておられる、その上で、私たちの生き方を変えなさいとおっしゃっておられる。そして、そのときにあなたの身体がそろったままでも、神の国に入れられる道も備えられている。それも見て、今の生き方を考えなさい。
つまずきは受け入れないことである。自分の身体も、自分の周りの人々も。
(2007年1月14日 釜土 達雄牧師)
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わたしたちの味方(マルコ9:38~41)

2007年01月07日 | 主日礼拝
◆愛を宣べ伝えること
 今年最初の礼拝である。今年も主の御言葉に耳を傾けていきたい。
コリント13章1~8
特に4節から8節は、愛の賛歌と呼ばれ、愛というところに自分の名前を入れて読むと、自分がどれほど愛から遠いかを感じてしまう箇所である。
 神様の言葉を語ることが許されている人々がいる。天使たちの言葉を語ることができても、愛がなければ意味がないということをパウロは言いたかった。預言する賜物を持っていても、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい。
 私たちは信仰者であり、キリスト者である。教会に連なる者である。しかし、パウロは愛について語った後に、こう語った。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 教会は信仰を述べ伝えていると思っている人がいる。神を愛することが大切だと説いている。それは、間違いではない。しかし、最も大いなるものは、神への信仰ではなく「愛」だと語っているのである。だから、私たちは愛の宗教だといわれている。信者を増やすことではなく、神の愛を宣べ伝えることが教会の大きな役割なのである。
 今日のヨハネの言葉の前に、「私の名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」と語られた。「私の名のために」と言われた。私ではなく、私をお遣わしになった方を受け入れる。

◆小さな仕事に誠実なもの
 二足のわらじ、三足のわらじと言われる。牧師の仕事なので、教会の仕事が大事なのは当たり前である。幼稚園の仕事をずっとしていると思われている。子供たちからの呼び出しがあってもあまり行かないが、県庁や市役所からの電話だとすぐに出る。やっている仕事が、幼稚園の仕事が多い。私は、教会の仕事の方が大事だと知っている。小さな仕事に誠実でなければ、大きな仕事は与えられない。忠実なよい僕だと褒められるのは、小さなことに忠実だった者であった。目の前にある小さな事柄を誠実に行っていくことが、何にも増して宝なのである。小さな事柄を一生懸命やる。神様の名前で、行っていく。神に対する愛、周りの人々に対する限りない愛によって行っていく。目の前にいるこの人のためにもイエス様が十字架についてくださった。それを知っていれば無碍な行動はできない。
 私たちには、自分の生活がある。礼拝とは、日曜日くらいは、教会に行って清らかな気持ちになってというような、日常生活の彩りなのか。または私たちの生活の中心なのか。そこが「私の名のために」という言葉に係っている。本当にその人を神が愛していると知っていて、その人と関わるのは、生き死にがかかるほどに大事なことなのである。決定的に違う。
 その言葉を聞いて、ヨハネがイエスに言った。
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました」ヨハネは、褒めてもらおうと思っていった。基本的な愛情がない。神様が遣わしていると思っていない。信仰がない。だから、やめさせようとした。でも、やめなかった。どうしましょう。そう言ったのである。
 愛が大事なら、愛なき悪霊の追い出しはおかしいだろう。そうでしょう、イエス様。それが、ヨハネの言った事である。みなさんは、どうお考えになるであろうか。

◆逆らわないものは味方
石川県宗教連盟というものがある。私は副理事長である。日本宗教連盟の理事長は山北先生である。日本基督教団の総会議長である。こちらのほうは浄土真宗が強いので、お東さんが理事長を努める。副理事長が4人いて、輪番制だが、キリスト教は独立していて、いつも副理事長になる。そこへ行くとキリストさんと呼ばれる。刑務所などで話をするのも、この組織から出される。
深刻な話をしているときに、私が入っていったらぱっと話が止まった。キリスト教は、あまり信者がいないのに、あちこちの結婚式場で4割がキリスト教である。天理教の青年部長が結婚をするが、結婚式はキリスト教でしたいと彼女が言っているらしい。どうやってキリスト教は、ホテルにそこまで食い込んだのか。そういうのは、係がいてホテルを回るのか。はっきり言うが、だれも頼んでいない。ホテルや式場が勝手にやっている。結婚式の牧師は、のと楽はちゃんとした牧師ではない。加賀屋は、日曜日以外は、能登圏で背負っている。日曜日の午前中は劇団の人がやっている。
結婚式場の人たちが緊張する。本物が来たということで緊張される。内灘のマリアージュなどで司式をすると、係の人たちは非常に緊張する。これで宜しかったでしょうか。「キリスト教でやると言うと問題ありますが、キリスト教式というならいいのでは。」と答える。多くの人がゴスペルを歌っているが、ゴスペルを歌っている人で、あれは賛美歌だが、ほとんどの人がノンクリスチャンである。ハンドベルをやっている人も同じであろう。
アメージンググレースは賛美歌である。私たちはよく知っていることである。教会と関わりのない人たちが、いろんなことをやっている。どれほど多くの人々が、メリークリスマスと言ったか。それを間違っているとは言っていない。イエス様の名を使うことについて、私たちは寛容なのか。イエス様はなんとおっしゃったか。やめさせてはならない、とおっしゃった。私たちに逆らわないものは私たちの味方なのである。

◆愛をもって祈る者となる
私たちは、何を宣べ伝えなければいけないのであろうか。教会に来てキリスト者になることを宣べ伝えているのか。わが子を十字架につけてもなお、神様はあなたを愛しているということを宣べ伝えているのであろうか。それとも、洗礼を受けなければ地獄に落ちると宣べ伝えるのであろうか。クリスチャンになるかどうかが大事だと語るのか。キリストの弟子として生きていく決断である。自らの生き方を決断し、大事なことである。私たちも召されて弟子になった。しかし、そうだからと言って弟子だけが大事なのか。私たちの周りにいる人々のことを愛することが、もっともっと大事なのではないか。神にとってはかけがえのない一人なのか。私たちは、愛するものになりなさいというメッセージをしっかりと伝えていかなければならない。
主イエスキリストの名によって、実態が分からなくても一生懸命よいことをしようとしている人々を祈りによって支えていくことは何も悪いことではない。イエス様の名によって誓約をして、イエス様の名によって子供たちが育てられていくなら、すばらしいではないか。
ただし、地の塩、世の光、キリストの手紙、キリストの香りとして精錬した戦士として立たされていることは忘れてはならない。キリストの弟子だということで、私たちに一杯の水を飲ませてくれる人は、それはキリストにそうしたのである。
とりなしの祈りをし、キリスト者として、彼らを支えていく責任がある。ヨハネはやめさせようとした。しかし、イエス様は祈りによって支えるものとなれと言われた。私たちは、この1年、愛をもってすべてのことを成そうとするものを支え続けていくものでなければならない。祈りによって支えられ、祈りによって成していく。キリスト者の最大の責務は、祈りだということを忘れずにいきたい。
(2007年1月7日 釜土 達雄牧師)
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まだ悟らないのか(マルコ8:14~21)

2006年08月27日 | 主日礼拝
◆イエスと弟子の思いの違い
 私たちはいま、主イエスの奇跡物語を集めた箇所を読み進めている。この後、ペトロの信仰が問われ、死と復活について予告し、11章に入ると最後の1週間に入っていく。これまで、奇跡物語について解説を聞き、信仰の面で、これを受け止めてきた。今日の弟子たちと主イエスキリストの言葉を聞いて、私たちはこの聖書の中身が分かるはずである。当時の弟子たちは分からなかったが、私たちは分かるだろう。イエスキリストが「まだ悟らないのか」と言われた後に、「私たちはわかっております」と答えられるはずである。弟子たちが、とんちんかんな議論をして勘違いをしているが、私たちは分かっているだろう。
 ゆっくりと今日の物語を見てみたい。
 マルコ8:14~
 ここしばらく、連続講解を聞いていた人は分かるだろう。分かるはずである。何のことか分からなければ、弟子たちと同じところにいる。分からないといって恥じることはない。
 12のかごと7つのかごにいっぱいになったことを神の完全数字だと言う人もいる。しかし、ここで語ろうとしたのは、むしろマルコが語りたかったのは弟子たちが分かっていなかった、自分もよく分からなかったということなのである。このときは、きっとこういうことだったのだ、と弟子たちは解説をしていたと思われる。弟子たちは、そのことを恥ながら、あのとき悟っていなかったことを語ったのである。イエス様が語りたかったことと、弟子たちが考えていたことの違いはなにか。

◆食べることは大事
 今日の箇所の前は、「彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた」とある。
神の子イエスキリストが、神の子であることを証明するものではない。しるしは与えられない。奇跡によって、しるしは与えられない。そういわれて向こう岸へ行ったのである。その向こう岸に行く舟の中で、弟子たちはパンを持ってくることを忘れた。パンが1つしかないことを議論していたと言うが、おそらく、パンを忘れたことの責任をなすりつけあっていた。
 イエス様は、これに気づいて、私が言いたかったのはそういうことではない、という。
パンは大事である。教会の婦人会で話が盛り上がるのは、お弁当をどうするかということである。教会総会記録をどうするかというときは、発言は活発ではない。修養会のお弁当の話になると活発になる。日常だから、大事なのである。基本的な生活のことは大切である。弟子たちが食べ物のことを論じ合っていたことを軽蔑してはいけない。しかし、覚えておかなければいけない。5つのパンと2匹の魚で5000人を養われたことである。1つのパンがあれば、弟子たちの分くらいはイエス様が用意してくださる。自分たちがパンを持っていないから、イエス様に叱られたと思っている。わずかなパンと魚で5000人、4000人を養われた主イエスが、弟子たちの分くらいは、必要ならば用意してくださる。主が共にいてくださるということはそういうことである。弟子たちは、自分たちがパンをもっていないからだと思ってしまったのである。
 主イエスキリストが、食べ物のことをないがしろにしていたのではない。弟子たちは、主イエスキリストは、必要なものを必要なときに備えてくださるということを信じていなかった。現実に、そういう現場を目にしながら、自分たちでパンがない、パンがないと大騒ぎしている。必要なものが満たされていないとき、大騒ぎする。主がそのくらいのことを十分に知っていながら、目の前にあるものを見て、汲々としてしまう。

◆主の恵みは満ち溢れる
 何が分からない、何を悟っていないといわれたのか。なぜ、心がかたくなだというのか。「覚えていないのか」と言われた。「わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンのくずでいっぱいになったかごは、幾つあったのか」この質問は、大好きな質問である。こういった質問ではなかった。「私が5つのパンを裂いたとき、食べたのは何人だったか」と聞けば、1つのパンで弟子たちを食べさせられるか、これは「どれだけ余ったか」という話なのである。足りたかと言う話ではなく、余った話なのである。覚えていないのか、余っただろう。あなたたちが必要に満たされているときに、主は必要なだけしか与えなかったのか。十分必要な数だけを用意してくださったのか、たっぷり余ったのか。妙に、教会学校のときに「余った」という話をよく聞いた。神様のめぐみは、足りるのではない。これ以上ないというくらいに余った。12も余った。7つも余った。神様の恵みは、必要が満たされるだけではなく、余るものなのだ。大事なポイントである。
 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種よく気をつけなさい」と言われて、自分たちがパンを持っていないことを論じ合っていた。「余るんだよ、神のめぐみは」16日から発表のあった宝くじをあけてみて、3000円当たった。よく見ていると1億円と4000番違いのものもあった。最近は、100番違いというものもあった。違っていたら、何の価値もない。5000人分余ったのではなく、12かご余った。主の恵みとは、そういうものである。
 主イエスキリストが神の子であるという証拠は与えられない。少なくとも奇跡物語はそういうことを意図していない。しかし、この奇跡物語を通して、私たちは神様が悲しむもの苦しむものを見捨てずに癒されるということであった。何千人もの前で手品や魔術をするような形で行われたのではなく、主の基にいるものだけが知ることができた、ひっそりとした奇跡であった。主の御側で働いていた弟子たちだけであった。それらの奇跡を通して、マルコが語ろうとしたのは、神の苦しむものを見捨てられない、食べ物のことを心配してくださるということである。
 限りない神の私たちへの愛情。それが、マルコの語ろうとしたことである。あなたに対する、神の愛は、十分にあふれるほどにあったのではないか。溢れて余りがあるほどではなかったのか。ちょうどではない。8分目ではなく、溢れていた。なぜ、まだそれを悟らないのか。
 この物語は、神の愛に関する問いかけであった。神の愛が私たちにたっぷりと与えられていること。それが分かっていると、次の週の物語がよく分かる。
 神の愛が、私たちに溢れていることをよくよく、覚えておきたい。
(2006年8月27日 釜土達雄牧師)
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