◆立派な答え
本日は、来週の聖書の箇所を朗読することろから始めたい。
マルコ12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。
少なくとも、当時の聖書の専門家は、イエス様の答えを立派だったと認めた。サドカイ派の人々はこの論争に敗北して去る。私たちにとって、イエス様の答えがよく分からなかったとしても、聖書(旧約聖書)の専門家にとっては、非常に良い論争であり、イエス様の答えは立派だったというのである。
サドカイ派の人々は、当時の上流階級の人々に支持されていた知的にも財的にも豊かな人々だった。この人々は、復活は無いということを主張していた。その論争をしていくために、聖書に基づいて説得していた一番有名なところが今日の箇所である。したがって、練り上げられた話なのである。そうやってサドカイ派は勢力を伸ばしてきた。旧約聖書の中だけでなく、今のキリスト教の世界にも、復活はないという人々もいる。
◆聖書の預言の聞き方
聖書の論争を聞くときに心に留めておきたい箇所がある。
ペテロの手紙Ⅱ 1:20~21 何よりもまず心得て欲しいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
当時の状況の中で、神の言葉として語った言葉を一般化してはいけない。一般化してよいものと悪いものがある。「聖書にこうかいてある」と言って、論争をしてきた人もいた。一般論にして、論争するのは愚かなことである。
では、どういう流れに基づいて解釈すべきか。それは、聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだから、神様の御心として聞くべきであると、パウロが言っている。自分の主張を正当化するために神の言葉を利用してはいけない。
今日の箇所は、一人の女性が子供を産まなかったために、別の人と結婚していくべきではないかとモーセが語った箇所を利用して、復活はないということを言おうとしている。サドカイ派の人々の言葉に埋没しないようにしていただきたい。イエス様は、神の心はどこにあるのかということに基本を置いて語った。天空からの言葉と地面からの言葉の差である。
「その女はだれの妻になるのでしょうか」これが、言葉のマジックである。私たちの周りでは、もう少し巧妙である。誰が考えても復活はないと言われている。復活を信じていると言うと、驚かれる。あなたは復活すると言われた。ばっかじゃない?で終わる。
◆命は誰のものか
信じられないかもしれないが、今でも教会の中に復活を信じられないグループもある。しかし、私たちは復活を信じるものの群れとして生きている。イエス様が死者の復活について、こう語る。
マルコ12:24~27
この箇所を読んで、そうか、と納得する人は少ないと思う。夫婦仲が良い人が、死んだ後も一緒になりたいと思っているが、地上では一緒でも、神の国では別れ別れということか。どの夫婦も死んだ後も夫婦でいられるのか、と言われたことがある。私が七尾に来た頃は、いろんな人が尋ねてきた。最初の頃は、よく来た。
復活があるかないかという議論は、おろかな議論である。なぜなら、復活を確認することはできないからである。しかし、復活させると神様はおっしゃった。よく考えていなければならないことはない。新聞を開いて、誕生欄も死亡欄もあるが、復活欄はない。誕生ということは、何もなかったところから新しい命が生まれることである。死とは、いままであった命がなくなることである。何もないところから新しい命をつくることと、前に一度創ったことのある命をもう一度創ることが、神にとってはどちらが簡単か。これは、人間の感覚なのでそういう論争は不要である。大切なのは、神の御心である。
神は、あなたを復活させると言われたのである。大切なのは、命が誰のものかということである。命は神のものである。誕生を与えたのが神様ならば、復活を与えることも可能だろう。私たちの方に命があると考え、神様は関わっていないと考えるならば、私の命を神様ごときが、復活されるということは考えられなくなる。サドカイ派の人々は、私の命は私のものなので、死んでしまえば終わりで結構と考える。彼らは子孫を残すことが大事だと考えていた。この地上で人がどう生きていくか。こちらの方に興味があった。
◆神の御心に聞く
あなたたちは、聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
「復活させる」というのは、神の約束である。モーセの言葉で論争を挑んだ彼らに対して、モーセに語られた神の言葉で切り返している。モーセに語られた神は、私は生きている人の神であると言った。
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出る。この律法学者の問いは、イエス様が、神の言葉を第一にしていることを知ったがゆえに、どれが神の言葉で一番大切かを問うたのである。モーセの言葉ではなく、モーセに語られた神の言葉の方を大事にするイエス様の答えを聞いたのである。私たちは、神の言葉を聞いて、日々、具体的な事実の中に展開する。モーセは、神の言葉をきいて、この地上で命を永らえることは祝福されることだと言った。その家庭の中に子孫が絶えないように、こう工夫しなさいと言った。聖書の言葉を自分勝手に解釈してはならない。
命の主が、私たちに何を語っているのか。私たちに命を与え、人生を与え、死を賜り、信じるものには復活を賜る神の言葉に帰依することが大事である。自分の考えを一度捨て、神様がなんと言っておられるかによく耳を傾けてみると、違うものが見えてくるのである。
(2007年6月17日 釜土 達雄牧師)