俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

聞き流し

2008-09-09 19:03:06 | Weblog
 人は日常的に「聞き流し」をしている。
 名前を呼ばれて本人だけが反応するためにはそれ以前から聞いている必要がある。言語の伝達のためには時間が必要で、漫画のように同時に提示できる訳ではない。
 例えば「大田」という人がいるとする。彼は「大西」にも「大川」にも反応しない。「オー」の時点では反応せず「大田」になって初めて反応する。文字と違って音は遡れないから「オー」の時点では知覚されながら意識には上らず「タ」の音が聞こえてから初めて意識に上る。
 テレビやラジオを聞き流ししていても同じようなことが起こる。関心のあること、例えば好きな有名人や「株価」という言葉が聞こえると突然意識によって捕らえられる。
 人間には膨大な量の情報が与えられている。その総てを意識していたら大変だからごく一部の情報しか意識には上らない。知覚される情報量は意識される情報量より圧倒的に多い。

原始共産制

2008-09-09 18:52:58 | Weblog
 こんな「なぞなぞ」がある。
 5匹の猿が「木に登りたい」と思いながら歩いていたら6本の樫の木が見つかった。その時猿は何と言っただろうか?
 答え:「ムツカシゴザル」
 「なぞなぞだから「難しい」ということになっているが実際には何も問題は無い。それぞれが勝手に木を選べば良い。
 8コースのプールで7人が泳ぐ場合、1コースを空けて7つのコースを使うことになる。もし9人が泳ぐなら9人目の人は自分と同等のレベルの人が泳ぐコースを選ぶだろう。
 もし8コースを100人で泳ぐなら無茶苦茶になる。多分まともには泳げない。設備や施設や資源(食料や水を含む)が充分なら仲良く分け合うことができる。こんな状態なら原始共産制の共存社会が可能だろう。しかし実際には足りないから競争や取り合いが起こる。
 「衣食足って礼節を知る」と言うとおり、基本的な欲求が満たされるだけでマナーも良くなる。「金持ち喧嘩せず」という諺もある。

客観性と他人事

2008-09-09 18:38:28 | Weblog
 福田前首相は辞任の記者会見で「私は自分を客観的に見ることができる。あなたとは違う。」と発言して、多くの人がこの発言に不快感を持った。それはなぜだろうか。
 福田氏は客観性と無関心(無関係)を混同している。無関心(無関係)な第三者の立場から見ることを客観性と信じている。
 キェルケゴールはヘーゲルの客観性を非難した。生きることを自分の(subjective)問題と捉えない客観的な( objective)姿勢を許せなかった。これ以降の哲学ではsubjectiveには「主観的」と「主体的」の2つの訳語が必要になった。
 何事も客観的に(他人事のように)捕らえる態度には責任感が感じられない。国のリーダーは同時に最高責任者でありあらゆる問題に責任があるにも関わらず、福田氏はそれを主体的な問題とは捉えなかった。
 福田氏は決して自分を客観視できていない。もし客観視できれば「いつも他人事のように話す無責任な政治家」としての自分の姿に気付ける筈だ。
 但し自分が辞めることによって自民党に追い風が吹くと考えたのなら、それは客観的で正当な判断だっただろう。