俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

叱られて

2013-11-20 08:54:22 | Weblog
 もし成績が悪ければ叱られるなら、生徒は頑張ろうとするだろうか。頑張り甲斐のある人は頑張るだろうし、頑張っても無意味な人は頑張らないだろう。後者の場合、頑張っても「努力が足りない」と叱られるから不快さが二重になる。どうせ叱られるなら頑張らないほうが得だ。そしてこのことにはプライドを守る効果もある。自分の成績が悪いのは努力しないからであって頭が悪いからではないという自己正当化が可能になる。自分は「できない」のではなく「しない」だけだから、やろうと思えばいつでもできるという偽りの誇りを捏造して自分で信じ込む。
 日本人の学力は正規分布をせず、世界でも珍しい2こぶラクダ型になっているそうだ。この奇妙な現象の原因は成績下位者が努力を怠るからだ。努力をしても評価されないから努力することが馬鹿馬鹿しくなってしまう。
 能力とは先天性×後天性だと思うのだが、日本ではなぜか努力が総てであるかのような努力万能主義が好まれる。人が平等であるためには先天的な差があるべきではないと考えるからだろうが、こんな事実に背いた「べき論」は碌な結果を招かない。
 10の潜在能力を持つ人が5の力しか発揮しなければ努力不足だ。しかし6の潜在能力の人が5の力を発揮したら充分に努力したと評価すべきだろう。それを結果だけで努力不足と決め付けられればやる気が削がれて努力を放棄する。その結果として5の潜在能力の者が2、4の潜在能力の者が1の力しか発揮しない。潜在能力の低い者が努力を怠れば上位の者との差は開く一方だ。努力を正当に評価したければ、先天性の違いを認めた上で、その人の能力に応じてそれぞれの結果を誉めるべきであって、たとえ平均点以下であろうとも咎めるべきではない。先天性の違いを認めないことによる最大の被害者は成績下位者だ。弱者の立場を理解したい人こそ先天性の違いを充分に理解する必要がある。

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