俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

牧師と医師

2015-05-23 10:08:21 | Weblog
 ニーチェの「道徳の系譜」を読み直していたらこんな文章に出会った。「彼らが治療したのは、ただ苦しみそのもの、苦しんでいる者の不快だけであり、その原因でも本来の病気でもなかった。」この文脈での「彼ら」は牧師を指す。私はこれと全く同じ論法を使って対症療法を批判することが少なくない。哲学とは汎用性があるものだと改めて思った。
 牧師であれ医師であれ、人を癒そうとする人は全く同じ罪を犯す。精神的であれ肉体的であれ、苦しんでいる人は誤った救いを与えられて満足している。考えてみれば、医療用語にはオカルト的な言葉がよく使われる。「神の手」とか「魔法の薬」とかいった言葉を平気で使う。医療と宗教はよく似ている。
 人は外界を5感を通じて現象として知覚する。物自体は絶対に知り得ない。このことを説明するためには1冊の本を書く必要があるが、平たく言えばコンサートをテレビで見るようなものだ。音も映像も目の前にあるがアーティストがここにいる訳ではない。だから幾ら声援を送っても相手には届かないし、映像に危害を加えても相手は痛くも痒くもない。ここまで極端ではないにしても、症状と原因との間には巨大な隔たりがある。
 映像に幾ら働きかけても本体には何も届かないように、症状だけを緩和しても病気は治らない。本体に、つまり原因に対処しなければならない。
 皮膚病が分かり易い。白癬菌による水虫や虫刺されによる腫れ以外の皮膚病は殆んどが内因性だ。だから塗り薬では完治しにくい。不足している栄養素の補給や、あるいは逆に知らずに摂取している有害物を絶たなければ治らない。もしかしたら臓器の障害が原因かも知れない。いずれにしても直面している不快感ではなくその原因に対処せねばならない。症状に対する対症療法によって医原病を患い、それに対して更に対症療法を重ねていれば医原病の底なし沼に嵌まることになる。悪い治療法はオウム真理教のようなカルト宗教によく似ている。

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