俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

映像

2015-05-07 10:22:15 | Weblog
 北名古屋市徳重土部の呼称が「どぶ」から「つちべ」に変えられたそうだ。「どべ」では最下位を意味するし「つちぶ」では恥部を連想させるということからこの呼称が選ばれたそうだ。
 どうせ変えるなら北名古屋も見直したらどうだろうか。北名古屋市は2006年の市町村合併で生まれたそうだが、初めてこの名を聞いた時は「汚な小屋」かと思った。北名古屋市でも「汚な肥やし」に聞こえる。
 「汚な」には古い思い出がある。「スーパージェッター」というテレビアニメがありその主題歌はセリフから始まった。
 「流星号応答せよ 流星号 来たな よし行こう」このセリフの「来たな」が私にはいつも「汚な」に聞こえた。
 主人公は腕時計型のウェアラブル端末を使ってコンピュータ制御のエアカー流星号を呼び寄せるのだがその時に「流星号応答せよ」と命じる。しかし流星号は応答などせず黙って飛んで来る。何のためにわざわざ呼ぶのか不可解だった。ボタンを押すだけで充分なのに、と思ったものだ。しかしそれでは絵にならないからこんな不自然な設定にしたのだろう。
 テレビ番組は映像を重視する。ニュースであれば現場か犯人の映像が欠かせない。しかしこの映像偏重の姿勢が番組を歪めることがしばしばある。映像化しにくいテーマは採り上げられにくい。「平和」とか「秩序」とか「思考」とかいった抽象語は絵にならない。だからニュースは犯罪や戦争ばかりになる。テレビでは絵の無い情報よりも情報価値の無い映像のほうが優先される。
 テレビのこんな体質を知っているからこれを利用しようとする人が少なくない。選挙では美人候補が注目されるから芸能人崩れが重宝される。STAP細胞も割烹着の若い女性が主役でなければあれほど注目されなかっただろう。テレビは常に見栄えに拘る。
 こんなことを続けていれば日本人は抽象的思考力を失って外見と空気に支配されるようになってしまう。「百聞は一見に如かず」と言うように映像の持つ情報量は絶大だ。しかし映像偏重を放置すべきではなかろう。

平和憲法

2015-05-07 09:44:17 | Weblog
 日本国憲法を「世界に誇る平和憲法」と絶賛する人の無知には呆れる。憲法で何らかの平和主義を謳っている国は182か国中150国もあるそうだ。他国のことを知らずに自国が一番だと思い込むのはウリジナルと同レベルの愚かな「ジャリジナル」だ。全く恥ずかしい話だ。
 一体どこの国が侵略や戦争を賛美する憲法を定めるだろうか。どの国も綺麗事を並べている。大切なのは美辞麗句を連ねることではなく、実際に有効であることだ。中国の憲法でさえ、言論・出版だけではなく信仰の自由まで認めている。但し前文で「中国共産党の指導の下」と規定しており、党が憲法の上に位置付けられている。だから有名無実の憲法だ。日本も時の権力者が勝手に曲解をしているのだから中国の憲法と大差は無い。中国で憲法が認める信仰の自由が守られていないのと同様、日本では憲法に基づく平和主義が守られていない。こんな憲法は飾り物に過ぎない。全く存在価値が無い。
 日本国憲法を世界一優れた完璧な憲法と思い込む妄想を捨てて、解釈改憲を許す欠陥憲法と位置付けし直す必要がある。私は憲法9条の第3項として「専守防衛の自衛権を持つ」と明記すべきだと考える。書かれていないから政治家や学者が勝手な解釈をする。明文化すれば曲解できなくなる。現行憲法を不磨の大典扱いするから欠陥憲法が少しもマシなものにならない。
 改めるということに対する無理解もある。改めるとは決して否定することを意味しない。補強や改善を意味することが少なくない。どんな立派な建物も年を経れば劣化する。こんな時に「歴史的建造物に指一本触れるな」と主張する原理主義者が現れて補強工事を妨害すればいずれ倒壊してしまうだろう。同じように憲法も改善を続けなければ曲解によって腐敗する。
 曲解には歯止めが掛からない。曲解を防ぐ方法は明文化以外に無かろう。一字一句変えさせまいとする原理主義者が曲解による破壊を招いているとなぜ誰も指摘しないのだろうか。
 玉虫色の憲法など要らない。玉虫色のまま放置するからこそ様々な解釈が生まれる。憲法は立憲主義の根幹だ。改憲にヒステリックに反対する勢力があるのなら改憲ではなく加憲によって明確化しても良かろう。権力者による曲解が放置されている日本と比べれば、憲法に基づいて共産党が憲法解釈権を一手に握る中国のほうが余程法治国家だとさえ言える。憲法の蹂躙をこれ以上許さないためにも、国民の意思に基づいて曲解の余地を残さない憲法に改良すべきだろう。