こんにちは「中川ひろじ」です。

みんなのお困りごとが私のしごと

20230920 武藤康一さんを偲ぶ(弔辞)

2023-09-20 21:37:40 | 

武藤さんの道

弔  辞

武藤康一様のご仏前に感謝と哀悼の意を表します。

武藤康一さんの突然の訃報に接し、昨日ご自宅をお訪ねいたしました。武藤さんはいつもと変わらぬ笑みで静かにお眠りになっていました。

今から六年ほど前の二〇一七年三月に、かつての戦争の記憶を残そうと思い立ち、武藤さんに取材をさせていただいたことがあります。昭和六年に生を受け幼少期をまさに戦争のただなかに過ごしてきたこと、戦後、おじさんの経営する会社から宮田に就職するも三信への吸収合併、労働組合委員長としての奮闘、またまた会社の斜陽の中で、長野県建設労働組合連合会に再就職したのが五五才、二〇〇〇年まで務め、その後社民党松本総支部の専従として、本年五月まで二三年間お勤めをいただきました。武藤さんのご厚意に甘え晩年まで、事務所を守っていただいたこと深く深く感謝を申し上げます。

最初の勤め先でもらった当時四五円の給料の中から、古本屋でみつけた大内兵衛の「社会主義のはなし」を買ったのが「自分がこの道へ入った始まりだった」と語っています。図書館で資本論を借りて読み、神田神保町で同じ資本論を一〇〇円で買って以降、武藤さんは、この社会の歪みをただすため、本を読み、勉強を続けてきた勉学家で、社会党・社民党一筋に生きてこられました。

武藤さんは、三信の労働組合委員長として一九六一年安保闘争をたたかって以来、最近ではイラク戦争反対集会、新安保法制反対のたたかいなど、常に私たちの先頭に立ち平和のために戦い続けてきた正義の人でもありました。

武藤さんが社民党松本総支部に務めはじめた二〇〇〇年七月、北沢清巧衆議院議員の後継で山口わか子さんが当選しました。かつて、国会議員、県議会議員、市議会議員五人を擁する社会党時代から、いまは県議会議員一人、市議会議員一人の勢力となっていますが、武藤さんは少しもひるむことなく、社会新報の請求書などに、情勢を書き私たちを叱咤激励し続けてくれました。

 地域にあっても、町会長をつとめ、また第三地区の歴史研究会の重鎮として、地域の相談役、まとめ役でもありました。私はこの間七回選挙を戦っていますが、選挙のたびに第三地区の挨拶回りを武藤さんにご案内をいただき、縣神社の歴史、武藤さんが学んだ源池小学校の事などを聞きながら、大変貴重な時間を過ごさせていただきました。もちろん地域の中での人望が厚く、武藤さんが頼んで断られたことは一度たりともありませんでした。

 武藤さんは、ワープロを早くから覚え、党の文書はほとんどワープロでした。晩年、お孫さんと携帯電話のメールのやり取りを嬉しそうにしていまいましたが、同世代の方はまずしないであろうOA機械の操作が堪能でした。

 自動車の運転免許を返納してからは、自転車で雨の日も風の日も雪の日も事務所に通ってきました。仕事の合間には、雑誌「世界」を読みふけっていました。全巻そろう「世界」は、すべてお孫さんにあげると言っておられました。

 武藤さんの仕事は、細かな経理の仕事や社会新報の発送など多岐にわたりますが、武藤さんが引退した後を、私と横内裕治松本市議とで引き継いでいますが、いまだ全てを掌握しきれていません。どれだけ、武藤さんが大変な仕事をされてきたのか身をもって実感をしている次第です。

 二〇〇〇年以降、毎週月曜日の社民党の街頭宣伝は必ず参加をしていただきました。終了後、最初のころはUCCで、いまはヴィ・ドフランスでコーヒーを飲むことを楽しみにしていました。私の事務所のスタッフが淹れるブラジルが特にお好きでした。できるならば、もう一度コーヒーを飲みながらお話を聞きたかった。

 武藤さんとの思い出は、私の仲間の皆さんは、誰もが語りつくせぬほどもっています。武藤さんから頂いたご縁を今後とも私どもの生きる指針として大切にしてまいります。

武藤康一様、このうえはご浄土より残されたご家族の皆様、そして私どもをご照覧いただきますようお願いを申し上げます。

武藤さん、本当にありがとうございました。

 二〇二三年九月二〇日

社会民主党松本総支部代表

長野県議会議員 中川博司

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20230916 元松川村議 佐藤節子さんを偲ぶ(弔辞)

2023-09-17 16:30:28 | 

弔    辞

 主治医の池田修一先生にお会いしたときに、「佐藤節子さんはどうですか」と聞いたのが、一ヶ月ほど前だったかと思います。池田先生は「佐藤さん、よくがんばっていますよ」とおっしゃってくださいました。火曜日に太美さんから「母がなくなった」とお聞きしました。こちらの方面に来ればできるだけ佐藤節子さんの顔を見に寄るようにしてきました。「中川さん、来てくれただあ。私はあいかわらずせぇ」と車いすからずり落ちそうになりながら、会話を続けます。「至さんは、どうした」と聞くと、「畑に行ってる。お茶も入らないで悪いね」と、他愛もない会話をして、「また来るでね」と別れるたびに、佐藤さん本当によくがんばっているなと思っていました。佐藤節子さん、本当に、よくがんばりましたね。私から「よくがんばりましたで賞」を差し上げます。

佐藤節子さんと最初にお行き会いしたのは、山口わか子さんの選挙の時からだと思います。当時穂高町議の三沢恭子さんや、堀金村議の山田安子さんなどが音頭を取って、女性を国会へ送る会のメンバーとして応援をしていただきました。

佐藤節子さんは、大北地域の女性の皆さんとみちを拓く会を結成し、憲法に男女平等の条項を書き込んだベアテ・シロタ・ゴードンさんのお話を聞く会を開催しました。もともとベアテ・シロタ・ゴードンさんを知る機会となったのは、至さんのお姉さんである北村照子さんから「ベアテの贈り物」という本をいただき読んだことから始まったわけですが、佐藤節子さんのすごいところは、片っ端から連絡を取って、日本側のマネージメントをしていた愛知県東海市の加藤竜子さんに行き当たり、ベアテさんが日本に来た時に大町へ本当に呼んでしまったところにあります。

また、二〇〇一年の参議院選挙で社民党が候補者を探していた時です。永田恒治弁護士に断られ、どうしたもんか思案をしていました。あるとき、三沢恭子さんと豊科のロイヤルホテルでお茶を飲んでいるときに「私、やってもいいよ」と言うではないですか。よく「男は度胸、女は愛嬌」という言葉がありますが、佐藤節子さんは、愛嬌も度胸もある人でした。

そうそう、節子さんが参議院選挙のために当時社民党の土井たか子党首と写真を撮るために上京した時のことです。まだ、マスコミ発表前でした。至さんは夜勤でいないため、筒井礼子さんと残された節子さんのお母さんの話し相手になったことがあります。お母さんが私に「兄さん、うちはどこだい」と聞きます、私が「松本の岡田ってとこせ」と答えると、お母さんは「岡田には友達がいる。わしはね満州新京桔梗町牛込加賀町二の二の石川仁子ってとこせ」と。続けて又聞かれます。「兄さん、うちはどこだい」、私が「松本の岡田ってとこせ」、お母さんが「岡田には友達がいる。わしはね、満州新京桔梗町牛込加賀町二の二の石川仁子ってとこせ、ところで兄さんうちはどこだい」・・・延々と節子さんが帰ってくるまで四時間ほど同じ会話が続きました。私も辛抱強いと思いますが、とにかく節子さんが帰ってくるまで話をつながなくてはなりませんから必死でした。そんなお母さんが、選挙中に入院しました。私が「顔を見にいかなくていいの」と節子さんに聞くと、「いけば切なくなるから終わってからにする」と言われ、選挙とはかくも厳しいものだと教えていただき、私は何としてもこの選挙頑張らなければならないと思いました。この参議院選挙では、佐藤節子さんの応援団が女性だけでつくられ、長野県中に佐藤節子さんと一緒にたんぽぽ合唱団として歌を歌いにいきました。平和の種をまき続けたのです。参議院選挙が終わった後の、九月十一日アメリカで同時多発テロが起こりました。報復の連鎖を止めなければならないと、アメリカの大学で始まった白いリボンをつける運動の先頭に立っていただきました。佐藤節子さん、あなたこそ平和の使者でした。

もうあれから、二十二年がたちます。この間、何かあるたびに松川村に呼んでいただき、私の県議会一般質問に筒井礼子さんと久保田範子さんと傍聴へきていただいたり、お付き合いをさせていただいてきました。佐藤節子さんには、ものごとを悪く考えるということが全くない人で、いつでも明るく希望を回りの皆さんに配ばり続けてきました。大北地区で聴覚障害をもつ皆さんへの支援を始めたのも佐藤さんでした。まだ国鉄に務めていたころ、白馬駅でどうも困っている様子の人がいる。声をかけたら聴覚障害のかたで、何とか身振り手振りで意思疎通をしました。その方が、後に長野県ではじめて聴覚障害を持ちながら議員となった桜井清(すみ)枝(え)さんでした。松川村議となった佐藤さんは、聴覚障がい者の皆さんへの支援のためのセブンリングスを立ち上げ手話の講習会をしたり、災害時や健康診断時の聴覚障がい者への伝達方法について当時の田中康夫知事に直訴したこともありました。

佐藤節子さん、あなたは本当に優しい人でした。村外に住む私でさえ語りつくせない思い出があります。松川村の皆さんにとって、どれだけかけがえのない人であったのか想像に難くありません。

至さん、節子さんがいなくなって寂しいと思いますので、今度は至さんの安否確認によりますね。元昭さん、太美さん、お二人は節子さんから音楽の素養を引き継いでいます。これからも平和であるからこそ音楽が楽しめる事を伝えてください。廉くん、千尋さん、あなた方のおばあちゃんは本当に立派な人でした。誇りに思って生きてください。

佐藤節子さん、これで最期にします。

佐藤節子さん、本当に、ありがとうございました。

ゆっくりお休みください。

二〇二三年九月十六日

 

社会民主党長野県連合代表

長野県議会議員 中川博司

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20230904 神代断層地震から9年白馬村堀之内地区を尋ねる

2023-09-10 06:28:45 | 脱原発・危機管理

 有賀松本市長時代、1995(平成7)年に、本郷・里山辺・寿台の3地区に福祉ひろばがつくられました。介護保険制度が始まった2000年(平成12)年には29地区に福祉ひろばが整備され、現在では合併した5町村も含めて35の地区に福祉ひろばがあります。詳細は松本市のホームページ「福祉ひろばとは」をご覧ください。

 9月4日月曜日に、私の地元の松本市岡田地区福祉ひろば事業推進協議会が主催して、2014(平成26)年11月22日土曜日に白馬村を襲った神城断層地震で半数の家が倒壊したにもかかわらず奇跡的に一人の犠牲者も出すことがなかった神城地区堀之内への視察に同行させていただきました。

 当日、お話をしてくれたのは当時堀之内地区7組の組長であった柏原武幸さんと白馬村社会福祉協議会松澤孝行事務局長です。

 最初に、概要を知ることのできる記録ビデオを鑑賞。その時のことを語る生々しいお話が語られていました。「天井と床に挟まれ身動きが取れなかった。家族や近所の方が助けてくれたが、助け出されまでの時間は長く感じ2年か3年がたったような気がした。『がんばれ、すぐ助けてやる』という声が励ましになった」(励ましの言葉は大事。生きた心地がしないというのはこのことだろう)「おじいさんとおばあさんが下敷きになっていた。おばあさんは自力で脱出できたが、おじいさんは足を挟まれて身動きがとれない。フォークリフトで持ち上げて助け出した(フォークリフトがある場所を知っていた)」など。

 ビデオの中で信州大学の大塚勉教授がなぜこの地域の特徴を説明している。「南北に糸魚川静岡構造線が走っていて、活断層がいくつもある。堀之内地区は、神城断層が糸静構造線にぶつかる狭間にあり、軟弱地盤で渚現象が起きた」とのこと、私から「過去に自身の経験はあったのか」と尋ねると、柏原さんからは「調べてみたら300年前に地震があったという記録がわかった」という。すべての方がこの場所での地震の経験はなかったということです。

 ビデオを見た後、あらためて柏原武幸さんからお話を聞く。「地震は平成26年11月22日午後10時8分県北部を震源とするマグニチュード6.7の地震が発生白馬村での観測地点では震度5強(ただ、糸静構造線の西と東では被害の大きさが異なることから、神城地区での震度はさらに大きかったことが想定される:中川)。実は、この日の昼間、白馬村社会福祉大会が開催されていた。白馬村の人口は8404人(岡田地区は7325人)で、このうち家屋被害は、30の集落のうち3つの集落が被災。全壊42戸、大規模半壊13戸、半壊22戸、一部破損164戸。全壊被害があったのは、三日市場6戸、堀之内33戸、大出1戸、峰方2戸で、8割近くが堀之内に集中していることからも地層的な影響が推測される。

 堀之内地区には隣組が8組あり、柏原さんは7組の組長をしていました。7組は10軒のうち9軒が全壊、うち2軒が倒壊4人が下敷きとなり救出にあたりました。1時間から1時間半の救出作業の結果、重症3名。このうち一人は骨折。近所の目の不自由な方のところへ駆けつけ、携帯の光をかざしてみたら、車庫へ移動していた。ほかの方が先に助けにきていてくれていた。もう1軒は、たまたま飯山に嫁にいった娘が帰ってきていて、110番して警察に救出されたが、当の飯山へ嫁に行った人が当時堀之内にいたということが分かるまでに3日かかっている(一昨年2021年8月15日の豪雨災害で犠牲になった方も辰野町からお盆で帰省していた時の事だった。常に住んでいる人への安否確認はできるが、その時たまたま訪れていた方の情報は得にくい)。父親と娘が下敷きになった家は、「あずま会」が駆けつけ救出した(「あずま会」は、移住者や若者などでつくる会)。

 また、11月22日は土曜日で柏原さん宅も普段は二人暮らしですが、雪囲いの作業のため子どもや孫が5人きていた(土日休日だから村外の親戚がいる可能性がある)。20時ころ就寝、突然強い突き上げがあった。ベッドの下に非常用のヤッケなどが置いてあった(当時、消防団長はお風呂に入っていた:ビデオ証言)。組長として見回り、救出作業が始まった。その後第一次避難所のサンサンパークなどに避難している。

 松澤社会福祉協議会事務局長の話では、村は22時20分に災害対策本部が設置され、住民同士の安否確認を要請、22時30分ふれあいセンターに1次避難所を開設している。

 避難所では、毎日対策本部の報告会が行われ、7組としても10分くらいの集会を行い「みんなで同じ行動をしていきましょう」と確認をした。

 婦人会の炊き出しが始まり、24日にはボランティアセンターが開設され延べ1809人の方が参加してくれている。白馬高校の生徒がボランティアセンターで支援物資の分別作業をしてくれた。正月前の応急仮設住宅への引っ越しを目指し、12月8日着工、29日に入居可能となり、28世帯80人が入居。

 ほぼ3年で再建できた。34戸が新築した。全壊76軒のうち2軒は他へ移住した。柏原さんは民宿をやるつもりで建てた家だが大黒柱を残して全壊してしまったが、再建した。復興住宅は10棟18世帯が入ることになる。

 堀之内地区では毎年防災訓練をしている。消火器の扱いや消火栓からの消火訓練、民生委員の時は新潟県中越沖地震の経験を研修会で聞いたこともある。防災マップをつくり、3年に一度見直しをしてきた。障がい者など要支援者への駆けつけも役割を決めてあった。実際に10分後には駆けつけていた。地域の絆、自助、共助というが、①火が出なかったこと、②動ける人はとっさに行動した、③近所のことは寝床や通帳の位置まで知っている。④屋根に雪が無かった。瓦を鋼板に変えてあった(重くなかった)。⑤家の多くは切妻つくり。柱や梁が太く、ホゾ(くさび)が効いた。⑥あってよかったもの=ジャッキ、単管、ハゼ棒、電灯、携帯電話。

 こんなことがあれば良かったこと=①対策本部の情報が末端まで行き届かなかった。②支援物資やイベントなど避難所とその他に避難している人に差があった。

 柏原さんは、東日本大震災で宮城県閖上(ゆりあげ)地区の閖上保育所で園児54人全員が避難をして助かった記事を資料で示してくれた。当時、閖上保育所長だった佐竹悦子さんは「閖上に大きな津波は来ないという話も聞いたが、近くの石碑には1933年(78年前)の昭和三陸地震による建物被害や『地震があったら津波に用心』と警告が書かれていて、避難マニュアルを毎年見直し、避難場所、渋滞しない避難経路を見つけることなど避難訓練を続けてきたことが、全員が避難できた「奇跡」につながった」と語っている。

 以上が、お話の要旨である。この神城断層地震で一人の犠牲者が出なかったことから「奇跡」と言われる。お話を聞く中で「奇跡」を生み出したものが、日頃の防災訓練であり、日頃の近所付き合いであることを改めて確認した。私から質問で「移住者はいらっしゃるのか、移住者の皆さんとの交流は日常的にあるのか」聞いた。柏原さんは「移住者というか、養子で来られた方などが中心となって『あずま会』がつくられている。消防団長もその意味でいえば移住者(養子)で、気寄りがいい」というお答えでした。考えてみれば、「移住者」という言葉も変な言葉だと改めて思う。女性の多くは嫁いでくる移住者だ(もちろん男性の移住者もいる)。岡田地区もそうした元気のある移住されたきた女性(お嫁に来た方)が元気だ。男性は比較的外の付き合いが中心で、村内のことは退職してからでないと目が向かない。その点、女性は子どものPTAなどで付き合いが日常的にある(最近ではPTAを解散したというお話も聞くし、女性も働く人が増えているので、そうとも言えない部分もあるが)。気寄りのいい地域をつくることは、自分としては青年会や岡田夏祭りを通じて目指してきたことだということを改めて思い起こしました。

 

 

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