弔 辞
主治医の池田修一先生にお会いしたときに、「佐藤節子さんはどうですか」と聞いたのが、一ヶ月ほど前だったかと思います。池田先生は「佐藤さん、よくがんばっていますよ」とおっしゃってくださいました。火曜日に太美さんから「母がなくなった」とお聞きしました。こちらの方面に来ればできるだけ佐藤節子さんの顔を見に寄るようにしてきました。「中川さん、来てくれただあ。私はあいかわらずせぇ」と車いすからずり落ちそうになりながら、会話を続けます。「至さんは、どうした」と聞くと、「畑に行ってる。お茶も入らないで悪いね」と、他愛もない会話をして、「また来るでね」と別れるたびに、佐藤さん本当によくがんばっているなと思っていました。佐藤節子さん、本当に、よくがんばりましたね。私から「よくがんばりましたで賞」を差し上げます。
佐藤節子さんと最初にお行き会いしたのは、山口わか子さんの選挙の時からだと思います。当時穂高町議の三沢恭子さんや、堀金村議の山田安子さんなどが音頭を取って、女性を国会へ送る会のメンバーとして応援をしていただきました。
佐藤節子さんは、大北地域の女性の皆さんとみちを拓く会を結成し、憲法に男女平等の条項を書き込んだベアテ・シロタ・ゴードンさんのお話を聞く会を開催しました。もともとベアテ・シロタ・ゴードンさんを知る機会となったのは、至さんのお姉さんである北村照子さんから「ベアテの贈り物」という本をいただき読んだことから始まったわけですが、佐藤節子さんのすごいところは、片っ端から連絡を取って、日本側のマネージメントをしていた愛知県東海市の加藤竜子さんに行き当たり、ベアテさんが日本に来た時に大町へ本当に呼んでしまったところにあります。
また、二〇〇一年の参議院選挙で社民党が候補者を探していた時です。永田恒治弁護士に断られ、どうしたもんか思案をしていました。あるとき、三沢恭子さんと豊科のロイヤルホテルでお茶を飲んでいるときに「私、やってもいいよ」と言うではないですか。よく「男は度胸、女は愛嬌」という言葉がありますが、佐藤節子さんは、愛嬌も度胸もある人でした。
そうそう、節子さんが参議院選挙のために当時社民党の土井たか子党首と写真を撮るために上京した時のことです。まだ、マスコミ発表前でした。至さんは夜勤でいないため、筒井礼子さんと残された節子さんのお母さんの話し相手になったことがあります。お母さんが私に「兄さん、うちはどこだい」と聞きます、私が「松本の岡田ってとこせ」と答えると、お母さんは「岡田には友達がいる。わしはね満州新京桔梗町牛込加賀町二の二の石川仁子ってとこせ」と。続けて又聞かれます。「兄さん、うちはどこだい」、私が「松本の岡田ってとこせ」、お母さんが「岡田には友達がいる。わしはね、満州新京桔梗町牛込加賀町二の二の石川仁子ってとこせ、ところで兄さんうちはどこだい」・・・延々と節子さんが帰ってくるまで四時間ほど同じ会話が続きました。私も辛抱強いと思いますが、とにかく節子さんが帰ってくるまで話をつながなくてはなりませんから必死でした。そんなお母さんが、選挙中に入院しました。私が「顔を見にいかなくていいの」と節子さんに聞くと、「いけば切なくなるから終わってからにする」と言われ、選挙とはかくも厳しいものだと教えていただき、私は何としてもこの選挙頑張らなければならないと思いました。この参議院選挙では、佐藤節子さんの応援団が女性だけでつくられ、長野県中に佐藤節子さんと一緒にたんぽぽ合唱団として歌を歌いにいきました。平和の種をまき続けたのです。参議院選挙が終わった後の、九月十一日アメリカで同時多発テロが起こりました。報復の連鎖を止めなければならないと、アメリカの大学で始まった白いリボンをつける運動の先頭に立っていただきました。佐藤節子さん、あなたこそ平和の使者でした。
もうあれから、二十二年がたちます。この間、何かあるたびに松川村に呼んでいただき、私の県議会一般質問に筒井礼子さんと久保田範子さんと傍聴へきていただいたり、お付き合いをさせていただいてきました。佐藤節子さんには、ものごとを悪く考えるということが全くない人で、いつでも明るく希望を回りの皆さんに配ばり続けてきました。大北地区で聴覚障害をもつ皆さんへの支援を始めたのも佐藤さんでした。まだ国鉄に務めていたころ、白馬駅でどうも困っている様子の人がいる。声をかけたら聴覚障害のかたで、何とか身振り手振りで意思疎通をしました。その方が、後に長野県ではじめて聴覚障害を持ちながら議員となった桜井清(すみ)枝(え)さんでした。松川村議となった佐藤さんは、聴覚障がい者の皆さんへの支援のためのセブンリングスを立ち上げ手話の講習会をしたり、災害時や健康診断時の聴覚障がい者への伝達方法について当時の田中康夫知事に直訴したこともありました。
佐藤節子さん、あなたは本当に優しい人でした。村外に住む私でさえ語りつくせない思い出があります。松川村の皆さんにとって、どれだけかけがえのない人であったのか想像に難くありません。
至さん、節子さんがいなくなって寂しいと思いますので、今度は至さんの安否確認によりますね。元昭さん、太美さん、お二人は節子さんから音楽の素養を引き継いでいます。これからも平和であるからこそ音楽が楽しめる事を伝えてください。廉くん、千尋さん、あなた方のおばあちゃんは本当に立派な人でした。誇りに思って生きてください。
佐藤節子さん、これで最期にします。
佐藤節子さん、本当に、ありがとうございました。
ゆっくりお休みください。
二〇二三年九月十六日
社会民主党長野県連合代表
長野県議会議員 中川博司
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