私が社民党長野県連合の幹事長に就任したのは2004年の3月の定期大会であった。幹事長として新たな運動を提起していきたいということで、当時衆議院議員であった照屋寛徳さんに毎月1回各支部連合に計5回講演に入ってもらった。照屋寛徳さんは、沖縄の弁護士出身で弁護士時代の著書を読むと人情派の弁護士であったことがわかる。最初に長野で行き会ったのは1998年の参議院選挙で長野県に応援に来ていただき若者とのバトルトークに参加してもらった時だ。その後、脳梗塞を患ったがリハビリに励みながら参議院から衆議院に戦いの場を移していた。
弁護士だからということもないが、以前は立て板に水を流すような弁舌流暢でウィットにとんだ話しぶりだった。脳梗塞を患って以降は、しゃべり方はゆっくりにはなったが、噛んで含めるような説得力ある話し方に変わっていた。冗談を交えながらの聴衆を引っ張り込む力があった。
その照屋寛徳さんは「沖縄は三度本土の捨て石となった」と語った。一度は1945年太平洋戦争で国体護持のために唯一地上戦が戦われたこと。二度目は1952年サンフランシスコ講和条約で本土は独立を果たしたが沖縄は米軍政下に置かれたままだったこと。三度目は1972年沖縄が本土復帰を果たしたが米軍は存置され74%の米軍が沖縄に駐留したままだったことを指している。
今年は昭和100年、戦後80年の節目の年だ。4月6日には社民党福島みずほ党首などが、松代大本営、登戸研究所、満蒙開拓平和祈念館を訪れた。松代大本営は1944年11月に工事が始まった。本土決戦に備え天皇をはじめ政府や軍部の中枢を松代に移転する計画であった。1945年4月1日米軍により沖縄本土への艦砲射撃が始まった。まさに大本営建設の時間稼ぎのための捨て石とされたのである。
以前照屋寛徳さんを松代大本営に案内したことがある。「大本営地下壕と沖縄のガマはつながっていると直感的に感じた」と述べていたことを思い出す。現在、日本はアメリカの要求のままに辺野古に新しい基地をつくり、南西諸島に自衛隊のミサイル基地をつくり続けている。3月25日に米軍のオスプレイが松本空港に轟音とともに降り立ったが、日常的に90ホーンを超える轟音の中で暮らし続けさせているのは誰か。それは無関心を装って沖縄に米軍基地を押し付けている私たち本土の人間ではないのか。沖縄を4度目の捨て石にさせないために声を上げるのは私たちだ。