こんにちは「中川ひろじ」です。

みんなのお困りごとが私のしごと

20231216 ”コバケン”のこと

2023-12-23 10:15:49 | 

母校である女鳥羽中学校でクラス担任でバスケット部の顧問であった小林健孜先生が亡くなったと、バスケ部の酒井和男君から電話があった。あらためて信濃毎日新聞の北信欄を見るとトップに掲載されていた。急に具合が悪くなったのだろうかと、篠ノ井布施五明のご自宅に電話をして奥様に事情をお聞きする。奥様が不在の12月16日土曜日に「心筋梗塞で倒れたのではないか」とのこと。慌てて、同級生やバスケ部の同期先輩の皆さんに連絡をとる。

葬儀は21日に行われたのだが、都合により前日の20日の午前中に弔問に行く。同じく同級生でバスケ部の仲間だった柳沢宗義君と一緒になる。7,8年前から心臓の難病を抱えていたとのこと。奥様が実家の伊那に出かけていて、夜まで連絡はとれていたが、朝電話をしても出ないので、ご近所の方に見に行ってもらったら倒れていたという。奥様はそばにいてやれなかったことを悔やまれていた。ご子息はお二人いる。どうか支えてあげてほしい。心よりお悔やみを申しあげます。

小林健孜先生は通称を”コバケン”という。健孜の”孜”は、なかなか難しい字でスマホでは出てこない。私は中学で3年間担任としてお世話になったが、小学校5年、6年の時にミニバスケットで、教わっていたことがある。まさかクラス担任になるとも思っていなかった。教科は国語だったと思う。思うといううのは、コバケンの思い出は授業の中にはない。学級運営やバスケ部の思い出の方が多い。特にバスケ部は、私たちの代の時に県大会で優勝しているのだからなおさらだ。そのたびに申しあげているが私は補欠だ。

女鳥羽中学校に来る前は南佐久郡の川上村小学校だったそうだ。奥様から聞いた。本人はバレーボールはやったことがあったが、女鳥羽に来て男子バスケットボール部の顧問となった。私の4つ上の先輩から指導を始めたが、最初から熱血漢で今なら大問題になるくらい厳しい先生であった。当時強かった鎌田中学の原先生や、近所の高校である美須々の五味先生、蟻ケ崎の茅野先生、県ヶ丘の山崎先生、深志の飯沼先生に教わりながら、次第に強くなっていった。県大会で優勝はしたが、信越大会で優勝を逃し全国大会に行けなかったことは、今さらながらに残念だった。

中学を卒業して高校三年生の時に、進路に悩み一度布施五明の自宅を訪れたことがある。相談した中身は覚えていないが、お宅を出て篠ノ井駅に向かう私に奥様が「遅れないように急ぎなさい」というポーズをとって外で見送ってくれたことを覚えている。

先生は、その後長野市の桜が丘中学などを経て校長となり、校長会の会長となった。退職後、長野県体育協会の専務理事もつとめた。私がはじめて選挙に出た2007年参議院選挙の時には、布施五明の隣組を案内してくれた。私が県議会議員にはじめて当選したときは、篠ノ井の公民館長をしていた。社民党の長野市議をつとめてきた宮崎一さんとともに、私の当選祝いをしてくれた。

最後に顔を見たのは、何年か前の参議院選挙で長野市のJAビルで行われた市民と野党の共闘による集会の時だったと思う。今年、先生のご親戚が浅間温泉の玉の湯に宿泊するということで、訪ねたが先生はお風呂に入っていて、私は次の時間が迫っていてお会いすることができなかった。そのとき、訪ねた酒井和男君や大沢一仁君が、「そろそろバスケ部のOB会をやろう」という話になったらしいが、結局実現できなかったことが一番悔やまれる。

重ねてお悔やみを申し上げ、”コバケン”の思い出をしたためておくことにします。

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20230920 武藤康一さんを偲ぶ(弔辞)

2023-09-20 21:37:40 | 

武藤さんの道

弔  辞

武藤康一様のご仏前に感謝と哀悼の意を表します。

武藤康一さんの突然の訃報に接し、昨日ご自宅をお訪ねいたしました。武藤さんはいつもと変わらぬ笑みで静かにお眠りになっていました。

今から六年ほど前の二〇一七年三月に、かつての戦争の記憶を残そうと思い立ち、武藤さんに取材をさせていただいたことがあります。昭和六年に生を受け幼少期をまさに戦争のただなかに過ごしてきたこと、戦後、おじさんの経営する会社から宮田に就職するも三信への吸収合併、労働組合委員長としての奮闘、またまた会社の斜陽の中で、長野県建設労働組合連合会に再就職したのが五五才、二〇〇〇年まで務め、その後社民党松本総支部の専従として、本年五月まで二三年間お勤めをいただきました。武藤さんのご厚意に甘え晩年まで、事務所を守っていただいたこと深く深く感謝を申し上げます。

最初の勤め先でもらった当時四五円の給料の中から、古本屋でみつけた大内兵衛の「社会主義のはなし」を買ったのが「自分がこの道へ入った始まりだった」と語っています。図書館で資本論を借りて読み、神田神保町で同じ資本論を一〇〇円で買って以降、武藤さんは、この社会の歪みをただすため、本を読み、勉強を続けてきた勉学家で、社会党・社民党一筋に生きてこられました。

武藤さんは、三信の労働組合委員長として一九六一年安保闘争をたたかって以来、最近ではイラク戦争反対集会、新安保法制反対のたたかいなど、常に私たちの先頭に立ち平和のために戦い続けてきた正義の人でもありました。

武藤さんが社民党松本総支部に務めはじめた二〇〇〇年七月、北沢清巧衆議院議員の後継で山口わか子さんが当選しました。かつて、国会議員、県議会議員、市議会議員五人を擁する社会党時代から、いまは県議会議員一人、市議会議員一人の勢力となっていますが、武藤さんは少しもひるむことなく、社会新報の請求書などに、情勢を書き私たちを叱咤激励し続けてくれました。

 地域にあっても、町会長をつとめ、また第三地区の歴史研究会の重鎮として、地域の相談役、まとめ役でもありました。私はこの間七回選挙を戦っていますが、選挙のたびに第三地区の挨拶回りを武藤さんにご案内をいただき、縣神社の歴史、武藤さんが学んだ源池小学校の事などを聞きながら、大変貴重な時間を過ごさせていただきました。もちろん地域の中での人望が厚く、武藤さんが頼んで断られたことは一度たりともありませんでした。

 武藤さんは、ワープロを早くから覚え、党の文書はほとんどワープロでした。晩年、お孫さんと携帯電話のメールのやり取りを嬉しそうにしていまいましたが、同世代の方はまずしないであろうOA機械の操作が堪能でした。

 自動車の運転免許を返納してからは、自転車で雨の日も風の日も雪の日も事務所に通ってきました。仕事の合間には、雑誌「世界」を読みふけっていました。全巻そろう「世界」は、すべてお孫さんにあげると言っておられました。

 武藤さんの仕事は、細かな経理の仕事や社会新報の発送など多岐にわたりますが、武藤さんが引退した後を、私と横内裕治松本市議とで引き継いでいますが、いまだ全てを掌握しきれていません。どれだけ、武藤さんが大変な仕事をされてきたのか身をもって実感をしている次第です。

 二〇〇〇年以降、毎週月曜日の社民党の街頭宣伝は必ず参加をしていただきました。終了後、最初のころはUCCで、いまはヴィ・ドフランスでコーヒーを飲むことを楽しみにしていました。私の事務所のスタッフが淹れるブラジルが特にお好きでした。できるならば、もう一度コーヒーを飲みながらお話を聞きたかった。

 武藤さんとの思い出は、私の仲間の皆さんは、誰もが語りつくせぬほどもっています。武藤さんから頂いたご縁を今後とも私どもの生きる指針として大切にしてまいります。

武藤康一様、このうえはご浄土より残されたご家族の皆様、そして私どもをご照覧いただきますようお願いを申し上げます。

武藤さん、本当にありがとうございました。

 二〇二三年九月二〇日

社会民主党松本総支部代表

長野県議会議員 中川博司

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20230916 元松川村議 佐藤節子さんを偲ぶ(弔辞)

2023-09-17 16:30:28 | 

弔    辞

 主治医の池田修一先生にお会いしたときに、「佐藤節子さんはどうですか」と聞いたのが、一ヶ月ほど前だったかと思います。池田先生は「佐藤さん、よくがんばっていますよ」とおっしゃってくださいました。火曜日に太美さんから「母がなくなった」とお聞きしました。こちらの方面に来ればできるだけ佐藤節子さんの顔を見に寄るようにしてきました。「中川さん、来てくれただあ。私はあいかわらずせぇ」と車いすからずり落ちそうになりながら、会話を続けます。「至さんは、どうした」と聞くと、「畑に行ってる。お茶も入らないで悪いね」と、他愛もない会話をして、「また来るでね」と別れるたびに、佐藤さん本当によくがんばっているなと思っていました。佐藤節子さん、本当に、よくがんばりましたね。私から「よくがんばりましたで賞」を差し上げます。

佐藤節子さんと最初にお行き会いしたのは、山口わか子さんの選挙の時からだと思います。当時穂高町議の三沢恭子さんや、堀金村議の山田安子さんなどが音頭を取って、女性を国会へ送る会のメンバーとして応援をしていただきました。

佐藤節子さんは、大北地域の女性の皆さんとみちを拓く会を結成し、憲法に男女平等の条項を書き込んだベアテ・シロタ・ゴードンさんのお話を聞く会を開催しました。もともとベアテ・シロタ・ゴードンさんを知る機会となったのは、至さんのお姉さんである北村照子さんから「ベアテの贈り物」という本をいただき読んだことから始まったわけですが、佐藤節子さんのすごいところは、片っ端から連絡を取って、日本側のマネージメントをしていた愛知県東海市の加藤竜子さんに行き当たり、ベアテさんが日本に来た時に大町へ本当に呼んでしまったところにあります。

また、二〇〇一年の参議院選挙で社民党が候補者を探していた時です。永田恒治弁護士に断られ、どうしたもんか思案をしていました。あるとき、三沢恭子さんと豊科のロイヤルホテルでお茶を飲んでいるときに「私、やってもいいよ」と言うではないですか。よく「男は度胸、女は愛嬌」という言葉がありますが、佐藤節子さんは、愛嬌も度胸もある人でした。

そうそう、節子さんが参議院選挙のために当時社民党の土井たか子党首と写真を撮るために上京した時のことです。まだ、マスコミ発表前でした。至さんは夜勤でいないため、筒井礼子さんと残された節子さんのお母さんの話し相手になったことがあります。お母さんが私に「兄さん、うちはどこだい」と聞きます、私が「松本の岡田ってとこせ」と答えると、お母さんは「岡田には友達がいる。わしはね満州新京桔梗町牛込加賀町二の二の石川仁子ってとこせ」と。続けて又聞かれます。「兄さん、うちはどこだい」、私が「松本の岡田ってとこせ」、お母さんが「岡田には友達がいる。わしはね、満州新京桔梗町牛込加賀町二の二の石川仁子ってとこせ、ところで兄さんうちはどこだい」・・・延々と節子さんが帰ってくるまで四時間ほど同じ会話が続きました。私も辛抱強いと思いますが、とにかく節子さんが帰ってくるまで話をつながなくてはなりませんから必死でした。そんなお母さんが、選挙中に入院しました。私が「顔を見にいかなくていいの」と節子さんに聞くと、「いけば切なくなるから終わってからにする」と言われ、選挙とはかくも厳しいものだと教えていただき、私は何としてもこの選挙頑張らなければならないと思いました。この参議院選挙では、佐藤節子さんの応援団が女性だけでつくられ、長野県中に佐藤節子さんと一緒にたんぽぽ合唱団として歌を歌いにいきました。平和の種をまき続けたのです。参議院選挙が終わった後の、九月十一日アメリカで同時多発テロが起こりました。報復の連鎖を止めなければならないと、アメリカの大学で始まった白いリボンをつける運動の先頭に立っていただきました。佐藤節子さん、あなたこそ平和の使者でした。

もうあれから、二十二年がたちます。この間、何かあるたびに松川村に呼んでいただき、私の県議会一般質問に筒井礼子さんと久保田範子さんと傍聴へきていただいたり、お付き合いをさせていただいてきました。佐藤節子さんには、ものごとを悪く考えるということが全くない人で、いつでも明るく希望を回りの皆さんに配ばり続けてきました。大北地区で聴覚障害をもつ皆さんへの支援を始めたのも佐藤さんでした。まだ国鉄に務めていたころ、白馬駅でどうも困っている様子の人がいる。声をかけたら聴覚障害のかたで、何とか身振り手振りで意思疎通をしました。その方が、後に長野県ではじめて聴覚障害を持ちながら議員となった桜井清(すみ)枝(え)さんでした。松川村議となった佐藤さんは、聴覚障がい者の皆さんへの支援のためのセブンリングスを立ち上げ手話の講習会をしたり、災害時や健康診断時の聴覚障がい者への伝達方法について当時の田中康夫知事に直訴したこともありました。

佐藤節子さん、あなたは本当に優しい人でした。村外に住む私でさえ語りつくせない思い出があります。松川村の皆さんにとって、どれだけかけがえのない人であったのか想像に難くありません。

至さん、節子さんがいなくなって寂しいと思いますので、今度は至さんの安否確認によりますね。元昭さん、太美さん、お二人は節子さんから音楽の素養を引き継いでいます。これからも平和であるからこそ音楽が楽しめる事を伝えてください。廉くん、千尋さん、あなた方のおばあちゃんは本当に立派な人でした。誇りに思って生きてください。

佐藤節子さん、これで最期にします。

佐藤節子さん、本当に、ありがとうございました。

ゆっくりお休みください。

二〇二三年九月十六日

 

社会民主党長野県連合代表

長野県議会議員 中川博司

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故竹内久幸さんを偲ぶ会

2023-06-30 08:17:20 | 

本年2月6日前社会民主党長野県連合代表・元県議会議員竹内久幸さんが逝去されました。享年70才でした。6月25日社民党長野県連合は第31回定期大会を開催し、終了後「故竹内久幸さんを偲ぶ会」を開催しました。個人の意思で「派手なことはやってくれるな」ということもあり。社民党として思い出を語る場として開催をさせていただきましたが、阿部長野県知事、信毎中谷圭治論説副主幹をはじめ各界からお集まりいただきありがとうございました。あらためて故竹内久幸さんのご冥福をお祈りするとともにご家族の皆様にお悔みを申し上げます。

           

(写真は、会派の事務局の生島さんの提供です)

本日は、故竹内久幸さんを偲ぶ会を呼びかけさせていただいたところ、奥様の八重子様、阿部長野県知事、信毎の中谷さんをはじめ、各界からお集まりをいただき、まことにありがとうございます。

 竹内久幸さんからは、ご遺族に「あまり派手なことはしてくれるな」と言い残されたと聞いておりますが、新型コロナの中で私ども社民党として、県連合の代表をつとめ、また長く議員活動をされてきた竹内さんの思い出などを語る場をつくりたいとお願いをさせていただき今日の偲ぶ会の開催となりました。

 本日は、主賓として阿部守一長野県知事をお招きしておりますが、竹内さんは阿部知事を倉田さんと一緒に最初に押し出したお一人でもございます。

 また、もう御一方信毎の中谷さんをお招きいたしました。今日のしおりににも挟んでおきましたが、3月5日の信毎の社説欄に、竹内さんが田中知事時代に提案した「治水・利水ダム等検討委員会条例」について触れていただきました。

 お二方からお話をしていただき、ご遺族のご挨拶、献杯ののち、こちらからお願いをさせていただいております皆様に竹内さんを偲び思い出などを語っていただくこととしています。どうぞ、本日はよろしくお願いいたします。

 さて、私が竹内さんを最初に知ったのは、松本市役所を退職し当時社会党の青年組織であった社青同の専従となり、その9月に行われた長野市議選、竹内さんにとっては3期目の選挙でございました。石渡の事務所に1ヶ月ほど泊まり込み、労働組合の青年部の皆さんと共に青年共闘をつくり、毎晩職場のことを話しながら行動に出かけました。本番では、遊説隊長をまかされ、手慣れたウグイスの皆さんのアナウンスを見よう見まねではじめて選挙のマイクを握り以来、マイクをもって話すことが病みつきとなりました。

 そのとき、竹内さんから聞いたエピソードを二つご紹介いたします。一つは、竹内さんの前任の市議会議員で後援会長をされていた藤倉さんのことです。竹内さんの住む地域は長年水に悩まされていました。藤倉さんは「カッパと長靴の20年」という冊子を発行されていましたが、いつでも水があふれる現場に飛んでいけるように車にカッパと長靴をいれていて、竹内さんもそれに倣っているというお話でした。雨が降り川の水があふれるたびに、自ら土嚢を積んでいたのが竹内さんです。その経験が、後の浅川流域治水対策連絡会の中で、上流部と中流部、そして下流部がそれぞれの役割を担い総合的に治水をしていこうという、今でいう流域治水の考え方につながっていったのではないかと思われます。

 もう一つは、選挙の話です。この3期目の市議選は、「竹内は大丈夫だ」という宣伝がかなり広く行われていたと記憶していますが、夜行う選対会議で「何よりもそれが一番怖い」と大沢事務局長と話し、最後まで「この選挙は大変厳しい」ということを言い続けました。その際、竹内さんから教わったことは「情勢の意思統一」の大切さです。選挙に限らず、様々な運動をすすめる際に、運動をになうすべての皆さんと情勢の意思統一をしっかり行うことが大切だということを、実際の運動の中で教えていただきました。なかなか、竹内さんのように一貫して厳しく情勢を見続けることは難しいことです。情勢だけで選挙が戦えるものでもありません。目的に向かって仲間が心ひとつに活動をしていくためには何よりも情勢の意思統一が大事だということです。

 その後、私は社青同本部に行き、戻ってきて山口わか子さんの秘書をして、社民党県連合の幹事長となり、山口さんの後、2010年から9年間竹内さんに県連合の代表を務めていただきました。この間に民主党との連立政権への参加と離脱、国政選挙への候補者の擁立、新たな候補者の発掘のための政治塾の開催、一人区となった参議院県選挙区における市民と野党の統一候補の実現など、退潮傾向にあった社民党の運動の先頭に立っていただきました。あらためて心より竹内久幸さんに感謝を申し上げます。

 奥様の八重子さんも青年運動時代からのお付き合いをいただいてまいりました。八重子さんはいつも明るく竹内さんを、時に叱咤激励をしながら支えている姿に接するたびに「いいご夫婦だな」と思っておりました。長年にわたり激務をこなしてきた竹内さんを支えてこられた内情を詳細に知る由もありませんが、さぞかし大変だったであろうと思います。それだけに共に歩いてきて来られた竹内さんがいなくなってしまったことで大きな悲しみの中におられることと思います。亡くなられたとはいえ、竹内さんはきっと八重子さんを見守っていて下さっていると思います。ぜひ、小泉さんとお茶飲み話に県連合へお出かけをください。

 主催者としては、まとまらないようなお話となりましたが、私なりの竹内さんとの思い出を語らせていただきました。終わりに、竹内久幸さんの安らかなることをお祈りし、また重ねて、本日お集まりいただきました皆様に心より感謝を申し上げご挨拶といたします。

 

 

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20211013 浜万亀彦さんを追悼する

2021-10-13 21:10:19 | 

弔      辞

社会民主党長野県連合を代表して、浜万亀彦様のご霊前に深く哀悼の言葉を捧げます。

病気療養中ということはお聞きしておりましたが、これまでもそうであったように、調子が回復し、またいつものように元気で張りのあるお声をお聞きすることができると思っておりましたところ訃報の連絡が入りました。また一人戦後信州社会党を背負ってきた先輩がいなくなることに寂寥の思い強く、悲しみで胸がいっぱいです。

 浜万亀彦さんは、全日通労働組合の運動から昭和五四年一九七九年の四月長野県議会議員に初当選、以降六期連続当選を果たし、文教企業委員長、決算特別委員長、監査委員などを歴任し、平成八年第七四代長野県議会副議長をお勤めになりました。この他、長野県労働教育審議会長、交通問題懇話会長、公営企業経営審議会長、総合開発審議会・国土利用計画地方審議会長等の要職もお勤めになりました。

当選した翌年西澤権一郎知事が病気辞任、吉村午良知事と一六年、田中康夫知事と三年、時に激論を交わし、真摯に県民のための県政に尽くしてこられました。働く者の立場から広く県政全般を見渡しての県議会議員活動が認められ、都道府県議会議長表彰、長野県議会表彰などを受け、平成十一年には藍綬褒章及び長野県知事表彰、平成十八年旭日小綬賞をお受けになられています。

 一九九一年四期目の当選後に奥様がお亡くなりになられたことは、どんなにか切ないことであったことかと当時を知る人から伺いました。

 浜万亀彦さんが籍を置いた日本社会党は一九九六年党名を社会民主党に変更し、当時県連合代表であった今井澄参議院議員が民主党に移籍したことを受け、以降二〇〇二年までの三期五年間社民党県連合の代表をお勤めいただきました。この間、北澤清功衆議院議員の三期目の当選、後継となる山口わか子衆議院議員を誕生させることができたのは、浜万亀彦さんが社民党県連合の代表を引き受けていただいたからこそ実現したことでありました。

二〇〇三年の衆議院総選挙におきましては、「俺はこれまで人にやれやれと言ってきたから、最後は自分がやらなければならない」と、長野四区から衆議院議員選挙に打って出ていただき、当時有事立法の法制化が進む中で一貫して護憲の立場から日本の平和について訴えられていた姿を思い起こします。地元岡谷市では保守革新を問わずご支援をいただきトップの票をいただきました。浜万亀彦さんは昭和十年の生まれ、戦前戦後を生き抜く中で平和憲法を守り抜くことが自身の生き方そのものでありました。

 また、常に社会的に弱い者の立場に立ち、権力と立ち向かう時には激しく詰め寄る姿は、日頃温厚な姿しか知らなかった私は一層の信頼を託しあらためて敬意を表する場面でありました。

 地元におきましても岡谷工業高校同窓会長、つるみね福祉会理事長など数々の要職をお勤めになり、平成十八年二〇〇六年の集中豪雨災害の時は、社民党調査団にご同行いただき、岡谷市へのお見舞いと共に、現地での復旧に向けてのご助言をいただきました。

  ご遺族の皆様には、浜万亀彦さんの政治活動を支えていただきましたことにあらためて感謝を申し上げますとともに、心よりお悔やみを申し上げます。

 浜万亀彦さん、私共は生前にいただいたご指導をしっかりと胸に刻み、平和な社会をつくるために邁進をしてまいります。

本当に、ありがとうございました。

どうか安らかにお眠りください。

 

二〇二一年令和三年一〇月一三日

社会民主党長野県連合代表

長野県議会議員 中川博司

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20190918 三才山の伯父さん

2019-09-19 22:13:39 | 

写真は、2018年5月26日奥様のつね子伯母さんを見舞う芳郎伯父さんと私の母。

 

弔  辞

 

 芳郎伯父さんのご霊前に謹んで哀悼の辞を捧げます。

 芳郎伯父さんは数年前まで元気に自宅で過ごされ、お宅に伺うとたいがい屋敷の畑で野菜の手入れや草取りをしていて、「おーよく来たな」と迎えていただき、昨年他界したつねこ伯母さんの漬物をいただきながらよくお茶を飲みました。

 つねこ伯母さんとは仲睦まじく暮らしていて、三年ほど前つねこ伯母さんが骨折で三才山病院に入院されたときは、芳郎伯父さんも調子を崩し一緒に三才山病院にお世話になったことは仲の良さの表れかと思いました。

 亡くなるまでお世話になった施設には、偶然私の母も世話になり、母を見舞いに行くと、芳郎伯父さんは談話室で相撲をよくみておられました。いま、その姿がみられないことに寂寥の感を禁じえません。ご家族の皆様に心よりお悔やみを申し上げます。

 

芳郎伯父さんは、三才山小日向の屋号「しんや」で、父順一、母はるよの十人兄弟の長男として生まれ、五人の子ども、八人の孫、七人のひ孫に恵まれました。兄弟ではすでに伊代治伯父、私の父昭三、俊男叔父、延親叔父が他界しております。また長男の敏博さんを九年前に亡くされましたが、充人さんが「しんや」を立派に継がれておられることに、きっと安心して旅立ったものと思います。

 芳郎伯父さんは、農業一筋に生きてこられました。戦争中、満州で車両部隊に配属されていた経験から、農業機械は大切に長く使っていたとお聞きしました。米、野菜、果樹など幅広く手掛け、白菜やネギは兄弟・親戚によく配っていました。お蚕様も、子どもたちが大きくなる昭和の最後まで続けて来られ、私の母もよく三才山へお手伝いに来ていました。

 芳郎伯父は、明るく社交的で誰とでも仲良く愉快にお話をされるお人柄で、地域やPTA、農協などの役員を歴任されてきました。昭和四十八年に日本PTA全国協議会の表彰、本郷村養蚕農業協同組合の表彰、昭和五十五年には松本市から優秀農家賞など数々の感謝状や表彰を受けておられます。

 弟の故伊代治伯父さんの影響をうけてか俳句もたしなみ、平成七年には本郷公民館の句会で一席をとらています。

「この桜 校史に残し 去り行くか」「花見して 学びし頃の なつかしく」

 三才山の伯父さんと親しまれ、兄弟の子どもである私たち甥や姪にも、いつも心を配っていただいてきましたことに深く感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

戦前、戦中、戦後を、そして大正、昭和、平成、令和の時代を生き抜いてこられた芳郎伯父さんのことを深く心に刻み、お別れの言葉といたします。どうぞ、安らかにお眠りください。

 令和元年九月十八日

長野県議会議員 中川博司

 

 

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故中澤規泰さんを偲ぶ

2019-06-24 00:06:17 | 

弔    辞

 

 中澤規泰様のご霊前に謹んで哀悼の辞を捧げます。

 一昨日、中澤さんの突然の訃報に接し、まさかと思いました。ここのところ入退院を繰り返しておりましたが、今回も退院して七月一〇日に予定をしていた松電退職者会の幹事会でお会いできるものと楽しみにしていただけに残念でなりません。

 私が中澤さんと懇意にさせていただいたのは、二〇〇〇年に衆議院議員に当選した山口わか子さんの梓川の後援会長をしていただいて以来のことです。私が選挙に出始めてからも引き続き後援会長をお引き受けいただきました。

一緒に国会見学へ行き、一緒に何度も酒を酌み交わし、一緒に挨拶回りをし、一緒に笑い、一緒に泣くこともありました。

 「俺は中川が好きだからやるんだ」といつも励ましてくれました。これまでは梓川全域を中澤さんと挨拶回りをしてきましたが、この度の県議会議員選挙では体調がすぐれない中で「下角だけは俺が回る」といってお付き合いをいただきました。行く先々で「中澤さん、調子はどうだい」と声をかけていただきました。本当に地元の皆様に人望のある暖かい、そして確固たる信念をもって生きてこられたことが伝わってきました。相手側の陣営の方からも中澤さんは一目置かれる存在でした。

福島に安心安全なコメをもっていきたいと相談をすれば、一も二もなく協力をしていただきました。

 今、考えれば最後にお会いしたのは、県議選の勝利をお伝えしにきた時でした。本当にわが事として喜んでくれました。そう、中澤さんは、いつも我がこととして山口わか子さんを、私や田口輝子さんを、そして新居禎三さんを支え続けてくれました。

 私は、中澤さんの遺志を引き継ぎ一人一人が大切にされる平和な社会をつくるため、がんばり続けることをお誓い申し上げます。

 中澤さんは、若い時から松電労組の役員を担い、仲間の皆さんを本当に大切にして生きてこられました。きっと今ごろは先に見送った松田章一さんや、杉本文男さんたちと、大好きな日本酒を飲みながら懐かしいお話をしていることでしょう。

 中澤さん、本当にありがとうございました。

 どうか安らかにお眠りください。

 

 二〇一九年六月二二日

 

長野県議会議員 中川博司

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古着屋「太子堂」

2018-11-07 21:40:23 | 

高校時代の卓球仲間の息子さん。田舎で古着屋を開業している。

和田の「太子堂」。地名をそのまま店名に。「かっこいい!」

ネットで商売をしていたが、今は店を開くまでに。

がんばれ!

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義仲・巴広域連携推進会議

2018-10-13 21:56:55 | 

木曽義仲のNHK大河ドラマ化に向けた関係自治体による連携会議が木曽町で行われた記事が10月13日の信濃毎日新聞に掲載されていました。

韓会議員一期目にも何度か一般質問で取り上げさせていただきました。

2011年9月議会一般質問

2015年3月議会一般質問

関連記事

2015年2月今井四郎兼平 2011年小矢部市視察 2011年10月義仲巴連携会議

 

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小林信五君のこと

2018-06-01 13:19:37 | 

 

小林信五君が亡くなった。アスベストによる中皮腫というガンが原因だ。30年ほど前、総評から連合に労働組合のナショナルセンターが変わる時、長野県労働組合評議会青年婦人協議会(県評青婦協)の私が議長で、私の妻が副議長、そして信五君が事務局長をつとめ、一緒に青年部運動を進めてきた。同時に国労長野地本青年部書記長をしていた。

夜遅くまで会議が続くことはしばしばであった。1987年にJRが分割民営化され、国労組合員に対する不当労働行為が続く中、大変厳しいなかで運動を進めていた。88年に始まった反核平和の火リレーに使うトーチをつくってくれたのも信五君だ。今、使っているものも信五君が作製したものです。

職場での労働運動にも強いこだわりがあり、激しい議論も行われたことを思い出す。結婚式にも出席させていただいた。58歳という若さで旅立った信五君、ご家族の皆様に心からお悔やみを申し上げます。

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