こんにちは「中川ひろじ」です。

一人ひとりが大切にされる社会を共につくります。

義仲・巴広域連携推進会議

2018-10-13 21:56:55 | 

木曽義仲のNHK大河ドラマ化に向けた関係自治体による連携会議が木曽町で行われた記事が10月13日の信濃毎日新聞に掲載されていました。

韓会議員一期目にも何度か一般質問で取り上げさせていただきました。

2011年9月議会一般質問

2015年3月議会一般質問

関連記事

2015年2月今井四郎兼平 2011年小矢部市視察 2011年10月義仲巴連携会議

 

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小林信五君のこと

2018-06-01 13:19:37 | 

 

小林信五君が亡くなった。アスベストによる中皮腫というガンが原因だ。30年ほど前、総評から連合に労働組合のナショナルセンターが変わる時、長野県労働組合評議会青年婦人協議会(県評青婦協)の私が議長で、私の妻が副議長、そして信五君が事務局長をつとめ、一緒に青年部運動を進めてきた。同時に国労長野地本青年部書記長をしていた。

夜遅くまで会議が続くことはしばしばであった。1987年にJRが分割民営化され、国労組合員に対する不当労働行為が続く中、大変厳しいなかで運動を進めていた。88年に始まった反核平和の火リレーに使うトーチをつくってくれたのも信五君だ。今、使っているものも信五君が作製したものです。

職場での労働運動にも強いこだわりがあり、激しい議論も行われたことを思い出す。結婚式にも出席させていただいた。58歳という若さで旅立った信五君、ご家族の皆様に心からお悔やみを申し上げます。

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臼井正治君

2018-05-28 23:14:10 | 

5月26日 訃報です。私と同じ美須々ヶ丘高校卓球部で市役所でも後輩だった臼井正治君が心臓性突発死で25日に亡くなりました。余りに突然のことで語る言葉もなく、夕方弔問に行ってきました。
 先週から体調を崩し、かかりつけの医者に診てもらっていましたが、回復せず仕事を休んでいました。金曜日に職場の同僚が電話に出ないことから自宅に行ってみるとすでに亡くなっていたということです。
 臼井正治君は、高校時代は私と同じペン表の速攻型でした。二つ下の大池秀樹君とダブルスを組んで中信大会で優勝もしています。(写真前列左端)
 高校卓球部の私たちの代と臼井君の代で毎年正月に新年会を兼ねて麻雀大会を開催してきました。今年は深志神社の梅風閣で行い、これが臼井君と行き会ったのが最後だった人もいます。
 私は先週の水曜日16日の松本市役所の朝ビラの時に行き会い、いつもと何も変わらない様子だったことを覚えています。
 風邪で休んでいたので無精ひげが伸びていましたが、姪御さんがひげをそり顔をきれいにしてくれました。今にも「みんな、集まってどうしたの」と起きてきそうな穏やかな顔でした。
 お父さんんも松本市役所で市民課長を務め、組合でも副執行委員長をされたことがあり、退職者会でもひとしきり惜しむ声が聞かれました。
 なお、葬儀は明日27日13時から、寿北の生蓮寺で執り行われます。 合掌

5月27日 臼井君の葬儀告別式に行ってきました。弔辞では、職場の後輩から、仕事では基本を大切にすることを厳しく教えられたこと、困ったことがあれば前面に出て対応してくれたこと、同期や気の合った仲間でゴルフや旅行を楽しんだことなどが紹介されました。美須々ヶ丘高校卓球部OBでは、私たちの代の4人と、下の代で4人が参列してくれました。 合掌

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父の一周忌

2018-04-08 18:18:59 | 

昨年4月10日に父が亡くなって一年が経つ。

同姓・親戚の皆さんにお集まりいただき一周忌の法要を行った。

父は80才を過ぎたころから外に出ることが少なくなった。

それでも投票だけは出かけてくれた。

亡くなる半年前に肺炎で入院して、さいごまで家に帰ることができなかった。

容態が悪化してから、子どもである私たち兄弟が変わるがわる付き添うことができた。

腰が悪く最期まで痛がっていた。そのたびにさすってやると「ありがとう」と応えていたが、最期はことばもなくうなづくだけだった。

医者として40年働いた。90才ともなれば、かつてのお仲間も少なくなっている。

酒が好きだった。裏町をすみかとしていた。私も何度か一緒に飲んだ。

一周忌でも、裏町で一緒に飲んだ話が話題となった。今の人には裏町という言葉が通じないかもしれない。

もう一度、父と裏町でお酒を酌み交わしたかった。

P.S 母がジャガイモをそろそろ植えなければならないという。去年は4月10日だったという。

 

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金子兜太さん逝く

2018-02-21 22:46:49 | 

 

  

アベ政治を許さないのぼり旗

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山﨑耕一郎さんを偲ぶ会

2018-02-18 23:06:36 | 

 

日本における社会主義思想の一翼を担ってきた山﨑耕一郎さんが、昨年11月お亡くなりにになり、本日有志の呼びかけによる偲ぶ会が開催され出席した。

以下Wikipediaからのコピペ(山﨑の「﨑」が間違っているが)

山崎 耕一郎(やまざき こういちろう、1940年 2月7日- 2017年11月24日)は、日本の社会運動家。1940年東京都に生まれる。父親は元早稲田大学教授(ドイツ文学)の山崎八郎。伯父(父の兄)は向坂逸郎。東京大学在学中から、学生運動、社会運動に参加。東京大学経済学部学生自治会副委員長を務める。1963年社青同(日本社会主義青年同盟)東京地区本部の専従となり、東京大学中退。1969年から1974年まで社青同中央本部書記長、1974年から1980年まで社青同委員長。1980年から社会主義協会専従となる。1998年から2006年まで社会主義協会事務局長。2006年から2012年まで社会主義協会代表代行。2012年社会主義協会顧問。2002年労働者運動資料室を創設し副理事長となり、2012年には理事長に就任した。社会主義協会代表代行退任後は、労働者運動資料室を拠点に活動を続けた。2017年11月24日、突発性心臓発作で逝去。

呼びかけに人の中に教育大学附属高校時代の同級生の小島英俊氏がいる。高校時代陸上部で長距離を共に走る仲間だったそうで、陸上部の部長を山崎さんがされていたという話ははじめて聞く話だった。「マルクスと日本人」を共著した佐藤優氏からも山﨑さんを偲ぶメッセージが届いていて紹介された。

25年ほど前、社青同の専従者学校で、講師に来られた山﨑さんはリクレーションのソフトボールに共に興じたが、一緒に温泉につかった時、心臓の人工弁が「カチ、カチ」と聞こえたことを覚えている。

山﨑耕一郎さんのご冥福をお祈りします。

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在りし日の宮﨑一さん

2017-03-08 21:50:08 | 

左は私の中学の恩師の小林健孜先生、右側が宮崎一さん。2013年10月25日の写真です。場所は篠ノ井の丸十さんです。小林先生が篠ノ井の公民館長をしていて、絵を描く宮﨑さんと知り合い、お誘いいただきこの図柄となりました。

宮﨑一さんは、川バスの仲間からは「はじめちゃん」と呼ばれ、あるいは「ぴんさん」と呼ばれていました。私の2007年の参議院選挙では選対の責任者をしていただき、篠ノ井をはじめかつての仲間の皆さんのところをごあいさつ回りに連れて行っていただきました。

一度アトリエを尋ねたことがありましたが、狭い部屋に所狭しと絵が並べられていました。川べりの木々の絵が多かったような気がします。2009年に長野市で開催した護憲大会のパンフの表紙絵も宮﨑さんの絵でした。そして題字の「ずく出せ護憲派」は、同じ篠ノ井つながりで川村龍洲さんに書いてもらいました。川村さんは書家の川村驥山氏の御養子さんですが、私は小学生のころ驥山会で国鉄にいた西村先生に地元の松岡公民館で書道を習っていたことがありました。

私の地元で小林先生も教えられていた女鳥羽中学校の校区である岡田という地名は、かつて木曽義仲と共に平家追討に立ち上がった信濃源氏一党の岡田冠者親義に起源があると言われていますが、岡田冠者親義の末裔が篠ノ井岡田に移り住んだという言い伝えもあることから、そのことを調べたいというお話で盛り上がったことを覚えています。

もちろん、宮﨑一さんといえば長野市議会議員時代、地域公共交通政策では第一人者で、現在あるバスレーンを推進した人でもあります。長野道をつくる時にも線形を提案したことをお話しいただいたこともありました。

どこへ行っても若い人も先輩も「はじめちゃん」で通っていて、誰もが懐かしそうにお話をしてくれました。本当に人望の厚い人でした。心より哀悼の意を表します。(合掌)

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高畑勲監督の野坂昭如さんへのの追悼の言葉

2015-12-13 22:11:51 | 
高畑勲監督の野坂昭如さんへの追悼の言葉

「野坂昭如さんはきっといま、久々に肉体から解き放たれて楽天的になり、日本国中を、沖縄を、自由に羽ばたきながら飛び回り、日本を戦争の道へ引きずり込ませまいと頑張っている人々を、大声で歌って踊って、力強く励ましてくれているにちがいない、と私は思います。野坂昭如さんの『火垂るの墓』と『戦争童話集』は、戦争に巻き込まれた弱者の悲劇を描ききった不朽の名作です。私たちは『火垂るの墓』をアニメ映画化できてほんとうによかったと、野坂昭如さんに心から感謝しています。」
ある新聞は、前半は全部とばして最後の「心から感謝しています。」だけを掲載した(苦笑)。

高畑勲さん、松本猛さん、又坂常人さんのトークセッション

YOKO&T
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神林旅人(かんばやし りょじん)

2015-10-22 22:32:44 | 

私が専修大学に通っていた頃、狛江市の岩戸児童館で卓球クラブの指導をしていたことがある。卓球のほかにも、音楽、絵画、工作、スポーツなどもあった。週一回土曜日に卓球クラブはあったが、絵画クラブは他の曜日だったと思う。
児童館ではクリスマス会や、七夕会、キャンプなど様々な行事が行われていたが、各クラブの先生はそういった行事もお手伝いした。
子どもたちの行事が終わって片づけてから、児童館の職員のみなさんやボランティアのお母さんたちと、懇親会もよくやった。
そのとき活躍するのが、絵画クラブの神林旅人先生である。特に「おでん」と「たれに漬け込んだバーベキュー」は絶品であった。
私は、大学を卒業して郷里に戻ったが、神林先生は妙技山のふもとに古民家を借りて絵を描きに来ていた。一度訪れたことがある。
今日、30数年ぶりに神林先生を訪ねた。
世田谷区経堂の天祖神社の隣に「あとりえたびびと」はある。
最近転んで膝のお皿を割って手術をしたそうで、無類のお酒好きが一か月飲んでいないというからよっぽどのことだろうと思う。
それでも小一時間懐かしいお話や最近の出来事などをお話して大変貴重な時間を過ごすことができた。
当時のダイナミックな絵から画風がだいぶ変わったように思う。でも見る人の気持ちを楽しくしてくれる。
写真はアトリエの中に飾ってある神林先生の絵と、その下には先生の奥様である茶子さんの陶芸の作品。


そしてけがをする前に手がけていた居酒屋食堂「ジンギスバルまーさん」の外壁です。
 
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森田恒雄さんを悼む

2015-07-11 09:33:36 | 

7月10日信濃毎日新聞「建設標」
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