私が女鳥羽中学校時代クラス担任とバスケットボール部でお世話になった小林健孜先生(通称コバケン)が昨年12月に亡くなった。その前の年5月に浅間温泉の玉の湯で先生の兄弟会が行われた際、同級生のおかみが気をきかしてくれて、教え子が何人か集まった。「OB会をやりたいね」という話はそこから始まったのだが、どうにもこうにも忙しくて手がつかずにきての訃報だっただけに、先生が生きているうちにOB会ができなかったのは残念でならなかった。
コバケンに教わった代はすべてで7代。5月連休明けに各代の代表者に集まってもらい実行委員会をつくり、会場は縁のある玉の湯にして少し余裕をもって9月8日に日程を決めた。なにしろ50年前の話なので名簿づくりが大変で、住所が分からない人が結構いる。話をしていく中で、ひょんなところでつながったり、高校の同窓会名簿から探したりと。結局46人の方に案内を出すことができて、当日の参加は21人となった。
50年というのは半世紀で、受付をして顔を見ても分からない。「あれ、背が縮んだじゃないですか」と言ったことばがでるが、中学生と言えば背の伸び方も人それぞれ、中学時代から170センチ以上あった人もいれば、私は卒業の時には158センチで、高校のときに身長が伸びて175センチになったので、中学時代には見上げていた先輩が小さく見えたのでした。
昭和45年卒業生
昭和46年卒業生
昭和47年卒業生
昭和48年卒業生
昭和49年卒業生
昭和50年卒業生
昭和51年卒業生
飛び入りで、当時美須々ヶ丘高校女子バスケット部の顧問だった五味先生が挨拶をしてくれました。
私たちの代では、県大会で優勝した。その時の切り抜きも先生は残しておいてくれた。
記念品として、大澤一仁君に書いてもらった「積愛」を奥様に贈る。
小林健孜先生の経歴
昭和18年12月3日松本市御徒町で出生。当時、父親は長野師範学校女子部の体育の教員でした。兄3人、姉2人の6人兄弟の末っ子として誕生。戦後、農地解放により長野市長沼へ転居。長沼小学校、東北中学校、須坂高校、昭和41年3月信州大学教育学部を卒業しました。高校、大学時代はバレーボール部でした。
昭和41年4月南佐久郡川上村立川上第一小学校教諭。スケートの指導にあたり郡内で2位まで押し上げました。自ら川の水を運びリンクをつくり、竹箒でリンクを整備、子どもたちのスケートの刃を研ぐなど熱心さは、川上第一小学校で行き会った後の奥様から見れば、異常なほど熱を入れていたということです。
昭和44年4月本郷村松本市組合立女鳥羽中学校に教諭として赴任。体育のほか国語の資格を働きながら取得しました。男子バスケット部の顧問。
昭和45年直子さんと結婚。昭和46年長男健太郎君出産、昭和48年次男直樹君出産。奥様いわく「すぐそばの病院で出産したのに学校にいて面会にもきてくれず寂しい思いをしたが、健孜先生の親が訪ねてきて、おめでとうと言われて安堵した」と語ってくれました。
昭和49年 4月信州大学教育学部付属長野小学校教諭
昭和54年 4月長野市立櫻ヶ岡中学校教諭 バスケット部顧問
昭和61年 4月長野県生徒指導専門研修生
昭和62年 4月長野市立更北中学校教諭 バスケット部顧問
平成 2年 4月長野県教育委員会事務局体育課指導主事
平成 5年 4月長野市立北部中学校教頭
平成 7年 4月長野県教育委員会事務局体育課学校体育係長
平成 9年 4月大町市立仁科台中学校校長
平成13年 4月長野市立裾花中学校校長
平成15年度の主な役職
・長野県中学校長会会長
・長野市校長会会長
・長野市教育会会長
・全国連合中学校長会理事
・関東甲信越地区中学校長会理事
・長野県吹奏楽連盟会長
・長野県学校体育研究会会長
平成15年11月文部科学大臣教育者表彰
平成16年 3月定年退職
平成16年 4月長野市少年育成センター指導主事
平成16年11月保護司
平成17年 9月財団法人長野県体育協会専務理事
平成21年 4月長野市立城山公民館館長
平成23年 4月長野市篠ノ井公民館館長
平成27年 5月瑞寶雙光章(ずいほうそうこうしょう)受章。公務等に長年にわたり従事し、成績を挙げた人に授与されます。
令和5年12月16日逝去(享年81歳)