こんにちは「中川ひろじ」です。

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山﨑耕一郎さんを偲ぶ会

2018-02-18 23:06:36 | 

 

日本における社会主義思想の一翼を担ってきた山﨑耕一郎さんが、昨年11月お亡くなりにになり、本日有志の呼びかけによる偲ぶ会が開催され出席した。

以下Wikipediaからのコピペ(山﨑の「﨑」が間違っているが)

山崎 耕一郎(やまざき こういちろう、1940年 2月7日- 2017年11月24日)は、日本の社会運動家。1940年東京都に生まれる。父親は元早稲田大学教授(ドイツ文学)の山崎八郎。伯父(父の兄)は向坂逸郎。東京大学在学中から、学生運動、社会運動に参加。東京大学経済学部学生自治会副委員長を務める。1963年社青同(日本社会主義青年同盟)東京地区本部の専従となり、東京大学中退。1969年から1974年まで社青同中央本部書記長、1974年から1980年まで社青同委員長。1980年から社会主義協会専従となる。1998年から2006年まで社会主義協会事務局長。2006年から2012年まで社会主義協会代表代行。2012年社会主義協会顧問。2002年労働者運動資料室を創設し副理事長となり、2012年には理事長に就任した。社会主義協会代表代行退任後は、労働者運動資料室を拠点に活動を続けた。2017年11月24日、突発性心臓発作で逝去。

呼びかけに人の中に教育大学附属高校時代の同級生の小島英俊氏がいる。高校時代陸上部で長距離を共に走る仲間だったそうで、陸上部の部長を山崎さんがされていたという話ははじめて聞く話だった。「マルクスと日本人」を共著した佐藤優氏からも山﨑さんを偲ぶメッセージが届いていて紹介された。

25年ほど前、社青同の専従者学校で、講師に来られた山﨑さんはリクレーションのソフトボールに共に興じたが、一緒に温泉につかった時、心臓の人工弁が「カチ、カチ」と聞こえたことを覚えている。

山﨑耕一郎さんのご冥福をお祈りします。

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1 コメント

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山崎と山﨑 (労働者運動資料室HP管理人)
2018-02-20 11:13:13
18日はご苦労様でした。
山「崎」は常用漢字で、山「﨑」は人名用の異体字だと思います。印刷が活字の時はいちいち異体字を作っていられなかったので常用漢字でも皆は何も言いませんでした。本人が確認した筈の労大新書の著者名も山崎になっています。明石書店の『マルクスと日本人』は山﨑です。

電算機写植が普及して異体字を簡単に作れるようにうなると、人名用異体字や正字(国ではなく國とか)にこだわる人がでてきました。山﨑さん自身は字体にそれほどこだわる人ではなかったと思いますが、偲ぶ会の資料をみますと山﨑になっています。山崎が間違いかは微妙なところがあります。私の「管理人より」ブログも山崎としていましたが、資料を見直して山﨑に直しました。
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