こんにちは「中川ひろじ」です。

みんなのお困りごとが私のしごと

20190918 三才山の伯父さん

2019-09-19 22:13:39 | 

写真は、2018年5月26日奥様のつね子伯母さんを見舞う芳郎伯父さんと私の母。

 

弔  辞

 

 芳郎伯父さんのご霊前に謹んで哀悼の辞を捧げます。

 芳郎伯父さんは数年前まで元気に自宅で過ごされ、お宅に伺うとたいがい屋敷の畑で野菜の手入れや草取りをしていて、「おーよく来たな」と迎えていただき、昨年他界したつねこ伯母さんの漬物をいただきながらよくお茶を飲みました。

 つねこ伯母さんとは仲睦まじく暮らしていて、三年ほど前つねこ伯母さんが骨折で三才山病院に入院されたときは、芳郎伯父さんも調子を崩し一緒に三才山病院にお世話になったことは仲の良さの表れかと思いました。

 亡くなるまでお世話になった施設には、偶然私の母も世話になり、母を見舞いに行くと、芳郎伯父さんは談話室で相撲をよくみておられました。いま、その姿がみられないことに寂寥の感を禁じえません。ご家族の皆様に心よりお悔やみを申し上げます。

 

芳郎伯父さんは、三才山小日向の屋号「しんや」で、父順一、母はるよの十人兄弟の長男として生まれ、五人の子ども、八人の孫、七人のひ孫に恵まれました。兄弟ではすでに伊代治伯父、私の父昭三、俊男叔父、延親叔父が他界しております。また長男の敏博さんを九年前に亡くされましたが、充人さんが「しんや」を立派に継がれておられることに、きっと安心して旅立ったものと思います。

 芳郎伯父さんは、農業一筋に生きてこられました。戦争中、満州で車両部隊に配属されていた経験から、農業機械は大切に長く使っていたとお聞きしました。米、野菜、果樹など幅広く手掛け、白菜やネギは兄弟・親戚によく配っていました。お蚕様も、子どもたちが大きくなる昭和の最後まで続けて来られ、私の母もよく三才山へお手伝いに来ていました。

 芳郎伯父は、明るく社交的で誰とでも仲良く愉快にお話をされるお人柄で、地域やPTA、農協などの役員を歴任されてきました。昭和四十八年に日本PTA全国協議会の表彰、本郷村養蚕農業協同組合の表彰、昭和五十五年には松本市から優秀農家賞など数々の感謝状や表彰を受けておられます。

 弟の故伊代治伯父さんの影響をうけてか俳句もたしなみ、平成七年には本郷公民館の句会で一席をとらています。

「この桜 校史に残し 去り行くか」「花見して 学びし頃の なつかしく」

 三才山の伯父さんと親しまれ、兄弟の子どもである私たち甥や姪にも、いつも心を配っていただいてきましたことに深く感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

戦前、戦中、戦後を、そして大正、昭和、平成、令和の時代を生き抜いてこられた芳郎伯父さんのことを深く心に刻み、お別れの言葉といたします。どうぞ、安らかにお眠りください。

 令和元年九月十八日

長野県議会議員 中川博司

 

 

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