長田家の明石便り

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第10章 パウロ、イエス、そしてキリスト教の起源

2016-11-22 19:39:09 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第10章 パウロ、イエス、そしてキリスト教の起源


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)


パウロは、「キリスト教の創始者」であろうか。言いかえれば、彼はナザレのイエスの信仰と召しを、イエス自身が知らなかったようなシステムと運動に変革することにより、我々が今知るようなキリスト教を造り出したのであろうか。

最近出た本でこの点を公衆の面前に押し出したものがある。私はそれをこの結論の章における主要な対話の相手としたい。小説家、伝記作家のA.N.ウィルソンは、最近「Paul:The Mind of the Apostles(パウロ:使徒の心)」という題の本を出した。ウィルソンは、明らかにパウロに魅せられているが、その書いたものは「不可解」と主張する。

パウロにとって「キリスト」は歴史的イエスとほとんど、あるいは全く関係がないと彼は示唆する。パウロにとって、キリストはエルサレムのクリスチャンたちが覚えていた人ではなく、むしろ信者たちの心の中の神的愛の実在であった。彼は、そうでなければ時間の束縛を受けた地域的、政治的メッセージのままであったろうものをどこでもいつでも人々に応じられる心の宗教に変革した(とウィルソンは言う。)

それでは、パウロはどこからこの新しい宗教を得たのか。彼はサウロがタルソの異教宗教の中で育ち、特にミトラ神の儀式や神的ヘラクレスの礼拝を知っていたと考える。それから彼はエルサレムに行き、祭司長の雇用に入り、神殿の僕として動いた。その立場で彼はイエス自身を見聞きし、十字架について知り、恐らくは目撃した。彼はイエスを捕縛することを助けさえしたかもしれない。彼はローマの協力者であった。

パウロは自分が手伝ったことを振り返り、パウロの心と想像力は、異教礼拝から取られたカテゴリーに捉えられた。ミトラ神の帰依者は、犠牲の牛の血を浴び、「血が犠牲から流れると、彼らがそれから力を受ける」のを彼は見た。こうして続く数年の間に、「十字架はパウロの異常なまでの宗教的注意の焦点となった」。

彼はイエスを神話化した。

ウィルソンによれば、パウロが説教者、また宣教者になった途端、彼の視界はこの神話的構成概念と、それを他の人々に知らせる差し迫った必要によって支配された。


1.その肖像画の問題点

パウロについてのウィルソンの描写は極度に色彩豊かで興味をそそるものである。しかし、パウロについてのウィルソンの肖像画は深刻な問いを必要とする決定的ポイントがいくつかある。

○サウロの背景

まず、タルソのサウロがローマの協力者であったということは歴史的に問題外である。

○ユダヤ教とヘレニズム

ウィルソンの再構成全体のもとでは、古い宗教史学派の最も深刻な弱さが見出される。彼は、ユダヤ教が地域的で、ほとんど部族宗教であるのに対して、ヘレニズムの様々な形態は普遍的なシステム、あるいは哲学であると仮定する。

○十字架と復活

イエスの重要性についてのパウロの概念の源泉について、これらの奇妙で不可能な推測は、イエスの死と復活についての実際の意味をウィルソンが理解しなかったことによって生れた真空状態を満たすために現われたものである。3章で見たように、それは、終末論的成就の出来事である。

○イエスと神

もちろん、このことはキリスト論に我々を導く。イエスについてのパウロの描写の中心には、4章で見たように、唯一神論の中にイエスを置くことによる唯一神論の再定義がある。ウィルソンは、ユダヤ教唯一真論から一種の異教主義へのステップとして、イエスと神を横に並べようとする。

○歪んだイメージ

歴史的にウィルソンはパウロの背景、回心、宗教思想の発展について、それ自体説得力のない仮説を提供している。神学的に、彼はパウロの死思想について、その主要点を見逃したような再構成を提供する。釈義的に、彼はいくつかの手紙について興味深い熟考を提供するが、真のテストケース、すなわち、ローマ人への手紙に来ると、ウィルスンはその神秘性を貫き始めない。適用については、どうだろうか。ウィルソンは、神の愛の調べを聞き取っている。一連の誤解の内にあるとは言え、真理のいくつかの要素を認めている。


2.イエスからパウロへ―そして将来

パウロ、イエスとキリスト教の起源との間の関係がどんなものかは、もちろん、パウロをどう考えるかだけでなく、イエスをどう考えるかにかかっている。このトピックについては、他のところで長く書いてきた。(最近では、"Jesus and the Victory of God"(イエスと神の勝利)において。)その光の中では、議論をどこから始めるか、明らかである。

もしわれわれがイエスとパウロを一世紀ユダヤ教の世界の中に置くなら、宗教や倫理の無時間的システムはもちろん、人がどのように救われるかについての無時間的なメッセージを、両者とも語らなかったはずだという事実に直面しなければならない。二人とも自分たちが、イスラエルの神によって設けられた、神の長い御目的の成就のドラマの役者であることを信じていた。

従って、イエスの鍵概念(たとえば、悔い改めと来るべき国)とパウロの鍵概念(たとえば、信仰による義認)を挙げ、それらを対置するやり方はうまくいかない。

イエスはイスラエルに対して、待ち望んでいた御国が来たことを告げた。しかし、その御国は、イエスの同時代人たちが想像していたのとは違ったように見えた。

イエスがエルサレムに入ったことと、神殿での彼の行為において、イエスは文字通りステージの真ん中に上がられた。彼のドラマチックな行為は、ご自分がメシアであって、イスラエルの運命が実現されるべきお方との信念を象徴していた。ご自分のめしを自覚しながら、弟子たちとの最後の晩餐において符号化された新しいエクソダス、偉大な解放という、更に他の偉大な象徴を演じられた。

イスラエルの最も大きな望みは、ヤーウェ、彼女の神が自ら戻って来られること、裁き主及び贖い主としてシオンに来ることであった。イエスのエルサレムへの最後の旅、及び神殿と二階座敷における行動において、彼はそのリターンを劇的に象徴した。イスラエルと世界の望みと恐れはご自分の死によって一回限り一つとされるであろうと信じて、イエスは死に向かわれた。これは、偉大な出来事、イスラエルの歴史の頂点、贖い、新しいエクソダスとなるであろう。

当時の他のユダヤ人殉教者たち同様、イエスはご自分が神の御心に従って死んだなら、死からの復活によって擁護されるだろうと固く信じていた。他の殉教者たちと違って、彼の復活は遅れなく来ると信じていたように見える。「三日目に」よみがえるであろうと。他の物事と同様、イエスはこのことによって、神が常に約束しておられたことをご自分の民のためについに果たすための手段となるという召しを自覚している1世紀のユダヤ人たちの世界観の内にあって、完全な意味を持つことを信じていた。

これらすべてのことから、パウロがただイエスの教えのすべての線をオウム返しにするだけでは、イエスを支持したことにならないことは明らかである。我々が期待すべきなのは、終末論的タイムテーブルの違った地点にある二つの生きた人々、生きていると自覚する人々の間の適切な連続性である。

イエスはご自分の召しがイスラエルの歴史にクライマックスをもたらすことであると信じていた。パウロはイエスがその目的を果たされたと信じた。パウロは、彼自身が全世界に対して、そのようにしてイスラエルの歴史にクライマックスがもたらされたことを告げるよう召されていると信じた。パウロが「福音」を異邦人世界に伝えたとき、彼は自覚的にイエスの達成を補完した。彼は「別個の宗教を創設した」のではない。

イエスとパウロの間には一対一の対応があるというのではもちろんない。相互にラディカルに異なったパースペクティブを十分許す首尾一貫性、適切な相互関係、統合性がある。

パウロはもちろん、春の最も早い時期に生きていると信じていた。従って、「固く立って動かされず、いつも主のわざに励む」(第一コリント15:58)というのが、カルバリとイースターの勝利と、神がすべてのすべてとなられる日との間に生きる者にとってふさわしい態度と行動である。


【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

パウロをどう見るかという問題には、イエスをどう見るかという問題がいつも伴います。ライトは、両者の関わり方について、この最終章で取り上げています。「私はそれをこの結論の章における主要な対話の相手としたい。」(p167)と言って取りあげたのが、A.N.ウィルソンの"Paul:The Mind of the Apostles"という著作です。パウロの思想を歴史のイエスと切り離されたものと考える神学的試みも多いですが、この本もそのようなものの一つのようです。英米国では話題となった本のようですが、日本ではなじみもなく、内容的にも、チャレンジに満ちたこの本の最終章で「主要な対話の相手」と選ばれるには、少し物足りないもののようにも思われますが、致し方ないところでしょうか。むしろ、後半部分のほうが熟読に値するものと思いました。

その冒頭、イエスをどう見るかについては、"Jesus and the Victory of God"で扱っているとのことですので、日本語訳が出るのが待たれるところです。

ライトはまず、イエスとパウロ、両者を、1世紀ユダヤ教の世界に置いて考えるべきことを指摘します。そして、そうするならば、「宗教や倫理の無時間的システムはもちろん、人がどのように救われるかについての無時間的なメッセージを、両者とも語らなかったはずだという事実に直面するはず」と言います(178、179頁)。私はこれまで、このようなライトの文章を読むと、(極端に言えば、)ライトは、「人がどのように救われるかについてのメッセージを(イエスもパウロも)語らなかった」と読んでしまっていたような気がします。そうではなく、「人がどのように救われるかについての無時間的なメッセージを語らなかったはずだ」という指摘です。ライトはパウロの言葉にしても、イエスの言葉にしても、イスラエルと世界に対する神のご計画との関わりの中で理解すべきことを主張しているものと思います。

イエスの十字架の死については、「これは、偉大な出来事、イスラエルの歴史の頂点、贖い、新しいエクソダスとなるであろう。これが御国の来るための方法であった。」と言います(180頁)。また、復活については、「神が常に約束しておられたことをご自分の民のためについに果たすための手段となるという召し」との関わりを指摘します(180頁)。

そして、イエスとパウロとの関係については、「イエスはイスラエルの歴史に頂点をもたらした。パウロはその頂点の光の下で生きた」「イエスの行動とメッセージ、及びパウロのアジェンダと手紙との間には、(もちろん)1対1の対応があるというのではなく、相互にラディカルに異なったパースペクティブを十分許す首尾一貫性、適切な相互関係、統合性がある。」と指摘します(182頁)。

この辺りのところは、私としても肯定的に受け止められるところと思いました。イエスとパウロの関係性については、個人的にももう少し深く掘り下げて考えてみたいテーマの一つですが、大枠、ライトが示している線とそれほど違わない方向性で取り組むことになるのではないかと思います。

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