長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

第5章 異教徒たちのためのよき知らせ

2016-06-26 17:28:22 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第5章 異教徒たちのためのよき知らせ


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)


(パウロ研究においてパウロのユダヤ的文脈に注目すること主流になっていることを踏まえつつ)私は振り子を逆に揺らしたいわけでは決してない。しかし、私はパウロ研究の学門領域が近年、全体としてそうすべきほどにはパウロの非ユダヤ教的文脈を真剣に受け取ってこなかったのではないかと思う。

パウロは結局は自分自身を異邦人への使徒として描いている。彼はユダヤ人のためのメッセージを持っているが、これは単に異邦人へのメッセージの反射に過ぎず、彼の主要な目的ではない。

私はパウロとユダヤ教というトピックと結びつけるために、同様に興味をそそるパウロと異教主義というトピックに光を当てたい。

ここで「異教徒」とは、基本的にユダヤ人でもクリスチャンでもない人々を示し、彼らが発展させた世界観の暗示的内容を伝える。


1.起源と対峙

人々が異教的文脈の中でパウロを研究するとき、通常パウロの鍵概念の起源を探そうとしてきた。しかし、学界ではこれは大きく流行遅れとなっている。パウロ研究においてはその思想がどこから来たかを調査するよりも、どこへ向かっているかを確立することが重要である。「方向性」は「起源」よりも重要である。「対峙」は、「概念」と同様に重要である。これが私の方法論上の提案である。

内容上の提案は次のとおりである。パウロのメッセージの方向性は異教主義への対峙である。彼は彼らのためのよき知らせを持っていた。しかし、それは彼らの世界観を傷つけ、それを本質的にイエスを巡って改訂されたユダヤ教の世界観に置き換えるよき知らせであった。

もちろん、パウロの手紙はノンクリスチャンの異邦人に宛てて書かれたものではない。非ユダヤ教徒に対するパウロのメッセージ内容を見つけるためには、それらの手紙の背後に想定される仮説上の実在物に至るために、手紙から資料に基づいて推定しなければならない。

私は仮定的な抽象的神学的枠組みを求める代わりに、宣教と教えを含む異邦人の間のパウロの働きを求める方がはるかによいと思う。

もし単に起源よりも方向性が第一のゴールであるなら、我々が見つけるのを期待しなければならないものは単に多様性ではなく対峙である。これは宗教史的方法が通常期待に背く分野である。宗教史的方法が見つけることが困難なのは、一方で議論上の引き込みであり、他方で内側からの批判である。


2.議論上の引き込み

「議論上の引き込み」によって意味するのは、パウロが自ら言っているように、すべての人々に対してすべての物になるということである(第一コリント9:22)。彼は口を大きくあけた文化的ギャップを越えて自分のメッセージを叫ぶことはしない。使徒17章は、パウロ自身がで述べる「すべての考えをとりこにしてキリストに従わせる」という原則(第二コリント10:5)を例証している。すべてのものはキリストを通して、キリストのために造られた(コロサイ1:17)。それゆえ彼は、対抗する思想システムから鍵となる概念を引き出し用いることを恐れる必要がないのである。

これは妥協したとか、混交主義への危険な坂道を滑り落ちたとか言うことを意味しない。異教主義に対するパウロの対峙はもちろん鋭い。しかし、パウロは二元論者ではなかった。異教主義への議論上の引き込みの根底には、創造された世界のよさについてのラディカルで深く根ざした肯定があった。

パウロの異教主義に対する議論上の引き込みの根本的理由は、いかにして一人の神の目的がついには全世界を含むようになるかについてのユダヤ教的待望の中に見い出される。この点を一旦評価すると、異邦人へのパウロの宣教は正しい光の内に見られうる。異邦人への宣教はイエスの死と復活、御霊の到来の出来事においてイスラエルの回復の約束が事実成就したというパウロの信仰の自然な結果である。メシアの死と復活は神の計画のかしら石であり、ただイスラエルばかりか全世界の真のエクソダスのためであった。

パウロの中心的信仰はこうして自然に議論上の引き込みが本質的となるような宣教を生みだした。異邦人が必要としたのは正確にユダヤ教のメッセージ、あるいはむしろメシアなるイエスにおいて成就されたユダヤ教のメッセージであった。


3.内側からの批判

パウロは自分の召命が預言者のそれであると示唆する。預言者はイスラエルを非ユダヤ教の立場から批判はしない。預言者の仕事は伝統の心根から語ることであり、伝統を代表していると主張しながら実際にはそれを放棄している人々を批判し、警告を与えることである。

ガラテヤ3-4章、ピリピ3章、ローマ書のいくつかの箇所のような節でパウロが自分自身に引き受けているのはこの仕事である。

パウロは異邦人の立場に立つところからは大変遠く、その代わりに偉大な原預言者、モーセの立場を採り、誤った民のために契約の神に嘆願している(ローマ9:1-5、10:1-2)。

イスラエルがイエスの招きを拒み、イエスについての使徒らのメッセージを拒んだのは、すべてを焼き尽くすような彼女の関心となったもの、すなわち国家的、民族的、境界的アイデンティティに挑戦するからである。彼女は「他のすべての国々のような」国になる危険があるパウロはみなしている。血と土は異教の国々の特徴である。イスラエルはトーラーと割礼をまさにそのようなものを強調するために用いている。彼女の割礼は単なる異教スタイルの切断になった(ピリピ3:2)。トーラーへの彼女の固執は諸霊と諸力に対する単なる異教スタイルの忠誠になった(ガラテヤ4:8-11)。


4.挑戦:リアリティとパロディ

1世紀の異教徒世界は、いわゆる「キリスト教への備えができた」状態では決してなかった。犠牲、聖なる日、託宣、吉兆占い、神秘カルト、その他沢山のものがパウロの聴衆の日常世界の一部となっていた。

パウロの異教徒世界への挑戦は、リアリティの真理を告げることであり、異教主義はそのパロディに過ぎない。このことが当てはまる六つの領域を示したい。

(1)神と創造物

まず、パウロは真の神と神の手のわざとしての被造物のリアリティを提供した。このことをパウロはリアリティとして見た。それは、創造主の存在を意識しつつも常に創造主を被造物内の物や力と同一視する異教主義に対抗してのことだった。これは通常のユダヤ教の見解と関連してのことだった。パウロがイエス・キリストの御顔に示されたと見る神に対する熱心は、異教の偶像主義に対する通常のユダヤ教的批判のよく練られ、新鮮に組織化されたバージョンを彼に与えた。(コロサイ1:15-20)

(2)カルトと宗教

2番目に、パウロはカルトについての明確な挑戦を提供した。異教世界にはあらゆる種類の神がはびこっていた。犠牲は至るところにあり、その結果として第一コリント8-10章の問題をもたらした。この問題への彼の答えの一部がクリスチャンの聖餐論を制定する。聖餐はパウロにとって教会が真のエクソダス共同体であることを示す祭りである。同時に、聖餐は悪霊の食卓に挑戦する祭りでもある。

(3)権力と帝国

3番目に、パウロは異教主義に対して権力、特に帝国についての明確な挑戦を提供した。ピリピ2、3章で、パウロはローマ帝国の主題にあって、カエサルを表現するために通常使われる言語を用いてイエスについて語っている。ローマ帝国では「カエサルは主である」ということが公式であった。パウロはこれに対しノーを言い、「イエス・キリストは主である」と言った。

(4)真の人間性

4番目に、パウロは異教主義において売りに出された人間性のあり方の力を破壊する、真の人間性のあり方を述べた。いわゆる彼の倫理的教えや共同体の発展において、彼の神学や、キリストと共に死に生きる新しい生き方の実践において、人間の純粋な生き方と見る所を彼は回心者たちに繰り返し教えた。

(5)世界についての真のストーリー

5番目に、パウロは異教徒の神話体系に反対して、世界についての真のストーリーを語った。パウロは聞く者たちにリアリティを受け入れるよう招いた。それは、ただあの世の面に見えないリアリティを意味する「霊的」リアリティでもなければ、個人的な「霊的」経験でもなく、地上のリアリティ、ナザレのイエスとその死と復活の血肉をもったリアリティであった。更にパウロは、全世界がどこかに行こうとしていることを含むストーリーを語った。(ローマ8章、第一コリント15:3-8)

(6)哲学と形而上学

6番目に、パウロはローマ世界の主要な異教哲学に対する暗黙の挑戦を提供した。キケロがBC1世紀のギリシア・ローマ世界の主要な哲学的オプションとして挙げたストア派、エピキュロス派、アカデミア学派に対して、パウロはキリストと御霊を巡って描かれ直した本質的にユダヤ教的な神学によって対峙したことであろう。(使徒17:22-31参照)


結論

我々は今やタルソのサウロのアジェンダ(2章)と使徒パウロのアジェンダとを比較対照するポジションにいる。

第一に、タルソのサウロのように、パウロはイスラエルの神が異教主義と闘われると信じていた。しかし、武器、すなわち暴力や民族的偏見と言ったものによって打ち負かそうとするのでなく、使徒パウロは真の神がご自身を十字架につけられよみがえられた御子を示し、全世界を悔い改めと忠誠に召しておられることを異邦人世界に告げることが自分の仕事だと信じていた。

第二に、タルソのサウロのように、使徒パウロはイスラエルの神が不忠実なイスラエルの民とも闘われると信じていた。サウロはそのようなユダヤ人仲間を暴力や更なる厳しいトーラーの強制によって排除しようとした。パウロは異邦人世界をアブラハムの家族の中に勝ち取り、生まれつきの枝がねたみを起こし、踏みつけにしていた特権に立ち返るようにすることが自分の仕事だと信じていた。

それ故、タルソのサウロのように、使徒パウロはイスラエルの神が全世界の一人の神であることを示すような偉大なみわざにおいて、聖書の預言が実現するよう計画されていると信じていた。しかし、サウロと違い、パウロはその偉大なみわざが既に起こったと信じていた。ローマへの軍事的勝利の代わりに、イスラエルの代表としてのイエスは神の民と全世界の民の真の敵である罪と死とに勝利された。

サウロのように、パウロは現代、人は誰が真の神の民のメンバーであるかを語ることができると信じていた。サウロにとってそのバッジはトーラーであった。しかし、パウロにとってそれは信仰であった。これは、続く2章で見るように、「信仰義認」の教義が異教世界へのパウロのミッションに決定的に関わりを持つようになるポイントである。それはたとえばコリントの戸惑う異教徒に対して通りで彼が告げようとするメッセージではなかった。それは、回心者が実際自ら神の民の一部であることを確信するために知る必要のある事柄だった。


【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)


パウロの主張のユダヤ教的文脈を強調してきたライトですが、パウロが異邦人への使徒として召されていたことを無視するわけではありません。特に、この章では、「私はパウロ研究の学門領域が(逆説的なことにミークスやベッツ、その他の人々を含め)、近年、全体としてそうすべきほどにはパウロの非ユダヤ教的文脈を真剣に受け取ってこなかったのではないかと思う。」(77頁)とさえ言いながら、パウロがギリシアーローマ世界の異教徒たちに対してどんなメッセージを持っていたのかを示します。

ただ、もちろん、ユダヤ教的文脈を無視するわけではなく、むしろパウロの持っていたユダヤ教的文脈を踏まえつつ、そこからどんな異教徒への福音として提示していったのかを示そうとします。そのために、「起源と対峙(Derivation and Confrontation)」という、これまでも何度か言及してきたキーワードを用います。ここでは、起源=ユダヤ教的文脈、対峙=異教徒世界へのメッセージ、といった整理の仕方ができるようです。

「対峙」という表現から予想されるように、ここでの「福音」は、「そのままでよい」といったメッセージではもちろんなく、むしろ、異教徒世界が持つ世界観に変革を迫るものであり、挑戦として描かれています。ただ、闇雲に否定しかかるやり方でなく、「議論上の引き込み(Polemical Engagement)」と名づけられたやり方を用いたことを指摘します。これは、混交主義的な考え方では決してなく、すべてのものは一人の神によって創造された、根源的にはよきものであるとの基本理解に立ち、メシアの死と復活がただイスラエルばかりか全世界の真のエクソダスのためであったことに根差したものであると言います。

より具体的には、「挑戦:リアリティとパロディ」の節で6つの挑戦的領域を持っていたと指摘します。「神と創造物」、「カルトと宗教」、「権力と帝国」、「真の人間性」、「世界についての真のストーリー」、「哲学と形而上学」の六領域ですが、いずれも異教徒的宗教観、世界観、価値観、倫理観への挑戦として、パウロのメッセージを分析しています。

本章最後に置かれた「結論」は、本章単独の結論というより、2-5章全体の結論と受け取るのがよさそうです。これらの章は、タルソのサウロが持っていたユダヤ的希望を明らかにするところから始まり、キリストの十字架の死と復活を中心に置きつつも、そのメッセージのユダヤ教的文脈を明らかにし、特にパウロの三位一体論がユダヤ教的唯一神論をベースにするものであることを指摘すると共に、パウロのメッセージがユダヤ教的文脈を踏まえつつも異教徒への使徒として挑戦的メッセージを持っていたことを示すところで終わっています。本書全体の基底部分を提示する第一部として理解することができそうです。こういった流れを受けて、タルソのサウロと回心したパウロとの共通点及び相違点をまとめたものとして、この部分を理解することができます。

最後に、本章で扱われているのは、「異教徒へのよき知らせ」ということですので、「異教徒」が大多数である日本での宣教の場面で聴き慣れているメッセージがどんなものかを思い浮かべ、比較してみました。そうすると、本章で「異教徒へのよき知らせ」として示されている内容は、普段聴き慣れたメッセージとはかなり違った趣を持っていることに気づかされます。「世界観変革への挑戦」といった方面から福音提示がなされることは滅多にありませんし、そのようなメッセージがなされると、それは即インテリ向けのものとして受け止められるのではないかと思います。更に言えば、それが聴く者に「よき知らせ」として理解されるだろうかと考えると、ちょっと難しいのではないか、と思いました。第3章で、「ユーアンゲリオン」の非ユダヤ教的背景としては「皇帝の大きな勝利、誕生、あるいは即位の宣言」を意味したという線からは理解できなくはないとも思いますが、本章タイトル"Good News for the Pagans"からすると、どこがどう「よき知らせ」なのか、更なる説明が必要とされるように感じました。

ただ、パウロのメッセージの中には、こういった要素が常にしっかりと入り込んでいるのではないか、という問題提起としてはとても大切な点を衝いているように感じます。このような側面を全く排除した福音提示もまた、パウロのメッセージを狭めているということは言えそうです。実際的な福音提示に、時にはこのような方面からの切り口を含めつつ語ることは有効ではないか、と感じました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« チャペルコンサート | トップ | 甥の結婚式 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

N.T.Wright "What St. Paul Really Said"」カテゴリの最新記事