長田家の明石便り

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第6章 イスラエルのためのよき知らせ(その1)

2016-09-12 17:58:44 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第6章 イスラエルのためのよき知らせ


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)


我々はパウロの基本的な召しが異邦人、異教徒への使徒であることを見て来た。しかしこの召しの全ポイントは異教徒が聴くことを必要とするものはイスラエルの神、全世界の創造者のよき知らせであるということであった。異邦人は、イエスラエルの神がイスラエルへの約束、イスラエルのための目的を果たされる時、その時にのみ祝福されるであろう。

こういったことは、パウロの最も偉大な手紙の中心部分に我々を導く。また、彼の最も決定的で議論されてきた専門用語の一つ、すなわち、「ディカイオスネー・セウー」(その最も適切な翻訳はおそらく、'The righteous of God'である)に我々を導く。

言語についての覚え書き。英語の話し手は、本章及び次章で同じギリシア語語幹を翻訳する場合の二つの全く異なる英語語幹があるということを留意しなければならない。「ディカイオス」は'righteous'を意味するが、'just'をも意味する。「ディカイオスネー」は'righteousness'を意味するが、'justice'をも意味する。'righteous'や'righteousness'は現代英語の意味では誤解の余地があるが、'just'や'justice'は更にそうである。問題はもちろん、パウロはギリシア語で書いているけれども自分の言いたいことの背後にあるヘブル語聖書を知っているということであり、微妙で入り組んだ思想の連関の味わいや強調をつかむための用語や節を見つけようと、英語での表現を試みているということである。


1.契約、法廷、終末論

'The righteousness of God'(以下、「神の義」と訳します)は多くの主要かつ専門的な研究の課題である。この用語、あるいは明らかに同一と見なされうる用語はパウロ書簡において8回現われ、その内の7回はローマ書において現われる。その意味は様々な翻訳、とりわけ決定的な節、ローマ3:21-26においてはなはだ覆い隠されている。例えば、NIVはこれらの6節の中で少なくとも二つの全く違う意味に訳している。

○契約(この小見出しは長田がつけたもの。以後「法廷」及び「終末論」も同様。)

セプチュアギンタの読者にとって、「神の義」は一つの明らかな意味、すなわち「神の約束、契約に対する神ご自身の忠実さ」という意味を持つ。特にイザヤ40-55章で神の「義」は、イスラエルの強情と堕落にもかかわらずイスラエルを救う神の御性格という要素を持つ。神は約束をされた。イスラエルはそれらの約束を信頼することができる。こうして、神の義は一方では神の信頼性と同義語であり、他方でイスラエルの救いと同義語である。もちろん、イザヤのそのような描写の中心には受難の僕という不思議な人物がおり、そのお方を通して神の義なる目的が最終的に完成されることになる。(他にダニエル9章等。)

○法廷

この用語の特別な味わいの一部は、それが含む比喩から来る。「義」は法廷からとられた法廷用語である。このことは少し解読される必要がある。

1)ユダヤ人の法廷では三種の人々がいる。裁判官、原告、被告である。検察官はいない。
2)この文脈での「義」は、裁判官に適用されたときと、原告又は被告に適用されたときでは全く異なる意味を持つ。裁判官に適用された時は裁判官が事件を法に従って事件を調べなければならないことを意味する。公平でなければらなず、助けなき人々、自分以外に訴えを持ちこむ者のない人々を助け、支えなければらない。
3)原告や被告にとって、聖書的意味において「義」であることは法廷的設定においては、彼らが法廷の決定の結果としてその立場を持つことである。(
この語は、裁判が始まるまでに道徳的に正しい故に、評決で良い結果を得るに値するというような意味合いはない。)

もちろん、世俗ギリシア語での用語「ディカイオス」(義)は道徳的意味合いを持つ。このことを認めれば、この語が裁判の評決後の状態だけでなく、原告や被告の性格や過去の行為についても言及するようになるだろうということを認めることは難しくない。しかし、鍵となるポイントは、法廷の専門用語においては、「義」がこれら二人の人物にとって、法廷が彼らのために見い出すとき彼らが持つ立場を意味するということである。それ以上でもそれ以下でもない。

これらすべての結果は明らかであるが、パウロ理解にとっては大変重要である。もし法廷の言葉を用いるなら、裁判官が自分の義を原告や被告に転嫁したり、分与したり、遺贈したり、運んだり、あるいは移したりといったことはナンセンスである。義は法廷を横切って渡されうる物体や物質、あるいはガスではない。裁判官にとって義は法廷が彼のために有利に認めることを意味するのではない。原告や被告が義であることは、彼または彼女が事件を適切、公平に扱うということを意味しない。被告が裁判官の義をいくらか受け取ると想像することは単にカテゴリー上の間違いである。

それでは、神の義の契約的意味と法廷シーンから得られる比喩的レベルとを一緒にすればどうなるだろうか。神はもちろん裁判官である。イスラエルは神の前に来て自分を圧迫する邪悪な異教徒について訴える。イスラエルは自分の訴えが法廷に持ち込まれ、神がそれを聞いてくださり、神ご自身の義においてイスラエルを敵から解放してくださるのを望む。すなわち、イスラエルは義とされ、解放され、弁護されるのを望む。そして、裁判官である神は契約の神でもあるので、イスラエルは神に訴える。あなたの契約に忠実であってください!私をあなたの義によって擁護してください!(詩篇143、ローマ3:20)

もし神がご自分の民を擁護すべく行動されるなら、ご自分の民は比喩的意味で「義」という立場を持つ。しかし、彼らが持つ義は神ご自身の義ではない。神ご自身の義は契約的忠実さであって、それゆえに神はイスラエルを弁護し、イスラエルに「義」という立場をお与えになる。しかし神の義はいわば神ご自身のご性質であり続ける。

○終末論

これらすべての議論において、更なる一つの次元を加えなければらないのは明らかである。「義」言語の現われる文脈が神とイスラエルとの間の契約だとすれば、そして、その「契約」言語に特定の色合いを与える比喩的文脈が法廷であるとすれば、両方の文脈は将来の成就の存在することを命じる。終末論―イスラエルの神がついに、きっぱりと行動されるというイスラエルの望みがすべてのポイントにおいて持ち出されなければならない。

神は将来イスラエルのために擁護される。しかし、擁護されるこのイスラエルは誰なのか。すべてのユダヤ人か、ただ幾人かのユダヤ人なのか。神が遂に行動されるとき、擁護されるのは誰なのか、現在言うことができるのか。パウロの時代、多くのユダヤ人は「イエス」と答える。現在の我々の「律法の行い」が我々の神の民と見られることを示すと。こうしてパウロが粉砕しようとして苦しんでいた「行いによる義認」の神学が起こる。


2.鍵となる用語のための選択肢

「神の義」という節が学問上の議論で考えられきた少なくとも四つの全く異なる意味が存在する。

ここでの基本的な区別は、「神の義」を神ご自身の義についての言及とみなす人々(B)と、人間が神の前に持つ義の状態についての言及と見なす人々(A)との間にある。更なる細区分もまた重要である。

「神の義」―解釈の選択肢
A.神ご自身の「義」
  A1.道徳的性質としての義(所有の属格としての「神の」)
     A1a.「配分的義」(ルターが信じて育った考え方。悪を罰し、善に報いる神の道徳的行為)
     A1b.「契約的誠実」(私が推奨したい選択肢)
  A2.神の救い・創造の力としての義(主格的属格としての「神の」)
     A2a.契約的誠実の諸行動(A1b.に非常に近い)
     A2b.非契約的世界破滅の諸行動(エルンスト・ケーゼマン、神の救い創造する行為は単にイスラエルだけでなく全世界を支配する))
B.人間に与えられた「義」
  B1.「神からの」義なる立場としての義(起源の属格としての「神の」))
     B1a.「転嫁された義(立場)」(ルター)
     B1b.「分与された義(性質)」(B1a.とB1b.との間で何百年もの間際限なく議論されてきた。)
  B2.「神の前に来る」性質、あるいは「神に役立つ」性質としての義(目的の属格としての「神の」)
     B2a.神によって認められる自然な性質(アブラハムの場合のような?)
     B2b.神からの、そして神に認められる特別な賜物

我々は、これら多くの競合する選択肢の間でどのように決めるべきだろうか。一覧の下半分(B)は長い間ポピュラーであったにもかかわらず、パウロが引用したり、ほのめかしたりする多くの聖書個所を含むユダヤ的証拠の圧倒的比重によって、我々は一覧の上半分(A)に決定的に押し込められる。実際、ユダヤ的文脈はこの選択肢を好む非常に強い前提を造り出すので、もしパウロがそれに対して全く明瞭に否定するのでなければ覆され得ないが、パウロは全くそうしてはいない。

(A)の中の異なる選択肢の間で我々はどのように選んだらよいのか。「配分的義」(iustitia distributiva)という古い考えはラテンの見当違いとして退けてよい。ケーゼマンの新しい提案も、無邪気な不可能として退けてよい。(彼がこの特殊で専門的な意味のために引用するテキストは、実際には彼が言うような意味を持っていない。)それゆえ、我々には密接に関連した二つの意味(A1b、A2a)が残されている。それらは神の契約的誠実と関わっている。所有の属格と主格的属格との間の文法的区別はパウロがここで得ているものをあまり正当に取り扱ってはいないので、恐らくはこれら二つの意味を隔てる線を消すべきであろう。

もちろん、これらすべてを試験するのは、書簡のテキストであり、特にローマ書である。


3.パウロの手紙における「神の義」


○ピリピ及び第二コリント


ピリピ3:9「信仰による神からの義」

鍵となる節は、'dikaiosune theou'(神の義)ではなく、'dikaiosune ek theou'(神からの義)である。余りにもしばしば学者たちはこの節が'dikaiosune theou'の用法の判断基準となりうると言ってきたが、これは不可能である。ヘブルの法廷に戻って考えれば、ここにあるのは擁護された側が法廷の決断の結果持つ「義」、すなわち立場のことである。これは、「神からの義なる立場」であって、「神ご自身の義」ではない。


第二コリント5:21「その結果、彼にあって私たちはdikaios theouとなることができた。」

今度は確かに「神の義」である。何世代もの読者たちはそれを一覧の下半分、特にB1aの意味の明らかな証拠と見なしてきた。しかし、パウロは義認について語っているのではなく、自分自身の使徒的な働きについて語っており、彼はこれを新しい契約の務めとして既に3章で描いてきた。ここでのポイントは使徒たちがキリストの使者であり、それゆえ使徒としての働きは苦しみ、恐れ、外見上の失敗を含んでおり、それ自体神の契約上の誠実さの受肉であるということである。彼らは実際、神の誠実さを体現している。メシアの死は彼らの外見上の失敗を取り上げ、今や彼にあって、彼らは「神の義」である。すなわち、彼らが宣べ伝えているメッセージの生きた体言である。

第二コリント5:21のこのような読みは、その節を周囲の文脈全体に大変密接に結び付けるので、そのことはその読みの正しさを示している。しかし、もしあなたが第二コリント5:21を一覧の下半分―多分、B1a(転嫁された義)―の意味で受け取ろうと主張するなら、あたかもパウロがおまけとしてここに投げ入れただけの小さな漂う物言いであるかのように、その節を章の残りの部分と文脈から切り離すのを見い出すであろう。


○ローマ3章

3章の初めで、パウロは2章の終りで提出された問題と格闘している。神は今や契約を更新し、しかもユダヤ人と異邦人が共に属し、割礼のバッジが不適切となった共同体と共に更新された。これは神がユダヤ人への契約的約束を忘れたことを意味するのか。この文脈の中で5節は明らかに神ご自身の義について言及する。

「我々の不義が神の義を確立するのを助けるなら、神が罰することは正しくないでのでしょうか。」

「義」の意味は直前の節にある神の誠実あるいは不誠実の概念に密接に関連している。問題となっている節は、イスラエルの召し、神のイスラエルに対する約束、イスラエルが自分の目的を達成するのに失敗したことに関わっている。これは我々が「契約の神学」と呼んでもよいものである。この文脈で、「神の義」は最も自然に「神の契約的誠実」を意味する。

パウロはこの章の後半でもこのテーマを捨てない。そこでは、わずかの短い節で彼は自分のメッセージの中心を描き出す。(ローマ3:21-26)'justify'、'justifier'、'justification'は、ギリシア語では'righteous''righteousness'と同じ語根を持つことを思い出そう。

3章20節に至るまでにパウロは異邦人世界が創造主なる神に触れず、その結果裁きのもとにあるが、ユダヤ人もまた、契約を与えられたにもかかわらず、自分たちの仕事に失敗したことを示してきた。全人類はこうして神の比喩的法廷の被告席にある。法廷の図式ではそれはもはや原告として神の前に来るイスラエルの訴訟ではない。異邦人もユダヤ人も同様に罪ある被告である。法廷シーンが重要なメタファとなる契約のシナリオで言えば、神は契約に対して誠実であろうとされ、神の意図はイスラエルを擁護し、イスラエルの誠実を通して、全世界を救うことであった。しかし、イスラエルは全体として不誠実であった。神は何をされるか。

パウロの答えは、メシア、王なるイエスが真の誠実なイスラエルであるというものだ。引用された節の濃縮された神学の下にパウロの中心的福音のシーンが存在している。イエスの死と復活であり、そのポイントにおいて、またその手段によって、イスラエルに対する神の契約的ご目的、すなわち、世界の罪を一度限り決定的に扱おうとするご意図が最終的に達成されたのである。神はイエスの十字架において罪を扱われた。神は今やイエスを死からよみがえらせることにより、イエスを擁護された。「イエスの誠実さ」(3:22)はこうして神の義が示される手段となる。神はご自身、約束をなし、それらを守られた契約の神として義である。法廷のメタファにおいて、神はご自分の言葉に対して真実であり、公平であり、罪を扱われた。神はそれゆえ助けなき者を擁護された。彼は「信じる者を義とする者」である。このような、契約的誠実さとして理解され、法廷のメタファで見られる神ご自身の義のテーマはこの重要な節の鍵である。

パウロは繰り返し基調をなすポイントを強調する。イエスの福音は神の義を表わす。そこにおいて、神ご自身が義であり、その一部として神は信じる者を義と宣言するお方である。もう一度我々は「義なる」立場、すなわち人間がキリストにある神の恵み深い表決の結果として持つ立場があることを主張しなければならない。パウロはそのことについて完全に満足する。我々は次章でそれを考察するであろう。しかしパウロは「神の義」という節をそのことを示すためには用いない。神の義は神ご自身の義である。ローマ3章のこの決定的な節において、彼は神が既に概述したすべての意味でいかに義なるお方であるかを示している。もしあなたがdikaiosune theouという節のどこかの箇所で、A1bやA2aの組み合わせ以外の意味を与えるなら、全体が混乱するであろう。もしあなたがそれを明らかに一貫してこれらの意味を示すものとして認めるなら、すべてがクリアになる。

ローマ3:21-4:25は全体として神ご自身の義を展開し、ほめたたえている。


○ローマ9-10章

このことは、dikaiosune theouの意味にとって別の決定的な箇所、ローマ9-10章の明瞭な読みのために我々を備える。再び、「義」という言葉は、神の民が今や持っている立場を意味する。しかし、これは神ご自身の義ではない。決定的な節は10:2-4である。

この節は事実9:6-39の議論全体を要約している。そこでは、「神の義」という節は現われないが、議論全体は、神が事実義であって、契約の約束を守られたかどうか、もしそうだとしたらどのようにしてなのか、についてのものである。用語としては現われていないが、文脈全体はまさしく神の義についてのものである。イスラエルは神がその歴史の中で正しく真実に行なって来られたことについて無知であった。しかもユダヤ人だけのための義なる立場、契約的メンバーシップの立場を確立しようとして、イスラエルは神の義に従わなかった。契約は常に世界中の家族を思い描いていた。イスラエルは、契約を担う者として自分自身の特別な立場に固執し、契約が造られた目的を裏切った。

パウロがイスラエルは「神の義に従わなかった」と言う時、彼は明らかにローマ3:21-26に戻って言及している。そこでは、パウロは、神の義がイエス・キリストの福音において示されたと主張した。その福音は、神がユダヤ人も異邦人も、すべての者のために救いのための一つの道を持っておられると宣言するものであると。ユダヤ人がイエスを拒絶したとき、彼らがパウロの伝えたイエスについてのメッセージを拒絶し続けたとき、底にある理由を彼は見る。彼らは彼らだけのものであるはずの契約的メンバーシップの概念の廃棄が、そのメッセージによって意味されることを悟っていたのである。ローマ9-11章の偉大な議論は進んで、そのクライマックスにおいて最も重要な記述に達する(ローマ11:27)。パウロはメシアなるイエスにおいて起こる契約の更新は、異邦人だけでなく、ユダヤ人のメシア・イエスへの信仰に来るユダヤ人のためにも有効となるという希望を固く抱いている。


○ローマ1:17

最後に、ローマ1:16-17に戻ろう。このしっかり包装された記述はパウロによって、その手紙の残り全体を通して解きほぐされていく。我々はそれを続く我々の読みの光の中で理解しなければならない。

パウロは福音、すなわち王なるイエスの、世界の主(世界中及び特にローマ自体でも)としての王的宣言を、なぜ彼が切に宣べ伝えようとしているかを説明している。福音は神ご自身の義、神の契約的誠実を啓示し、表わす。それはイエス・キリストの真実(faithfulness)を通して働き、そして今度は真実な(faithfel)すべての人々のために働く(faithからfaithへ)。言い換えれば、パウロがイエスは主、世界の主であると宣言するとき、彼はその行為と宣言において、世界の前に次のことを明らかにしている。すなわち、全世界のひとりの神がご自身の言葉に対して真実であられ、創造物を侵略してきた悪を決定的に取り扱い、正義、平和と真実を回復しようとしておられるということである。

これはパウロがローマ教会に、そして全世界に理解してほしい根本的な事柄である。


結論:イスラエルと世界の神

パウロは使徒行伝における説教の一つで、「神の恵みの福音」について語っている(使徒行伝20:24)。これは、手紙の中でも最も偉大な手紙の偉大なテーマである。ローマ書はしばしば、法的、あるいは法廷的神学の解説としてみなされている。しかし、それは間違いである。法廷は議論の鍵となる段階で重要なメタファを形成している。しかし、ローマ書の中心にあるのは愛の神学である。

もし我々が「義」という表現を法廷的メタファとしてのみとらえるなら、法的取引、一つの冷たいビジネス、神によってなされたほとんど思想のトリックであるような印象を与える。そのような神は論理的で正しいかもしれないが、人が礼拝したくなるようなお方ではほとんどない。しかし、我々が「神の義」を神の契約的誠実として理解するなら、思想のすべてのつながりを総括する言葉がある。「神の愛」である(ローマ5:6-11、8:31-39)。もし私が提案してきたようにdikaiosune theouを理解するなら、義と愛を互いに対抗させることはできない。神の義は行為における神の愛であり、苦しむ世界の間違いを、それらをご自身に引き受けることによって正そうとするものである。

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