長田家の明石便り

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信仰への招き  15.神の国

2020-01-18 10:05:14 | 信仰への招き
「福音とは何か」という課題を持って新約聖書に取り組むと、一つのキーワードがあることに気づかされます。「神の国」という言葉です。
 
ガリラヤ地方でのイエスの宣教開始の様子をマルコは以下のように伝えます。
 
「イエスはガリラヤに生き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ』。」(マルコ1:14、15)
 
その後の宣教活動についての記録の中にも、同じフレーズが繰り返し現れます(マルコ4:11、26、30、9:47、10:14、24、ルカ10:9)。マタイによる福音書では、「御国の福音」(マタイ4:23、24:14)、「天国」(マタイ3:2、4:17、5:3、10、10:7、13:11等)という表現ですが、同じ出来事を記した他の福音書の並行箇所に「神の国」の替わりに現れていますから、同じ意味だと分かります。
 
日本語で「国」と言えば、領土のイメージが強いかもしれませんが、原語(バシレイア)は「バシリューオー」(支配する)の名詞形ですから、「統治」の意味合いです。従って、主イエスが伝えた福音は、神の統治が開始されようとしているという知らせだったと言えるでしょう。
 
エデンの園において、造られたばかりの人間は、神の愛のご支配の中で生きていました。それは、神を愛し、互いに愛し合う、平和な世界でした。しかし、人が神に背き、罪が人の世界に入ったとき、人は神の愛のご支配から離れ、自分勝手な生き方へと進んでいきました。このような世界に救いを与える神のご計画は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫を通して与えられるとの約束が与えられました。王なるメシヤの預言が繰り返し与えられました。
 
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。」(イザヤ9:6、7)
 
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。(略)正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし(略)」(イザヤ11:1、4)
 
このような旧約聖書の預言を通して、ユダヤ人の間にはダビデの子孫としてのメシヤの出現が期待されました。しかし、多くの場合、そこで回復される神の統治は、かなり民族的、政治的、軍事的な色合いを持ったものでした。大国からの解放を与え、民族的独立を与えてくれる政治的メシヤへの期待でした。もちろん、旧約聖書の預言の言葉に、そのような意味合いを見て取ることは容易です。しかし、そこで描かれるメシヤは、同時に、民族を超え、全地に救いと回復をもたらし、世界の有様さえも変えながら、正義と平和に満ちた神の統治をもたらす方であることに、多くの人々は気づきませんでした(イザヤ11:1-10)。
 
主イエスが神の国の福音を告げられたとき、それは暗に、ご自分がダビデの子孫としてのメシアであるとの宣言でもありました。しかし、メシアなるお方として、神の統治をどう回復させようとしているのか、それが大切な点でした。
 
特に、イエスが人々に対して語られた神の国についての教えを見ると、ご自分が来られたことによって既に始められようとしているということと、将来、世の終わりに完成されようとするということと、その両方の面が語られているように思われます。
 
たとえば、イエスは悪霊につかれた人々を癒されましたが、そうしながらこう語られました。「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイ12:28。ルカ16:16、17:20、21も参照)。すなわち、イエスの到来は、「すでに」神の国の到来をもたらしたのであると語られました。
 
しかし、ある時には、世の終わり、「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき」(マタイ25:31)について語りながら、王(キリスト)がある人々に次のような言葉をかけられるであろうと言われました。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。」(マタイ25:34。マルコ9:47も参照。)そこでは、イエスの栄光ある現れ(再臨)は将来のことであり、その意味で、神の国の完成は「いまだ」来ていないことになります。
 
このように、神の国はイエス・キリストの登場によって「すでに」始まっていると共に、「いまだ」来たらず、という両面を持つことが分かります。ガリラヤの地に立ち、イエスの語られた「神の国は近づいた」との宣言は、その両方の意味が込められていたと言えるでしょう。
 
イエスが語られた「神の国の福音」は、弟子たちにも継承されました。主イエスの復活・昇天に続く教会の宣教活動の中で、神の国はその内容を示すものでした。「ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた」(使徒8:12)、「パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした」(使徒19:8)(使徒20:25、28:23、31)。
 
これまで、福音はイエス・キリストによる救いを提供するものであることを見てきました。救いとは、罪を赦され、義とされ、聖霊を与えられ、永遠の命を与えられることであり、神の子として生きることを可能にするものでもありました。同時に、神の民として生きるよう招くものであることも見てきました。「神の国の福音」とは、これまで見てきた福音と別のものではありません。
 
ある時、資産家の青年がイエスのもとに来て尋ねました。「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」(マルコ10:17)。財産を売り払って貧しい人々に施し、ご自分に従うようにとのイエスの答えに、彼は顔を曇らせ、立ち去ります。その時、イエスは弟子たちに言われます。「財産のある者が神の国にはいるのは、なんと難しいことであろう」(マルコ10:23)。すると、弟子たちは驚いて答えます。「それでは、だれが救われることができるのだろう」(マルコ10:26)。主イエスは、「人にはできないが、神にはできる」と言いながら、再び、「永遠の生命を受ける」ことについて語られます(マルコ10:30)。これらの箇所で、「永遠の生命を受ける」、「神の国にはいる」、「救われる」とは、相互に入れ替え可能な表現として用いられていることが分かります。(ヨハネ3:3、5、15も参照。)
 
一人の人が自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて救われるということは、何を意味するのでしょうか。罪が赦されること、神の子とされること、永遠のいのちを受けることであり、神の民の一員とされることでもあります。しかし、それは同時に、神のご支配、すなわち神の国の中に入れられることでもあります。それは、個人的に経験される神の恵みであると同時に、歴史を貫いて進められる神のみわざに加えられることであり、最終的には世界を覆うようになる神の栄光あるみわざにあずかることでもあります。
 
パウロは、コロサイのクリスチャンたちに対して次のように書きました。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。」(コロサイ1:13、14)
 
ヨハネもまた、その黙示録を次のような頌栄(キリストをほめたたえること)の言葉で始めます。「わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン」(黙示録1:6)。そして、黙示録の終盤では、「神の言」と呼ばれるお方(イエス・キリスト)が栄光の姿で現れ、諸国民を治める様子を描きつつ、このお方こそ「王の王、主の主」であることを示唆しています(黙示録19:13-16)。
 
神の国に入れられる条件は何でしょうか。神の御前に的外れな生き方、すなわち罪を悔い改め、イエス・キリスト(福音)を信じることです。
 
「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)
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