長田家の明石便り

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第8章 神により新しくされた人間性

2016-10-11 20:16:44 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第8章 神により新しくされた人間性


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)

一方でパウロは、キリストにあって新しくされた人間性は、純粋なものであって、異教を特徴づける、破砕され、貶められた人間性とは明らかに対照的であると信じていた。他方で、彼は、キリストにあって新しくされた人間性は、イスラエルの召しの成就であって、不信仰のイスラエルが達し得なかったものであると信じていた。

キリストにある人間性の更新についてのパウロのビジョンは、単に一時限的な倫理ではないことを示したい。それは、単に「救われ」そして、「振る舞い方を学ぶ」という問題ではない。それは複合的に織り込まれたビジョンであって、様々な特別のニーズに合うように一緒に編まれ、神が彼の内に鼓舞した(と彼は主張する)全エネルギーによって促進された。

○新しくされた人間性の中心:礼拝

純粋な人間性についてのパウロのビジョンの中心にあるのは、ひとりの真の神に対する真の礼拝である。

第一テサロニケ1:9で、彼はテサロニケの人々に最初に福音を語った時起こったことを描いている。「あなたがたは偶像から立ち返り、生ける真の神を礼拝するに至った。」彼は異教世界を偶像礼拝によって特徴づけられると見ている。彼が切望するのは、これが真の神への礼拝で置き換えられることである。

ガラテヤ4:1-11では、真の礼拝へのパウロの招きの二重の論点がある。真の神礼拝は真実であり、そのリアリティに対して、異教の偶像礼拝はパロディであるということはパウロは前提と考える。しかし、驚くべきことに、そしておそらく怖いことには、この視点からは、不信仰のユダヤ教自体、異教への妥協であると示されことを我々は発見する。割礼を行うことは実際上、諸霊と諸力に屈服することである。

第一コリント8:1-6でパウロは再び異教主義に反対する高い根拠を主張する。(シェマを引用しつつ、その中にイエスを置いていることについては4章も参照。)しかし、一人の神への高いユダヤ教礼拝を調べてみると、それはイエスの顔に神を認められない、あるいは認めようとしないユダヤ教に対するチャレンジを含んでいることが分かる。

ローマ1:18から始まる長い節全体のポイントは、異邦人が偶像礼拝者であり、それゆえ彼らの人間性が自滅しているということである。これに対して、真に神を礼拝している神の民であると主張するであろう普通のユダヤ人たちに対して、パウロは2:17-24で答えている。ユダヤ人の誇りはよしとされ得ない。なぜなら、イスラエルはなお捕囚下にあり、他の人々の問題を深いレベルで共有していることを示すのろいのもとにあるから。それでは解答は何か。神は新しい共同体を召された(2:25-29)。そこでは割礼も無割礼も無関係であって、大切なのは、その人が「ユダヤ人」であるかどうかである(2:29、パウロは「真のユダヤ人」とさえ言っていない。)。ローマ4章におけるアブラハムと彼の信仰の描写が、ローマ1章におけるアダム的人間性の描写とその偶像礼拝を明確に反転させていることに注目することができよう。

○新しくされた人間性のゴール:復活

真の人間性への道が真の礼拝だとすれば、神によって新しくされた人間性の目的及びゴールは、もちろん復活である。第一コリント15章、ローマ8章、コロサイ3章、第二コリント4,5章、ピリピ3章の終りが基本的テキストとなる。

異教主義は、将来に何を望むことができるかについてかなり不明瞭である。復活は将来の命のリアリティであり、異教主義が提供するのはそのパロディに過ぎない。復活は単なる蘇生ではなく、変貌であり、原罪の物質的様式を新しい様式に変えることであり、イエスはご自身の復活の体においてその唯一の原型である。

復活の教理においてパウロは二つの反対の危険を避けている。創造された秩序の神格化と、創造された秩序の二元論的拒絶である。

同時に、パウロの復活への解説は、彼の時代のユダヤ教信仰への明らかな代替を提供している。もはや異邦人は真の敵ではなく、罪と死が敵であって、神はドラマの最後の偉大な行為においてそれを滅ぼされるであろう。

パリサイ人として彼は、今我々は、異教徒を打ち負かし、イスラエルを解放する、歴史のおいて偉大な神のみわざの前の最後の時代に生きていると言ったことであろう。しかし、クリスチャンとしてパウロは、我々は罪と死を打ち負かし、全宇宙を解放する、歴史において偉大な神のみわざの後の最初の時代に生きていると言った。そして付け加えるであろう。キリストにおいて始まったことの完成をもたらす神の偉大なみわざの前に終りの日があると。しかし、初めの言述がより重要である。

(パウロが予期した偉大な激変の出来事についての議論省略。)

○新しくされた人間性の変容:ホーリネス

この新しくされた人間性の始まりと終わりとの間には何が起こるのか。パウロの基本的答えは、変容がそこかしこで始まるというものである。古典的なテキストはもちろん、ローマ12:1-2である。ここでは礼拝とホーリネスとが結合されている。再び、ローマ1:18-32は明らかに反転させられている。

彼のビジョンは異教主義への明らかな代替である。パウロは人間性についてのユダヤ教的ビジョン、すなわち、知恵とホーリネスによって特徴づけられた人間性の成就を提供している。

ホーリネスは複雑で難しいトピックである。パウロはホーリネスをオプションのエキストラ、すなわち他の者たちが半異教主義にとどまることがゆるされる一方で、あるクリスチャンたちだけが召されるような何かとは見ない。同時に彼は現実主義者である。ある注解者が考えるように、パウロはクリスチャンが聖霊のバプテスマや聖霊の内住、その他何であれ、常に100%きよい生活ができるとは考えていない。彼にとっては、新しくされた人間性の生涯は、「今や」と「未だ」の緊張関係の中で保たれる。(第一コリント、コロサイ3章、ピリピ3:12-14)

特にパウロは、パリサイ人として彼が熱心に従っていたようにユダヤ教のトーラーに従うことによっては所持され得ないと考えている。クリスチャンホーリネスの彼の説明に組み込まれているのは、トーラーに対する強い批判である。すなわち、トーラーは、自ら差し出すきよい生活を与えることができない。

ローマ7章でもガラテヤ5章でも、パウロはイスラエルを肉にあり、アダムにある者として描いていると私は示したい。それ故、イスラエルがトーラーを抱く時、それがなしうるのはイスラエルを罪に定めることだけである。まず、ローマ7章を取り上げよう。ここでパウロは自伝的工夫として「私は」を用いる。彼が描く窮状は、熱心なパリサイ人としてそうであったところのものである。イスラエルのアダム的人間性がキリストにあって取り扱われる時―それは、イエスの死と復活において、バプテスマにおいてそれらの出来事とクリスチャンが一体化することにおいて起こるのであるが―初めて、「命の御霊の法則があなたがたを罪と死との法則から解放する」ことができる(ローマ8:2)。

ガラテヤ5章においては、ガラテヤ人たちは古い異教からできるだけ遠ざかろうとしてトーラーを熱心に抱いている事実に直面する。彼らは以前の異教的偶像や不道徳をありのままに見て、真の人間性、ホーリネスと礼拝の道に進もうと決心している。「そそのかす者たち」は、彼らがこの目的をトーラーを抱くことによって達成できると語りかける。そうではない、とパウロは言う。もしあなたがたがそうするなら、あなたがたは自分たちを古い人間性、肉に縛り付けるものを強調することになるだけであろう。トーラーを抱く徴が割礼であるという事実は、このポイントをより明確にする。もしトーラに固執するなら、あなたがたはかえって自分達を異教主義のレベルにまで戻す。もしあなたがたが純粋なものを欲するのであれば、御霊によって歩かなければならない。

パウロの著述を通して、純粋なホーリネスはキリストと共に死によみがえるという用語の中に見い出される。このテーマは、第二コリントにこれ以上なく明確に表現されている。そこでパウロは、大きな痛みと悲しみを描き出す(第二コリント6:4-10)。純粋な人間性は安易にはやって来ない。

○新しくされた人間性の結合力:愛

純粋な人間性の破砕は、個人の内で起こるだけでなく、人類の一部が自分自身を他の部分と対立的に定義する時にも起こる。パウロにとって、このことは単にプライドと怖れにある人間の働きであるだけではなく、世界を切り分ける諸霊と諸力の働きの結果でもある。そして、パウロにとって、これらはキリストにあって打ち負かされている。それがもはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、すべての者がキリスト・イエスにあって一つである理由である(ガラテヤ3:28)。それ故、この点において、新しくされた人間性の中心的特徴は愛である。

決定的な点は、教会が一つの家族として機能するべきであり、そこではすべてのメンバーが同等のメンバーであるということである。そのような共同体の存在がまさに諸霊と諸力に対して、彼らの時が終わったことを示すものとなる。それがエペソ人への手紙の中で絶頂のステートメントを見い出す理由である。福音の目的は、「教会を通して神の何重もの知恵が天の場所にある諸力と諸霊に対して知られる」ということである(エペソ3:10)。愛の共同体の存在がまさに神の霊が働いているとパウロに告げる決定的証拠である(コロサイ1:8)。

明らかにそのような共同体の存在と養いとが異教世界に対してイエス・キリストの福音が自ら主張する通りのものであるということを示すものである。それが第一コリントを書く時、パウロが議論を少しずつ積み上げ、遂に13章に達する理由である。パウロがすべてのトピックについて語ってきたすべてのことは、結局、アガペーへのアピールである。異教主義は、常にそれをめざそうとするが、なしうることは人格的カルトや党派争い、けばけばしいエロティシズムへの堕落でしかない。

しかし、再びアガペーのこのような生き方は、パリサイ的ユダヤ教に対する内側からの批判としても役立つ。ユダヤ人プラス異邦人のキリストにある統一的家族への彼のアピールは、キリスト教をユダヤ教の一派とするすべての試みを遮断するものである。もし教会がユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンに分かれ、おそらくはある異邦人クリスチャンが割礼を受けることによりユダヤ人クリスチャンに加わるようなことがあれば、これは諸霊と諸力がなお世界を支配していることを意味する。

ローマ4章、ガラテヤ3、4章で、彼はこのユダヤ人プラス異邦人の信仰の家族の到来は、一人の真の神が、アブラハムを召された瞬間から、常に御心に抱いて来られたものであると、彼は議論する。彼が打ち立てた共同体はその召しに従うことが決して簡単でないことを見い出すという事実に対して、パウロは力強く取り組む。しかし、このことがそこでの彼のビジョンであるということは疑いないことである。

○新しくされた人間性の熱心:宣教

以前の章で、パウロにとってはイエス・キリストの主権性が皇帝の主権性に挑戦することを見た。ここで私がしたいのは、一人の真の神を礼拝することを通して、新しくされた人間性が世界に対する権威の中に据えられるとパウロが信じる仕方に注意を向けることである。教会の宣教はリアリティであり、、異教の帝国はそのパロディである。

これは、神を真に礼拝する人々の中で回復される神のかたちについてのパウロの基本的神学に関係している。クリスチャンは「造り主の形に従って知識の内に新しくされた」存在であると彼は言う(コロサイ3:10)。彼らは「御子のかたちに似る」ようにと選ばれている(ローマ8:29)。しかし、神のかたちに新しく造られた人間について考えることは何を意味するのであろうか。

人類における神のかたちの教理は、単に人間が神を神に戻すという重要性を持つという信念だけではない。彼らは神を世界に反射させるという重要性を持っている。ローマ8章で、このプロセスの終りが何かを全く明瞭に見る。神の民が復活の内に遂に完全に新しくされるとき、全被造物はそれ自体滅びの縄目からかいほうされ、神の子らの栄光ある自由を共有する。従って、教会の宣教は神の国を全世界に告げ知らせることを意味する。パウロは「他の王、すなわちイエス」がおられることを告げて回った(使徒17:7)。彼は続く者たちが同様にすることを期待する。

もちろん、イエスは皇帝に対して違った種類の王である。しかし、パウロにとって、その違いは、一方は「霊的」であり、他方は「一時的」であって、互いに何の関係もない二つの区別された領域に固定されているというようなものではない。「イエス・キリストを主として告白する」という全ポイントは、彼の御名に対してすべての膝が屈むであろうというものである。

パウロの宣教はそれゆえ、単に個人的伝道、将来の天国のために一人一人魂を救うというものではない。確かに、イエス・キリストの福音を告げることにおいて、彼はすべての個々人がイエス・キリストの主権性に対して従順な信仰に従うようチャレンジした。信じた者に対して彼は、神の一つの家族のメンバーとして、彼らは擁護され、死者の中からよみがえらされ、来たるべき新創造の栄光を共有するであろうという確信を与えた。しかし、パウロは単にそのような用語だけで自分の宣教を見なかった。彼は福音が「天の下のすべての被造物に対して告げられている」と言う(コロサイ1:23)。彼は自分がしていることが、イエスの復活で始まり、すべてのものの更新で終わる宇宙的運動の一部に過ぎないことを知っている。彼は王の使者である。そしてその王は、王の王、主の主である。イスラエルの王が全世界の王となるというユダヤ人の望みは、メシアなるエスにおいて真実となった。

○結論

私がこの章で示そうとしてきたのは、パウロが聴き手に対して主張し、回心者に迫り、教会において維持しようとベストを尽くしたのは、神によって新しくされた人間性のリアリティであったということである。それはあらゆるレベル、あらゆる道でリアリティあって、異教主義はそのパロディに過ぎないことが証明されたのであり、あらゆるレベル、あらゆる道でイスラエルの熱望の成就であって、不信仰なイスラエルが異教主義に妥協していることを示すものであることが証明された。

【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

ライトはこの章で福音によって新しくされる人間性がどのようなものかを概観します。ウェスレー主義の伝統の中で育ってきたものとして、それは、「ホーリネス」と一括して表現したくなりますが、ライトはむしろ、「複合的に織り込まれたビジョン」と表現し、その中心には礼拝があり、そのゴールには復活があり、その変容はホーリネスと呼ばれ、その結合力は愛であり、その熱心は宣教に表われると、5つの側面からまとめます。

新たにされた人間性について、真の神への礼拝を中心的かつ初期的なものとして位置付ける点、また特に復活という面から終末論的要素を見据えている点、ユダヤ人も異邦人も一つとされた共同体形成と深く関わる側面として愛を位置づける点、そして、宣教という点においても、イエス・キリストの主権性の宣言を中心に置き、宇宙論的視点も忘れない点など、ライトの特徴をよく表わす章となっています。

その中で、ホーリネスの扱い方はむしろ伝統的な内容とも見えますが、特にローマ7章やガラテヤ5章から、ユダヤ人律法の限界性と異教主義へ戻りゆく危険性を指摘しているところがライトらしいところと言えるでしょうか。

全般的に、すべての点において、異邦人に対するメッセージと、ユダヤ人に対するチャレンジの両方を常に意識しながら、議論を展開しているところが最も特徴的なところと思いました。

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