長田家の明石便り

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第9章 パウロの福音 当時と今

2016-11-22 19:38:17 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第9章 パウロの福音 当時と今


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)

聖パウロが実際に語ったことについて、私がこれまで語ってきたことが、パウロが言わんとするところの今日的適用について、かなりの量の新鮮な思想を励ますものとなるよう願う。しかし、この点で特に光を当てる必要のあるいくつかの領域を示唆したい。私は特にこの書の中で二つの事、「福音」と「義認」について集中してきた。

パウロにとって「福音」は教会を造り出し、「義認」は教会を定義する。パウロにとって福音の宣言は人々を救う力を帯びる。「福音」それ自体は、思想のシステムでもなければ、人々をクリスチャンにする一連の技術でもない。福音はイエスの人格についての人格的宣言である。それこそ福音が教会、すなわちイエスは主であり、神は彼を死からよみがえらせたと信じる人々を造り出す理由である。「義認」はその福音を信じる者は誰でも神の家族の真のメンバーであると宣言する教義である。


1.パウロの思想に関する考察について

まず、私が提供してきたスケッチが、パウロの思想の中心において戸惑わせる二律背反、あるいは矛盾でさえあるようにみえるものの意味を明らかにする仕方を指摘したい。私は1章で、シュバイツァーからサンダースに至る思想のラインについて書いた。彼らは「法廷」用語を退け、シュバイツァーが「神秘的」領域、、サンダースが「参与主義者」領域と呼ぶものを主張する。我々がパウロの思想の契約的性質を把握し、契約がその中心において常に神の偉大な法廷の意味を伝える仕方を把握するなら、この二律背反はありのままに示される。それらはずっとのちの哲学や神学にその起源を負う違いをパウロに反映させることである。パウロにとって、「キリストにあること」は、「メシアを巡って再定義される神の民に属すること」である。それは言い換えれば特別に契約的言い方である。しかし、同様に、「義」の擁護は一貫して契約的である。

同様なことは、私が本書ではこれまで述べてこなかったが殊に現代のアメリカのパウロ研究を支配する他の議論についても真実である。パウロの「契約的」読みに反対して、J.L.マーティンのような何人かの学者は、パウロ思想の「黙示的」性質を強調してきた。契約的範疇はアブラハムからキリスト以降への定常的発展、旧約聖書と新約聖書との間の連続性を意味すると考えられている。しかし、パウロにおいて見出されるのは、むしろ明らかな断絶、すべての以前の期待を立つはりつけの荒々しい衝撃という(いわば)「黙示的」観念であるというわけである。第二コリント5:16(5:17)はこのことについてのスローガンとして機能するかもしれない。「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」。

問題はもちろん、その節自身が基本的に、また明らかに契約的であるということである。

同様に、「黙示的」ということは、「新約聖書と神の民」10章で論じたように、それ自体、契約的である。

パウロの福音の当時と今についての章のはじめに、パウロの神学のパターンと形についてこのような振り返りを含めた理由は、我々がパウロのような思想家を捉えようとするとき、すぐにパウロが実際には後の時代が創り上げた様式やモデルに適合されうると想定してしまう危険が常にあるからである。


2.王の告知

○イエス・キリストを主と宣言する

福音はイエスが主―世界の主、宇宙の主、地球の主、オゾン層の主、くじらと滝、木々や亀の主―であることの宣言である。このことを正しく理解するなら、「福音を伝えること」と「社会的行動」あるいは「社会正義」などと呼ばれてきたものとの間に存在してきた危険な二分法を打ち砕くことができる。福音を伝えることはイエスを世界の主と宣言することを意味する。そして、矛盾したことを言うつもりがないなら、その主権性を世界のすべての領域に及ぼそうとしないでその宣言をすることはできない。

後期現代主義の偉大な預言者はもちろん、マルクス、フロイト、ニーチェである。彼らの偉大なテーマ、金、性、権力について、パウロの福音は何を語るだろうか。

まず、もしイエスが全世界の主であるなら、偉大な神マンモンは全世界の主ではない。

同様に、もしイエスが世界の主であるなら、性愛の女神アプロディーティーは全世界の主ではない。

次は権力を考えよう。西洋民主主義は全体主義と無政府主義の恐るべき代替物の間で二世紀の間、安定した場所と思えるものを提供してきた。そうあり続けるかどうかは、教会が次のような主張をすることができるかどうかにかかっている。すなわち、イエスは世界の真の主であって、違った種類の力、より強力な種類の力、弱さの内に完全にされる力があるという主張である。

私はこのことすべてが、イエス・キリストは全世界の主であるとの宣言に多かれ少なかれ直接に含意されていると考える。

福音は本質的に「経験」ではなく忠誠を造り出す。イエスの召しによって保証される唯一の経験は、十字架を担うというものである。


3.義認、当時と今

○義認と共同体

福音は個々のクリスチャンの一グループを造り出すのではなく、共同体を造り出す。もしあなたの神学の中心に伝統的な意味での義認を置くという古い道をとるなら、そのような種類の個人主義を維持するという危険の中に常にあることだろう。「個々の」クリスチャンというものはない。パウロの福音は共同体を造った。彼の義認の教義はそれを支持した。我々の福音も同様でなければならない。

○エキュメニカルな働き

パウロの信仰義認の教理は、教会がバラバラにされている現状では、教会にエキュメニカルな働きを強いる。義認の教理は単にカトリックとプロテスタントが一生懸命なエキュメニカルな努力の結果として賛同できるようになるだろうという教理ではない。義認の教理はそれ自体でエキュメニカルな教理である。

○それを知らずに義とされる

偉大なアングリカンであるリチャード・フッカー(訳注:1554-1600年)が言うように、「人は信仰義認を信じることによって信仰により義とされるのではない。」現代の多くのクリスチャンは、教理の正確さについてあまり明瞭でないかもしれない。しかし、いかに不明瞭であっても、彼らはイエスにしがみついている。パウロの教えによれば、彼らはそれ故信仰によって義とされている。家族の一員として構成されている。

○義認とホーリネス

我々が福音と義認の教理を私が概説したような仕方で把握すれば、我々の理論や行為において、「信仰義認」とクリスチャンのホーリネスへの責務との間の衝突の危険はない。

パウロの義認の教理は完全に彼の福音に依存しており、我々が見て来たように、それはイエスを主と告白することである。パウロの鍵となる節の一つは、「信仰の従順」である。信仰と従順は正反対ではない。両者は正確に一緒に存在する。実際、大変しばしば、「信仰」という言葉自体、「真実」と訳されうる。もちろん、このことは福音や義認を妥協させ、後ろの戸から「行い」をそっと持ち込むことではない。信仰は、この積極的意味においてさえ、神の家族の中に入るためにも、またそこにとどまるためにも、決して人間の側から準備された資格ではない。それは神によって与えられたメンバーシップのバッジであって、それ以上でもそれ以下でもない。恵みによってだけ自分自身を神の家族の信仰メンバーとして見い出す者たちにとって、ホーリネスは適切な人間の状態である。

○義認と諸力

教会のメンバーシップをイエス・キリストへの忠誠以外の何かによって定義しようとするいかなる試みも偶像崇拝的である。義認の真意はエペソ3:10において要約される。「教会を通して神の多種多様な知恵が天井にある諸霊や諸力に知られるようになる」。一つの信仰共同体として生きている教会によって、諸霊や諸力は彼らの時が終わったことを明確に知らされるのである。


4.神の再定義と神の義

私は以前、最近10年間に西洋世界が直面するようになった大きな変化の一つは、「神」という言葉が単一義でないことを人々が悟り始めたということだと語った。

絶対多数の人々が信じている「神」は、ほぼ確実に理神論者の神であって、パウロの世界ではエピクロス派の神、あるいは神々に相当する。パウロの福音宣言は驚く異教徒たちに本当の神がおられ、生き、動き、心にかけ、愛するお方であり、歴史と人間との間で全世界を再創造するために働かれ、また働いておられるお方であるという知らせをもたらした。イエスの福音についての我々の宣言も同様のメッセージを含まなければならない。

近年、フロアから沸き立ち始めている偽の神々とも直面している。ニューエイジ・ムーブメントのいくらかは、明らかにネオ・異教主義である。ユダヤ教唯一神論が二元主義、異教主義、エピクロス派、ストア哲学と対峙したように、ユダヤ教唯一神論のクリスチャンバージョンも、パウロの説教においてそうであったように、あらゆる代替神学に対峙しなければならない。

「神学」という言葉が不適切な理論に対するあざ笑いの言葉であるうるのは、理神論的文化が支配的な状況においてである。パウロの福音のように、イエスと御霊において知られた一人の唯一の神について語る高度な基礎を主張するならば、神学の言語が全生活、文化、愛、芸術、政治、宗教とさえ、いかに密接に、また決定的に関連しているかを示す用意がなければならない。

特に、神についてのパウロの再定義は、神の義の再定義を含んでいた。このテーマは、ローマ書で展開され、8章において一つのクライマックスに達している。そこでパウロは、ある日全宇宙が偉大なエクソダス、滅びの縄目からの解放を得るという望みを概観し、祝福している。神とイスラエルとの間の契約は、全世界を救う神の手段となるよう常に意図されていた。決して、世界の残りが地獄に行く一方で、個人的な小さなグループの人々を得るための手段となるよう想定されていたわけではない。

私は実際、いわゆる神の義のテーマの一部として、正義の問題を考え抜くよう備えられるべきだと主張する。「ディカイオスネー」という言葉は、「義」と同様に、「正義」とも訳すことができる。もし神が全世界を新しくするおつもりだということが本当で、ローマ8章や第一コリント15章でパウロがナンセンスを語らなかったとすれば、現代において正義、あわれみ、平和の行動は、神の決定的企図に対する不可避的に部分的な、また断続的かつ戸惑わせるような待望だとしても、適切なものである。

神の義を終りまで探究すると、それは神の愛―造られた宇宙に対する造り主の愛、それを損ない、ゆがめる力に対するキリストの勝利を通してそれを造り直すという決心を啓示する。もし福音が神の義を啓示し、教会が福音を宣言するように命じられているとしたら、不公平、圧迫、暴力が神の世界にはびこっているのに教会が満足していることはできない。


5.結論

パウロがポスト・モダニズムに対して何と言うだろうかという問いを扱ってはこなかったが、そこでもパウロは我々があちこちで聞くような恐れに満ちたつぶやきとは全く違った強壮なクリスチャンの誠実さで挑戦に直面するのを助けてくれるだろうと思う。

もちろん、パウロの福音は人々に対してパウロのあとに続く危険を引き受けるよう命じるであろう。クリスチャンが福音を宣べ伝えようとするなら、福音を生きることから免れることは期待すべきでない。


【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

パウロの福音及び義認についての思想が、今日の教会と世界の状況に対して何を語りかけるかを取り上げた章です。ライトは、教会の中の保守派層から見ればかなりラディカルに見える一方で、世俗の世界に対しては、極めて保守的な発信を行っている一面があり、このような章を読むと、その両面が伺えます。

私としては、教会論寄りのライトの義認理解は、個人的救済論的の側面をあまりにも簡単に軽視しているように見えますし、「神とイスラエルとの間の契約は、全世界を救う神の手段となるよう常に意図されていた。」(163頁)以下の表現は、普遍救済主義と誤解されかねない表現のようにも思えます。しかしながら、ポスト・モダンと言われるこの時代に、世俗社会にあっても強力な発信力を持つライトの神学表現は、世界のキリスト教会に有益なものをももたらしているように思われます。

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