長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

7章 その1

2014-01-24 20:35:52 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

第7章は、コルネリオの回心を扱っています。著者は、使徒10章を詳細に検討すると、ペンテコステ派が困難に直面するであろうことを指摘します。コルネリオの場合、回心と聖霊のバプテスマの間に間隔がないように思われるからです。ペンテコステ派は、一般に3つの線のうちの一つで議論すると言います。

(a)コルネリオは「ペテロが彼に御言葉を語る前に新生していた」
(b)コルネリオはペテロの説教の間に信仰に至り、心をきよめられた(15:9)。直後聖霊の賜物が与えられたが、別個の恵みのみわざである。
(c)二つの出来事は同時に起こった。この事例の場合、区別することができないが、それらはこの場合でさえ神の別個のみわざである。

これらの考え方について、著者は検討を加えます。

(a)について

「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」こと(使徒10:2)、「神に受け入れられ」た人であったこと(使徒10:35)を認めつつ、著者はこれらのことがユダヤ人的敬虔であると考えます。というのは、コルネリオが信仰と救いに導かれたのは、ペテロのメッセージを通してであったからだと著者は指摘します。使徒11:14に御使いからコルネリオへの言葉として「その人(ペテロ)があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます」とあるからです。

(b)(c)について

この二つの考え方は、実証的に区別されるわけではないので、一緒にして取り扱われています。著者は、以下の5つの点を指摘して、これらの考え方を退けています。

(1)聖霊がコルネリオにくだったのは、ペテロが罪の赦しについて語っていた時であった。(使徒10:43、44)

この事実によって自然に考えられるのは、コルネリオがその瞬間、罪の赦しのための信仰に至ったのであり、神からの応答として聖霊を受けたのであり、それは罪の赦しの代わりにではなく、罪の赦しの担い手として聖霊を受けたのであるということだと、著者は言います。罪の赦しは聖霊を受けることを通して与えられるという考え方のようです。

(2)御使いはコルネリオに対してペテロが「あなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話して」くれると告げた。そして、ペテロが話し始めたときに起こったのは、聖霊が彼らの上にくだることだった。(使徒11:14、15)

この事実によって明らかに考えられるのは、聖霊の賜物こそ、コルネリオの救いをもたらしたものであるということだと著者は言います。というのは、コルネリウスに対して救いをもたらすと語られていたメッセージは、実際には聖霊の注ぎ以外の何物ももたらさなかったからと。

(3)神がペテロたちに聖霊を与えたように、神がコルネリオにも同じ賜物を与えたということを聞いたとき、ユダヤのクリスチャンたちはこう結論づけた。「これは神が異邦人にも命を与える悔い改めを認めたことを意味する」。(使徒11:18、NEB)

この事実から分かるのは、聖霊の賜物がμετανοια εισ ζωηνという神の賜物でもあったということだと、著者は言います。

使徒11:14-18はコルネリオを神が受け入れられたということに集中していることを著者は指摘します。コルネリオは、救われ、聖霊のバプテスマを受け、聖霊を与えられ、命に至る悔い改めを認められた・・・このすべては次のように言うことと同じである。コルネリオはクリスチャンになったと。

(4)使徒15:8と使徒15:9

使徒15:8
ο θεοσ εμαρτυρησεν αυτοισ καθωσ και ημιν δουσ το πνευμα το αγιον.
「そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし」
使徒15:9
(ο υεοσ) ου διεκιρινεν μεταξυ ημων τε και αυτων καθαρισασ τασ καρδιασ αυτων.
「私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」

両節は、明らかに同じ意味であると著者はいいます。神があかしされたことは、差別をつけないことと同じ意味である。同様に、神が彼らに聖霊を与えたことは、彼らの心をきよめたことと同じ意味である。神は聖霊を与えることによって彼らの心をきよめたのであり、彼らの心をきよめるために聖霊を与えたのであると。

(5)聖霊の賜物は信仰に対する応答であった(使徒15:9)。

最後に、著者は、使徒15:8と15:9が同じ意味であるとの前提により、聖霊の賜物が信仰によるものであったことを指摘した上で、その信仰が使徒10:43(「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」)その他の信仰と同じであって、神はその信仰に対して罪を赦し、きよめる聖霊をお与えになると指摘します。

これらのポイントを受け、著者は次のようにまとめます。「それゆえ、少なくともここでは、聖霊のバプテスマは神の受容、赦し、きよめ、救いのみわざであって、コルネリオをクリスチャンにするみわざと区別された、あるいはそれを越えた何かではない。」

著者の立場は終始明瞭であり、一貫しています。著者にとっては、聖霊の賜物を受けることは救いを受けることから区別して考えることができません。聖霊の賜物を受けることと、罪の赦しを受けること、心のきよめを受けること等は一つとして受け取られています。

コルネリオの回心に対して、著者とは違う方向性で考えることは可能でしょうか。ペンテコステ派の三つの議論、(a)(b)(c)についての著者の議論の内、(a)については私もその通りだろうと思います。ペテロの宣教は、コルネリオの家にいる人々だけでなく、コルネリオにとっても「救うことば」でした。ペテロの言葉を聞くまでのコルネリオの状況は、既に救われていたクリスチャンであると言うより、「ユダヤ人的敬虔」の状態であったと考えるのが妥当だろうと、私も思います。

ただ、(b)(c)については、著者の考え方も一つの可能性ではありますが、他の考え方も不可能ではないように思われます。次回、まとめてみます。

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