(2)ヨハネの水のバプテスマの役割
バプテスマのヨハネの言葉についての2番目の問題として、ヨハネの水のバプテスマについて、その役割、特に聖霊と火とのバプテスマとの関わりをどのように理解するかということがあります。この点についての著者の主張を要約的にご紹介しますと、次のようなものです。
・ヨハネのバプテスマは本質的に準備的なものである。このバプテスマを受けることによって、悔い改めた者は来るべき方のバプテスマを受けるように自分自身を備える。御国を始め、御国に入れるのは、ヨハネのバプテスマではなく、来るべき方のバプテスマ、すなわち聖霊と火のバプテスマである。
・ヨハネのバプテスマは悔い改めの表現であり、方向転換(「悔い改め」と訳されるメタノイアの原意)の行為を構成するものである。(マルコ、ルカ「悔い改めのバプテスマ」、マタイ、マルコ「自分の罪を告白し」、マタイ「悔い改めるために、水のバプテスマを授けている」)
・ヨハネの水のバプテスマは、赦しをもたらす手段ではない。(マルコ1:4、ルカ3:3「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ」において、「罪がゆるされるための」は、「バプテスマ」にでなく、「悔い改め」にかかっている。ルカ24:47「罪の赦しを得させる悔い改めが」参照。)罪の赦しをもたらすのは悔い改めであり、ヨハネのバプテスマはその悔い改めの表現である。
・ヨハネのバプテスマの意味は、旧約聖書における儀式の文脈で探さなければならない。それらは神ご自身が儀式から離れて働かせるきよめのみわざの象徴である。象徴以上のものでもあって、それらは神がへりくだった者を励まし、ご自身に近づく悔い改めた者に対しては神の恵み深いみ心を知らせることにより確信を与えるための手段である。預言者が儀式を攻撃し、儀式から離れた悔い改めへと招くのは、儀式が真の悔い改めと純粋な願いから離れた時のみである。神のみ心は儀式と悔い改めが一つであることであり、儀式が悔い改めの生きた表現を与えることである。儀式的行為は、きよめの手段ではないがその機会である。この意味で、ヨハネのバプテスマは「礼典」であり、有効なしるしであるが、それが意味するところのものを働かせるのではない。
非礼典主義者としての著者の主張が、この点でも明確に表されているように思います。この部分は、ヨハネのバプテスマについての見解が記された部分ですが、このような見解がクリスチャンのバプテスマについての議論にも連続的に引き継がれていくことになります。
旧約聖書の特に預言書からの議論は説得力を感じさせますが、多少気になる点もあります。神の民の経験における儀式の役割という点から見て、「旧約聖書の祭儀儀式」=「ヨハネのバプテスマ」ということが言える、という点が論点の要になるわけですが、著者の議論では、それが「立証」されているというよりは、それが「前提」とされているようにも見えます。今後の礼典に関する議論の土台の一つとなっていくだけに、もう少し十分な検討があってよいようにも思われます。
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