何がどうというのではありませんが、徒然草よろしく心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく綴ってみます。
良かれと思って決断したことが、後世になって誤っていたということは有りがちなことで、常に為政者が正しい判断を下すということは難しいことです。
しかし、過たないように議論を尽くす。対話を重ねて検討することさえしていれば、後にどのような結果がもたらされても納得でき、素直に反省というものが出来ます。
けれど、一時の感情に流されて判断を性急に求めるようであれば、これこそ本当の意味での禍根を残すことになりはしないでしょうか。
価値判断の基準を、損得や目先だけの計算に置き換えるのではなく、50年先100年先の未来を創造し、後世の子孫の反映と豊かな郷土のことを考えた時、どのようにすべきかが一番大事なことではないのでしょうか。
誰が間違っているとか、誰が正しいとかではなく、互いにすべてを白紙にして、損得抜きに歩み寄ることは出来ないのでしょうか。
雪化粧に輝く恵那山を仰ぎながら、私はこんな独り言を思わずつぶやいてしまいました。
良かれと思って決断したことが、後世になって誤っていたということは有りがちなことで、常に為政者が正しい判断を下すということは難しいことです。
しかし、過たないように議論を尽くす。対話を重ねて検討することさえしていれば、後にどのような結果がもたらされても納得でき、素直に反省というものが出来ます。
けれど、一時の感情に流されて判断を性急に求めるようであれば、これこそ本当の意味での禍根を残すことになりはしないでしょうか。
価値判断の基準を、損得や目先だけの計算に置き換えるのではなく、50年先100年先の未来を創造し、後世の子孫の反映と豊かな郷土のことを考えた時、どのようにすべきかが一番大事なことではないのでしょうか。
誰が間違っているとか、誰が正しいとかではなく、互いにすべてを白紙にして、損得抜きに歩み寄ることは出来ないのでしょうか。
雪化粧に輝く恵那山を仰ぎながら、私はこんな独り言を思わずつぶやいてしまいました。