もうすぐ6月になりますが、今日は雨で少し肌寒く、なんだかもう梅雨のような感じのする朝です。
そんな雨模様の天候にもかかわらず、庭の木々には雀たちが飛んできていて、家の北側に面する竹薮のほうからは、うぐいすとホトトギスが互いに鳴き合っているのを耳にしました。
世の喧騒、世事の喧しさからは遠くはなれたような、のどかな朝です。
昨日は市内の幼稚園で、お母さん向けの絵本の読み聞かせ(読み語り)の口演というか、講演といいましょうかを、1時間ほどしてきました。
自分の経験談や、これまでの実践や、その中で感じたこと学んだことをわりとまとまりなくランダムに語らせてもらってきました(いつもそうですが)。
その中で感じたことを一つお話します。
私は私の住んでいる町に限って、ボランティアに近いかたちで、読み聞かせや子育て支援事業に参加させてもらっています。
私にしっかりとした副業や収入源があれば、もっと無償なかたちで力を入れたいジャンルの事なのです。が、それにも限界があって申し訳なく思うのですが、そこのところはこれからも継続させていくために、しっかりしていかなければいけないところだと考えています。
さて、お話したいのはそんなことではなくて、時間についての観念、あるいは意識についてです。
私は本当に世界中の子供たちが、1日に15分誰かから(親であることが一番ですが)読み聞かせなり語り(お話)を聞けたなら、おそらく世界は大きく変わるだろうと、本気で考えている一人です(当然世界ということを口にしてしまうと、現状からして夢のような話だとは、百も承知で言っています)。
そこにはどうしても、現実的な時間の消費、あるいは1日の時間配分のサイクル等が関わってきて、大人の観念や意識に左右されていきます。
忙しさの中に埋没しない、オアシスのような15分の捻出を、本気で考えてみてはどうでしょうか。これは、どの場所においても等しくあっていいものだと思います。
前に様々な学校で、朝の10分間読書というのが盛んに行われた時がありましたが、今はどうでしょう? あれはゆとり教育というものの中でのことだったんでしょうか? 学力重視の方向に再転換された現在の状況では、もう捻出できない、過去のものとなりつつあるのでしょうか? そこのところはよくわかりませんが・・・。
とにかく家庭でも、その10分、15分なりを創り出して行くことは、とても重要なことのように思えてなりません。
幼少期や低学年期には、漢字のドリルや学習としての読み書きよりも、読み聞かせと言うものの担う役割は、大きいのではないのだろうか。もちろん、学習面を否定するものではありません。しかし、子供には遊びや楽しい中から学び取っていくこと、発見していくことが多々あって、それが体感としての学習能力に結びついていくのではないかと(お勉強も、苦痛なものではなく楽しいこととして子供たちに植えつける魔法のようなものがあれば幸いなわけですが)。
私は素人ながらに考えるのです(素人というのは教育者というライセンスを持たないと言う意味です)。子供たちの学習能力、想像力、思考力を高めていくための最良の道は何かと・・・。
教育に格差をつくってはダメだと思います。落ちこぼれを出さない教育を目指すべきです。
よりよい社会の確立は、学力の向上というよりも教育力の向上であり、一人一人の子供の教育水準の底上げではないでしょうか。
教育とはお行儀や公共のマナー等、私たちが社会人として最低限に見に付けていく本来の道徳意識も含まれているのだと思います。各教科の学習だけではないと思います。
理想論や夢物語を話しているつもりはありません。今何が本当に大事なことかを私なりに真剣に考えているつもりです。その上で出来ることはなんだろうかと・・・。
極端から極端に走らない柔軟性を身に付けて、メンタルな面において、強く豊かな子供たちを育て上げていくのも、立派な教育だと考えるのですが・・・。
子供には子供の時間というものが流れています。いや、かつてはあったというべきでしょうか。今は大人の社会の時間の仕組みを、子供たちにも押し付けているように思えてなりません。
かつて、大人の世間があるように子供には子供の世間というものがあって、その領域を侵さないという暗黙のルールが、大人の世間にはあったと思います。
それも一つの文化として私たちは共有してきたはずなのですが・・・。
まずは子供の目線に立って、伴に楽しむ1日15分の読み聞かせの時間、創り出して見ましょうよ。もちろんとっくにやっていると言われる方もおありでしょうが、この15分はどの時間にも匹敵しない、違う流れを持った15分です。
読み聞かせや読書は、決して時間の消耗や浪費ではありません。目には見えない蓄積と構築なのです。
そんな雨模様の天候にもかかわらず、庭の木々には雀たちが飛んできていて、家の北側に面する竹薮のほうからは、うぐいすとホトトギスが互いに鳴き合っているのを耳にしました。
世の喧騒、世事の喧しさからは遠くはなれたような、のどかな朝です。
昨日は市内の幼稚園で、お母さん向けの絵本の読み聞かせ(読み語り)の口演というか、講演といいましょうかを、1時間ほどしてきました。
自分の経験談や、これまでの実践や、その中で感じたこと学んだことをわりとまとまりなくランダムに語らせてもらってきました(いつもそうですが)。
その中で感じたことを一つお話します。
私は私の住んでいる町に限って、ボランティアに近いかたちで、読み聞かせや子育て支援事業に参加させてもらっています。
私にしっかりとした副業や収入源があれば、もっと無償なかたちで力を入れたいジャンルの事なのです。が、それにも限界があって申し訳なく思うのですが、そこのところはこれからも継続させていくために、しっかりしていかなければいけないところだと考えています。
さて、お話したいのはそんなことではなくて、時間についての観念、あるいは意識についてです。
私は本当に世界中の子供たちが、1日に15分誰かから(親であることが一番ですが)読み聞かせなり語り(お話)を聞けたなら、おそらく世界は大きく変わるだろうと、本気で考えている一人です(当然世界ということを口にしてしまうと、現状からして夢のような話だとは、百も承知で言っています)。
そこにはどうしても、現実的な時間の消費、あるいは1日の時間配分のサイクル等が関わってきて、大人の観念や意識に左右されていきます。
忙しさの中に埋没しない、オアシスのような15分の捻出を、本気で考えてみてはどうでしょうか。これは、どの場所においても等しくあっていいものだと思います。
前に様々な学校で、朝の10分間読書というのが盛んに行われた時がありましたが、今はどうでしょう? あれはゆとり教育というものの中でのことだったんでしょうか? 学力重視の方向に再転換された現在の状況では、もう捻出できない、過去のものとなりつつあるのでしょうか? そこのところはよくわかりませんが・・・。
とにかく家庭でも、その10分、15分なりを創り出して行くことは、とても重要なことのように思えてなりません。
幼少期や低学年期には、漢字のドリルや学習としての読み書きよりも、読み聞かせと言うものの担う役割は、大きいのではないのだろうか。もちろん、学習面を否定するものではありません。しかし、子供には遊びや楽しい中から学び取っていくこと、発見していくことが多々あって、それが体感としての学習能力に結びついていくのではないかと(お勉強も、苦痛なものではなく楽しいこととして子供たちに植えつける魔法のようなものがあれば幸いなわけですが)。
私は素人ながらに考えるのです(素人というのは教育者というライセンスを持たないと言う意味です)。子供たちの学習能力、想像力、思考力を高めていくための最良の道は何かと・・・。
教育に格差をつくってはダメだと思います。落ちこぼれを出さない教育を目指すべきです。
よりよい社会の確立は、学力の向上というよりも教育力の向上であり、一人一人の子供の教育水準の底上げではないでしょうか。
教育とはお行儀や公共のマナー等、私たちが社会人として最低限に見に付けていく本来の道徳意識も含まれているのだと思います。各教科の学習だけではないと思います。
理想論や夢物語を話しているつもりはありません。今何が本当に大事なことかを私なりに真剣に考えているつもりです。その上で出来ることはなんだろうかと・・・。
極端から極端に走らない柔軟性を身に付けて、メンタルな面において、強く豊かな子供たちを育て上げていくのも、立派な教育だと考えるのですが・・・。
子供には子供の時間というものが流れています。いや、かつてはあったというべきでしょうか。今は大人の社会の時間の仕組みを、子供たちにも押し付けているように思えてなりません。
かつて、大人の世間があるように子供には子供の世間というものがあって、その領域を侵さないという暗黙のルールが、大人の世間にはあったと思います。
それも一つの文化として私たちは共有してきたはずなのですが・・・。
まずは子供の目線に立って、伴に楽しむ1日15分の読み聞かせの時間、創り出して見ましょうよ。もちろんとっくにやっていると言われる方もおありでしょうが、この15分はどの時間にも匹敵しない、違う流れを持った15分です。
読み聞かせや読書は、決して時間の消耗や浪費ではありません。目には見えない蓄積と構築なのです。