瞑想と精神世界

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玉城康四郎氏の覚醒体験(3)

2019年07月18日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(3)である。

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 玉城康四郎氏については、すでにその若き日の至高体験をその(1)で、また、最晩年、「七十八歳の十二月の暮れ、求め心がぽとりと抜け落ちて以来、入定ごとに堰を切ったように、形なき「いのち」が全人格体に充濫し、大瀑流となって吹き抜けていく」という体験を、その(2)に紹介した。
 しかし、氏の「仏道を学ぶ」という求道記のなかには、78歳以前の晩年にも、以下のような記述がしきりに見られる。氏にとっては、それらはまだ徹底しない体験だったのだろうが、ここにその一部を収録して少しでも多くの方に読んでいただく価値は充分にあると思う。以下も『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版)よりの収録である。

七十歳 ( 昭 和 六十一年 )
 何とも表現できぬバック・グラウンドの強烈な力、全人格体を背後から射抜き、全人格体、内部から震え出す。ビッグバン以来、今初めて、ダンマ、この人格体に開き初めぬ。

 意識の裏に体があり、体は宇宙に直結する。意識がだんだん問題でなくなり、確かなものが、宇宙から外へと伝わってくる。禅定の姿はいろいろ変わるが、変わらぬものは、ますます確かなものへ と方向づけられていく。
 入定……煩悩なく、悟りなく、解脱なく、生死なく、涅槃なし。然れども、在るなり、動くなり、 働くなり。
 入定……太陽、我を撲滅して、虚空果てなきが如し。我なく、全人格体なく、解脱なく、煩悩なく、 生死なく、涅槃なし。しかも、「在る」のでもなく、「動く」のでもなく、「働く」のでもなけれども、一切の想念を打ち亡ぼして、在らしむるなり、動かしむるなり、働かしむるなり。

  業熟体の根っこが開(あ)いてきた。ブラック・ボックスでなくなってきた。どこまでも開いていく、毘盧遮那仏が果てしなく根づいている。何と不思議な全人格体であろう、全人格体が不可思議を満喫している。

七十五歳(平成二年)
 入定……全人格体が、物理的仕組みまで、如来によって改造されつつあり、魂そのものが、無条件に如来に導かれていく。
 
入定……業熟体に穴あく。懸命に集中すればするほど、穴が確かなものになっていく。それこそ、 ダンマ・如来の噴き出る穴。  
  
 入定……阿弥陀如来、仏国土に誘い給う、薄明の清澄な宮殿に入りたるが如し、荘厳警えようもなし。
 
入定……如来、通徹し給う。ただひたすら如来を憶念す。憶念すればするほど、全人格体、法熟す。 二十五年前、禅宗の坐禅に訣別れて、ブッダの禅定を学び始めてより、今ようやく自己自身の根本問 題、融けつつあり。
 
一大眼光、透徹。ブラフマン徹透。眼光ただ未来界を見透す。これまでの禅行者のなかに、なお大悟に固執している誤りのあることが分かる。
 
禅定のなかで、業熟体の底なき底から、未知の混沌が、生々と「いのち」となって噴出する、どこまで も、どこまでも。いったいどうなるのだろう、興趣まさに津々。
  大宇宙の、底知れぬ、ただひとつの穴より、噴きあがる「いのち」そのものよ、全人格体、五体投地せり。
 
宇宙の「いのちそ」のもののなかに入定しているうちに、すんなり、率直に、「われは宇宙の子なり」という思い、顕わになり、やがて「いのち」そのものが、深々と、循々と伝わり、ついに通徹しつづけていく。
 
入定するや、突如、宇宙そのものが顕わになり、一切が開放され、開放という思いも消え、動態そ のままという外はない。全境地が活動そのもので、あらゆる細胞が赫々と開け切っていく。どこに も暗がないばかりか、光のイメージも消える。Dynamic Development Itself.
 
大黙の、底よりいづる、金剛戒、わが格体を突きやぶりたり。
 この己を、ずーっと戻してみると、おのずからにして、おのずからなる「いのち」そのもの、果てしな き無量寿にいたる。 この世に存命中に、己とブラフマンを軸とする科学的宇宙の解明が目論まれていたが、今やその基本線が明らかになろうとしている。 己の欲する所に従って、ダンマ離れざるのみならず、欲する所を尽くせば、尽くすほど、ダンマ全徹し、体通す。大いなる冥定、杜絶なき動態。


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