瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■末那識

2004年11月20日 | 読書日誌
竹村牧男の『知の体系・迷いを超える唯識のメカニズム』を読んでいる。これまで唯識関係のかなり多くの入門書や解説書を読んだが、唯識の最も根底となる考え方を分かりやすく解説しているという意味では、これがいちばんかなという感じをもった。

それにしても、どんな解説書を読んでも、これまで一度も接した記憶のない述語の三つや四つにお目にかかるのにはちょっと驚く。この本でも唯識の難解さを「その一つの要因は、すべて述語で構成されているとうことにあると思います。これは、哲学として、一つ一つの言葉の概念を明確に定義して、その言葉のにそって語るからだ」と説明していた。煩瑣で厳密で詳細な多くの述語で体系化されいるから、解説者がそのどこを中心に切るかで、お目にかかる述語にもかなりの違いが出てくるということだろう。

久しぶりに唯識の本を読んで、今回いやに印象に残ったのは、末那識のことだった。意識とちがって、睡眠時もふくめいつも、どんな時でも意識に気づかれずに「我がある、我がある」と自我を執している心、それが末那識だ。意識では、永遠不滅の我とまで考えて執しているわけではないにしても、生まれてから今に至るまで、変わらない自我はあるという前提で日々生きているわけで、よく点検して見ると、結局、常住なるもの、不滅なるもととして、我に執しているようだ。末那識の深層からそのように執している自分。にもかかわらず、永遠不滅の我などとこにもなく、すべては一瞬一瞬生滅を繰り返しているという真実。

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