瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

沢木興道

2007年02月17日 | 読書日誌
久しぶりの書き込みとなった。ずっとサティも低調で、とくに書くべきこともなかった。

今日、書き込む気になったのは、最近読んだ『沢木興道聞き書き・ある禅者の生涯』が印象深かったからである。かなり昔に買った本だが、ふと読んでみる気になった。読み始めて夢中になった。

ガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』の中でいちばん印象に残り、度々思い出すのは、次のような言葉である。

「精神的な探求とは実は死の探求であり、喪失の探求です。多くの人が、開悟を求めて精神的な探求を始めます。が、真の精神的覚醒とは何もかも失うことを通して得られるものなのです。」p317

「何もかも失う」は、「何もかも手放す」と言い換えるもできるだろう。そしてほとんど「何もかも手放す」生き方を貫いたのが沢木興道だった。

「仏法は餌食拾いの方法ではない。自分の本質が生きる生き方である。もしも食が授からなかったら食わずに死ぬという覚悟が、そのころからできかけた。」

その覚悟ができかけたというのは、18歳のころだという。そして彼は自分の半生を次のように振りかえる。

「食わされれば食う、食わされなければ食わぬ。衣類も着せられれば着るが、自分では着ぬ。一切生活を追い求めることはしないというのが、わしという人間の日常である。『ただ真っ直ぐむこうを向いて行くばかり』というのが、これまでのわしの一生であったが、今後もそうであろう。」

この本を読むと、沢木興道という人はこういう生き方を実際に貫いた人だということがよく分かる。金や名誉や地位といった、「自己」拡大のための道具立てに一切執着せず、ただひたすら「真実」のためにのみ生きる。そこに本当の修行の姿があると、最近わたしも切実に思う。

結局人は、すべてを失って死んでいかなけれならない。しかし、すべてを失うから、一切が虚しくなるのではない。逆に、すべてを失うことが実感されればされるほど、本当に大切なものが見えてくるのだろう。

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