瞑想と精神世界

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「怒りと恐怖」の夢・再び

2006年10月02日 | 夢日記
◆昨日、『グレース&グリッド』ケン・ウィルバー(春秋社)について、この日記に書いた文章を読み直していた。今年5月23日付けの日記に、自分で次のような引用をしているのを読んで、驚いた。

『‥‥自我という分離した自己感覚は、認識によって構成されたものというだけではなく、感情的なものでもあるということ。自我は、概念によってのみではなく、感情によっても支えられているということだ。またこの教え(『奇跡のコース』)によれば、自我の主要な感情は、怒りを伴う恐れでもある。
 ‥‥本来つぎめなのい意識を、主体と客体に、自己と他者に引き裂くときはいつも、その自己は恐怖を覚えるということだ。理由は単純。今やあまりに多くの「他者」がいて、それがみな危害を加える可能性ともっているからだ。‥‥この恐怖から怒りが生じてくる。』

ここにも「怒りと恐怖」という語句が出てくることはすっかり忘れていた。最近の私の夢は、「怒りと恐怖」がテーマになっていることが多いことは、何回か触れた通りだ。

◆この文章がきっかけとなってか、明け方また「怒りと恐怖」の夢をみた。

子どもの頃、家の裏庭の向こうは、東京にはめずらしく古いわら葺屋根の家であった。夢の中で、その家の妻らしき人が、ひどい怒りの声をあげている。人の心にぐさりと来るようなやりきれない怒り声だった。それが延々と続く。夫も家族もこれではやりきれないだろうなと思う。

その怒りの主がもし私の家にまで侵入してきたらと想像しただけでも恐怖が走った。私は、恐怖にかられ必死で裏木戸のカギを閉めようとした。しかしカギがなかなか閉まらない。何とカギが反対側、つまり外側についているのだ。板の隙間から手を伸ばして閉めようとするのだが、思うように閉まらない。その焦りと恐怖の中で目覚めた。

かなり強い恐怖の体験だった。夢の余韻の中で恐怖と怒りを同時に感じていたようだ。恐怖に怒っている自分を感じていた。恐怖の中で孤独だった。

前回の夢では、怒っていたのは私の「影」であったが、今回は私の「アニマ」が怒っていたのか。それにしても裏木戸のカギが外側についていたとは。つまり、意識の場に侵入してくる怒りを、もはや自分では抑えることが出来ないということか。

しかし、私にとっては抑圧されていた怒りが噴出してくることは、喜ばしいことだ。それを「自我」がどれほど恐怖しようとも。


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