瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

無意識的なおしゃべりに気づく

2022年11月29日 | 瞑想日記

写真は、11月19日に皇居外苑にて撮影

瞑想の段階

自分のブログのアクセス解析を見ていたら、私が2006年2月書いたこのタイトルの記事にアクセスがあったことが分かった。どなたかが、検索エンジンを通して訪れたのだろうか。16年も前に書いた自分の文章、もちろんこんな記事を書いたことを全く覚えていなかったが、読んでみると、こんなことを書いていたのかと、新鮮な気持ちで読めた。

「瞑想の修行を始めて最初に気が付くのは、自分の心が、ということは自分の人生というものが、ほとんど無意識的なおしゃべりで占められているということである。‥‥いずれにしろ、瞑想の初期においては、瞑想の経験はまるで映画のようである。あなたはすわって、いろいろな幻想や概念的な思考やらが、眼の前を、意識の前を通り過ぎていくのを見ている。しかしすべてのポイントは、これらに気が付いている、ということである。

‥‥こうして公平に、すべての思考、幻想、観念、イメージをじっと見つめていると、あなたは次第にそうした思考やらイメージやらの無意識的な影響から解放されていく。あなたはそれを見ている。‥‥あなたは、そうした思考やら観念やらイメージに頼っている分離した自己感覚から、解放されていく。言い換えれば、あなたはエゴから自由になっていく。これがスピリチュアルな次元の初めの段階であり、そこでは慣習となっているエゴは「死」に、高次の意識が「復活」(再生)する。」240(「瞑想の段階」より)

これは、K・ウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』からの引用だが、表現の的確さに驚く。そして自分がいまだに「無意識的なおしゃべり」から解放されていないことにも驚く。ただ、日常生活のなかで自分の「無意識的なおしゃべり」に気づく度合いは、少しは多くなっているかなとも感じる。瞑想する時間が少なかったり、ほとんどしなかったりの時でも、歩いたり雑用したりしている時に、つねにこの内的なおしゃべりに気づこうと意識することはできる。その意味でこのウィルバーの文章は、とても刺激的だった。

この引用のあとに自分なりの考察をしているのだが、それもまた刺激的であった。こうして過去に自分が書いたものをきっかけに文章を綴ること自体、なにか新鮮で楽しい。今後もやってみたい。




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