瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

すべてを失う覚悟があるか

2007年01月09日 | 読書日誌
一方であれもこれも失いたくないと両手一杯に抱え込み、他方でさとりを求めても、それは所詮は無理な話なのだ。条件付きのさとりなどありえるはずがない。すべてを失う覚悟ができ、実際にすべてを失ったときに始めて、開かれる地平がある。

本当に私は、何もかも失う覚悟ができているのか。それは、自分の死に直面し、その事実を受け入れることと同じだ。死にゆくときにすべてを失うのと全く同様に、今この瞬間にすべてを失うことが本当にできるのか。

とても「できている」とは言えない。両手に一杯抱えこんで、手放したがらい自分がいやというほと分かる。

思い出すたびに自分に問おう、「すべてを投げ出す準備ができているか」と。いずれはすべてを打ち捨てて、一切の「物語」を諦めて死んで行く。それと同じことを今この瞬間にできるのか。それが問われている。

ガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』を読んで、もっともずしりと来た一連の言葉は次のようなものであった。

「自分の苦悩の本当の原因が何を見つける意思を持つとき、あなたの人生の何もかもが変化する可能性が生まれます。ここでほとんどの人は心を閉ざし始めます。自分の人生の中の素敵な部分を失うのが嫌だからです。ほとんどの場合、人は苦悩だけを手放したがります。あなたの苦悩の原因を見つめるために何もかも失う心の準備ができていなければ、あなたを真実へと誘う声に従うことはできません。」p206

「今この瞬間、もしもあなたが求めることをすべて諦め、二度と決して、何ひとつとして、手に入れる可能性はない、と諦めたならば、あなたは何も必要としないことの無上の喜び、ただあるがままであることの至福感を味わうでしょう。」p231

「もしほんの一瞬、すべてを失うという経験を、本当に何もかもを失うという経験をあなたが自分に許すとしたら、あなたは、常に変わらず存在しているものの過激な真実が見えるはずです。」p245


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2 コメント

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壮絶な念いを捨て去って (SRKWブッダ)
2007-01-10 00:12:44
従属することの無い人はたじろがない。 はからうことの無い人はおののかない。 かれは、自分ならざる何ものにも依拠せず、自らに依拠して道を見出し、歩んでいるのである。 かれは、ひとを迷わせる不当なる思惟の根本たる順逆の想いを離れ、心は(自分ならざる)何ものにも縛られていない。 かれは決して平らかではない道を平らかに歩み行くが、その足取りは軽やかである。 そこには、いかなる危険も存在してはいない。

こころある人は、何を為すにせよ壮絶な念いを捨て去って、つねに平静の中にあって円かなやすらぎを追求せよ。 決して他の人や自分自身をけしかけてはならぬ。 けしかけられてはならぬ。 心が何かに追い立てられることが無いようにせよ。 他の人と語らうときにも、自分自身に問いかけるときにも、重い語り口を避けて晴れやかな心で語らうべきである。 心の中にわき起こるざらりとしたものを取り除いて、憂いを去り、心すこやかなる観を為せ。 やすらぎの探究は、究極(=覚り)に達する以前においてもつねに人の心を安んじるものなのである。 賢者は、ことわりを知って、もともと存在する筈のない道中の不安を自らの明知によって払拭せよ。

***
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自由と安らぎと光 (クシャトリア)
2007-01-10 17:37:24
コメントが一件、おそらくSRKWブッダさんだと思ったら、やはりそうでした。

お久しぶりです。以前、SRKWブッダさんが、いかなる覚者、聖人、の言葉でもそのまま受け取ってはならない
云々おっしゃってましたが、あれにずいぶんと救われました。ありがとうございます。

その意味は、つまり覚者がいうそれは、その結果の状態を言葉にしているに過ぎないので、それを重要だと捉えてしまうとその瞬間に隔たりが生じてしまう。それを実行しようとしても瞬時隔たる。つまり仏典のように無意味ということじゃないかなと。知る必要は本来ない。自然に作用する内面の酵母が膨らみに任せる、起きていても歩いていても猛烈に坐っていればいいんじゃないでしょうか。違うかな。

切って切って切り尽くす。単にそれしかないんでしょう?目を閉じたら開放される自由、内に、内に、内面に自由がある。この内面の自由と安らぎかな?まだよくわかりません。
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