瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

成長という生涯の課題3

2012年10月05日 | 瞑想日記
成長という課題のために私が取り組んだ主なものは、心理療法と瞑想だ。

20代の後半にロジャーズ派のカウンセリング理論に出会い、自分が追い求めているものがここにあると、強い共感を覚えた。クライエントの成長とカウンセラーの成長とが、同じ自己理論、自己受容の理論で語られていた。患者の自己受容が充分でないと周囲の人々や社会環境をバイアスをかけて見てしまい、社会の中で生きずらい。カウンセラーは自己受容が深まるほど、そういう患者のあるがままを受容して聴ける。クライエントもカウンセラーも成長という方向性は同じなのだ。

30代前半までの数年間、多くのワークショップに参加してカウンセリングやそれ以外の心理療法を学んだ。その体験は、高校での教育相談の仕事でも生かし、深めていくことができた。

一方、心理療法に関心をもったころから、その成長理論が仏教でいう「悟り」と一直線上でつながっていることに気づき、仏教への関心も深めていった。仏教でいう座禅、一般的には瞑想が、魂の成長にとって大切な要素であることは知っていたが、本格的な実践はしていなかった。50代の前半になって原始仏教の流れをくむ上座仏教のヴィパッサナー瞑想を知り、その方法論が心理療法と深く共通するという事実に感動した。それ以来5年ほどの間に、ヴィパッサナー瞑想の10日間合宿に7回ほど参加し、日々の生活の中でもかなり集中的に修行をしていた時期があった。

その頃の日々の修行や気づきは、このブログに詳細に書き綴っている。また、瞑想合宿の報告は以下のサイトにまとめてある。

瞑想世界の旅

7回目の合宿中に軽い脳梗塞で倒れ入院したのをきっかけに、それ以後は合宿に参加していない。日常生活の中での修行も以前ほど熱心ではなくなった。しかし瞑想合宿はきわめて中身の濃いもので、参加するごとに大きな気づきや成長があった。成長とは、ある意味で自分の無意識との出会いである。抑圧していた自分の影の部分にどれだけ出会えるかに成長、すなわち自己受容がかかっている。自己受容とは、受け入れがたかった自分の無意識を受け入れていくことだともいえる。ヴィパッサナー瞑想は、抑圧していた自分の無意識への気づきを促す、きわめてシステマティックな優れた方法である。

7回の瞑想合宿の中で体験したことの一部でも紹介できればと、久しぶりに読み返してみた。しかし前後の流れが分からないと、一部だけ取り出して紹介するのは難しいと感じた。一つだけヴィパッサナー瞑想の専門用語なしで語った気づきの部分があるので紹介しておく。合宿の最終日に近い夜中に目覚めた時の体験だ。

「9日目の夜中、午前2時過ぎだったろうか、あるいは3時に近かったかもしれない。足の先が寒くて目覚めた。毛布からはみ出していたらしい。目覚めてとくに何を考えていたという記憶はない。急に何かがこみ上げて来たことだけを覚えている。

『これまでずっとたった一人で苦しんできたんだな』と思った。一瞬、これまでに経験したことのない底冷えるような孤独と辛さを感じた。そして一度だけ嗚咽した。すると体がじわーと弛み、楽になった。ふわーっと溶けていくような感覚だった。気がつくと涙が頬を伝わっていた。何かしら抑圧が解けたという感覚があった。無明の凍りがひとつ溶けた。そのうれしさが弛んだ体に広がっていた。

すでに触れたが、若き日に友人に攻撃されて深く傷ついた。それに関連した別の記憶や、それらに共通した自分の根深い劣等感が見えはじめていたことも触れた。その抑圧の凍りが、ふいに目覚めた夜中の布団のなかで溶解したようだった。」(「天女(2)」

こうした抑圧からの解放という体験が、合宿中、瞑想中に何度か体験されることが多く、それによって自己受容が進んでいく。私自身、読み返してなつかしく、また本格的に瞑想を再開したいという思いが強くなった。