瞑想をやったらやったで、エゴの思考は、たえずそれを「自分の瞑想」、「自分の修行」として、出来不出来を一瞬一瞬うれしがったり、がっかりしたりしている。
瞑想が少しうまくいったと感じると、「オッ、うまく行っているぞ、いいな」と思う。これもまた、エゴの自己満足であり、エゴを肥やす糧だ。そう思った瞬間に「思考」、「エゴの満足」とサティを入れる。それらの心の動きを、無限後退しながらサティしていく。
「『私はいつかエゴから解放されるだろう』。そう言っているのは何者か? エゴだ。エゴからの解放は決して大それた偉業ではなく、ちょっとした仕事にすぎない。必要なのは自分の思考と感情に――それが起ったときに――気づくこと。これはしっかりと『観察する』ことで『行動』ではない。」(『ニュー・アース』P131)
「成長したい、覚醒したい」と思うのは、エゴの思考によるのだから、修行や瞑想の結果に、そのつどエゴの思考が伴うのは当然といえば当然。大切なのは、当然の思考と感情を「無限後退」しつつキャッチしていくことだ。
あきらめずに続けていると、思考から気づきへの変化は、確実に起るのだと思えるようになった。
瞑想が少しうまくいったと感じると、「オッ、うまく行っているぞ、いいな」と思う。これもまた、エゴの自己満足であり、エゴを肥やす糧だ。そう思った瞬間に「思考」、「エゴの満足」とサティを入れる。それらの心の動きを、無限後退しながらサティしていく。
「『私はいつかエゴから解放されるだろう』。そう言っているのは何者か? エゴだ。エゴからの解放は決して大それた偉業ではなく、ちょっとした仕事にすぎない。必要なのは自分の思考と感情に――それが起ったときに――気づくこと。これはしっかりと『観察する』ことで『行動』ではない。」(『ニュー・アース』P131)
「成長したい、覚醒したい」と思うのは、エゴの思考によるのだから、修行や瞑想の結果に、そのつどエゴの思考が伴うのは当然といえば当然。大切なのは、当然の思考と感情を「無限後退」しつつキャッチしていくことだ。
あきらめずに続けていると、思考から気づきへの変化は、確実に起るのだと思えるようになった。