司馬遼太郎、空海の風景(上・下巻)を読む:
今日、これだけ、旅が、何処へでも簡単に、出掛けられ、しかも、ネットで、欲しい情報に、簡単にアクセス出来る時代からすれば、8世紀の時代に、航海術ですら、満足に発展していない頃に、命懸けで、当時の世界的文化的な大都市に、海外留学しにゆくが如きことは、おおいに、大変であったことは、容易に、想像されよう。
目的地へ、きちんと、到着した最澄と異なり、福建省の土地に漂着、辿り着いてしまった空海が、皮肉にも、彼の地で、語学の才と当時の文化的知的な教養である書道(五筆和尚という称号)・文章道・漢詩・文才に恵まれ、奇跡的に、これを活かすことになること、誠に、皮肉な廻り道であるものの、長い人生から、見た時には、おおいに、興味深いものがある。
その生い立ち、渡航目的、そして、何より、語学と書道の才に長けた空海の思想的な成り立ちと時代背景、そして、最澄や当時の様々な僧達との交流と政治的な背景を、1200年以上に遡って、考証しながら、構想・想像するという作業は、並大抵なエネルギーではない。
しかも、それを一日本の仏教の歴史だけに止めずに、広く、中央・東アジア・インドなどとの思想的な交流とも、絡めて、当時の密教の伝来を考察する作業は、単に、空海という一人の宗教僧の思考方式だけでなくて、広く、当時の世界文化史的な視点からも、興味深いモノがある。
改めて、そうした視点から、今日の中央アジアの歴史や中近東での出来事を再考察するときに、仏教の伝来とその東の果ての国である日本という国の思想的な在り方に、深く、考えさせられる。
15歳の時に、讃岐の国を出奔して、778年に桓武天皇時代に、平城京へ登った。
釈迦没後56億7千万年後に出現する弥勒菩薩を待つのではなく、弥勒が常住し、説法をし続けていると謂われる兜率天(とそつてん)にこちらから出掛けて救われようとする機能性を作り上げた。
18歳で、仏教・道教・儒教の盛衰を踏まえた優越論を戯曲風に論じた、三教指帰(さんごうしいき)を著し、儒教は、世俗の作法に過ぎないと断じる。
官吏になる途である大学の学生(がくしょう)を捨てて、官僧としてではなく、私度僧として、仮名乞児(かめいこつじ)として、入唐するまでの空白の7年間を旅に出て、「私は仏陀の勅命を奉じて兜率天への旅に登っている者である」と称し、山野を修行して歩く。
7歳年上の初めからエリート官僧たる最澄とは、そもそも、出発点が、異なるのか?
アジア大陸には、生命とは何かという普遍性からのみ考える以上、そこには、時間とか、誰とかという固有名詞もなく、只、抽象的な思考のみで、宇宙を捉え、生命をその原理の回転の中で考え、人間の有する人種やあらゆる属性を外しに外して、ついには、その一個の普遍的な生命という抽象的一点に化せしめることにより、物事を考え始める。従って、漢民族が引き寄せられる歴史とか社会的な思考には、印度的な思考法は、かけらほども、入ることはなく、密教の伝授という観点から、広義のみでの漢語・サンスクリッド・梵字、イラン語にも、当時は、学ばなければならなかったのであろう。
二つの系統の密教というモノがあるという。純密と雑密(没体系的なかけらのような形の密教、巫女、外法の徒、山伏など)、現世を否定する釈迦の仏教と、現世という実在もその諸現象も宇宙の真理の現れであるとする密教の創始者は、宇宙の真理との交信の手段として、魔術に関心を持った。魔術・呪文・まじない・陰陽五行説・陰陽道・陰陽師など、後の純密以外の所謂、雑密である。最澄のそれは、不覚にも、それを拾ってしまったことなのであろうか?
虚空蔵求聞持法、という万巻の経典をたちまちの内に暗誦出来るという秘術、真言とはやはり、人間の言語ではなくて、原理化された存在である法身たる如来達が喋る言語で、虚空蔵菩薩という密教仏にすがり、その菩薩の真言を一定の法則で唱えて、記憶力をつけると謂われている。その秘宝を会得することになる。解脱という釈迦とは、逆の道を選ぶことになる。虚空蔵菩薩という自然の本質は、それへ修法者が参入してゆきたいと希い、且つ、参入する方法を行ずる時に、惜しみなく御利益を与えてくれるという。
術者が、肉体を次第に、形而上化してゆくことにより、諸仏の機能の中に身を競り入れ、ついには、その機能を引き出し、それによって、現世の御利益をうるというところで、初めて、宗教的に完結することになる。
求聞持法を行ずるには、場所を選ばねばならず、とりわけ、宇宙の意思が降りてきやすい自然の一空間であらねばならないと、それが空海にとっては、阿波と土佐の地だったのかも知れない。室戸崎洞窟での明星が、口に入るという超自然的体験も、決して、密教の概念には、無縁ではないのかも知れない。
密教の断片に於いて、科学の機能を感じてしまった空海と後世が知ったつもりでいる科学なり、自然の本質、とりわけ、原子力やら、津波や地震といった自然災害の脅威を間近に体験した我々の考え方は、どちらが、果たして、1200年も経過した今日、本当なのであろうかと司馬遼太郎は、問いかけている。(むろん。著者は、東日本大震災は、経験せずに、他界してしまっているが)のちの世の平安末期の厭世観的な出家ではなくて、むしろ、肉体と生命を肯定する密教に直進し、解脱を目的とする途とは別のものを追求してゆく。
咒(しゅ)という概念を、毒虫を食ってしまう孔雀の悪食を引き合いに出して、司馬は、説明する。それは、古代インドの土俗生活に於いては、生命を維持する不可欠なもので、苛烈な自然と会話する為に、自然の一部と考えられていた一種の言語であっても、人語ではなく、むしろ、密語の一部でもあり、人間がその密語を話すとき、自然界の意思が響きに応ずるが如く動くと謂われている。自然と人間は、対立するモノではなくて、人間の五体そのものが、既に、小宇宙であり、この小宇宙の人間が大宇宙にひたひたと化してゆくことも可能であり、その化する時に媒体として、咒(しゅ)が、あるのであると、孔雀の鳴き声には、それが、含まれていると、人間がこの密語を発すれば、孔雀に化すると、何か、動物の言葉を話すドリトル先生のようでいて、面白い。
インドに於ける咒(しゅ)の歴史から、古代アーリア人、バラモン教、土俗的な雑密・純密の考察を経て、いよいよ、密教的な宇宙に於ける最高の理念である大日如来なる絶対的な虚構の設定に移ってゆく。
無限なる宇宙のすべてであると同時に、存在するすべてのものに、内在し、舞い上がる塵の一つにも、内在し、あらゆる万物に内在しつつしかも、宇宙に普く充ち満ちている超越者でもあると、しかも、宇宙を過酷な悪魔のようなものとは、考えず、絶対の叡智と絶対の慈悲で捉えて、釈迦のように、敗北感を有することなく、絶え間なく万物を育成して、無限に、慈悲心を光被して止まないという思想で、こうした純粋密教こそが釈迦教の一大発展形態ではないかと考えるにいたる。この空海の陽気さというものは、何処から、来るのであるか?
釈迦以前のインド思想、から、釈迦以後を経て、華厳経の成立へ、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、禅的な武道の中での「静中動有り・動中静有り」という思考法とも、関連づけられる。万物は、相互にその中に一切の他者を含み、とりつくし、相互に無限に関係し合い、円融無限に旋回し合っていると説かれ、毘盧舎那仏の悟りの表現でもあり内容でもあると、
華厳経では応えてくれなかった答が、大日経には、あるのだろうか?即身成仏の可能性とご利益を引き出してくれる法とは何か?そして、どのようにすれば得られるのか?大日経にあっては、華厳のそれより、更に、より一層宇宙に偏在しきってゆく雄渾な機能として毘盧舎那仏は、登場し、人間に対して、宇宙の塵であることから、脱して、法による即身成仏する可能性も開かれていると説く。
奈良南都六宗にみられたような人間の本然として与えられた欲望を否定する解脱だけをもって、修行の目的とするものとは、異なる方向性、有余涅槃と無余涅槃(=死)をも止揚しうる境地へ、向かう。死よりも煩悩や生をありのままに肯定して、好む体質だったのであろうか?大日経は、文章的にも難解で、サンスクリット語で書かれていて、この不明な部分を解読するためにも、漢語だけでは、不十分で、いよいよ、入唐を決意することになる。
奈良六宗に対する「論であって、宗教ではない」という最澄の痛烈な不満、経典は研究すべきものでなくて、声を上げて読誦すべきもので、その声の中に、呪術的な効果があると、読経と止観という瞑想行の必要性、華厳経の注釈書を読んでいたときに、法華経にぶつかる。体系としては、般若経の空観(くうがん)という原理を基礎にして、数字の零(空)にこそ一切が充実している、宇宙そのもので有り、極大なるものであり、同時に、極小でもあり、全宇宙が含まれていて、そこでは一大統一が矛盾なく存在していると、説かれる。
空海は、天台は、宇宙や人間はこのような仕組みになっているという構造をあきらかにするのみであり、だから、人間は、どうすれば良いかという肝心な宗教性において、濃厚さに欠けているとのちに、やかましく、議論することになる。
六世紀半ばでの仏教の伝来を考えるときに、玄奘三蔵が、インドへ経典収集の大旅行を敢行してから、或いは、それ以前のバラモン教や拝火教でも、現地の言葉(言語)というものを、何らかの形で、輸入言語・飜訳語・造語されることになることを、今日、忘れがちである。その意味で、サンスクリッドだけでなく、イラン語、中央アジアや印度・ネパールなどの言語も、改めて、その当時の造船・航海術、通信網やら交通の発展程度、当時の技術も、よくよく、念頭に入れておかなければならないであろう。
しかしながら、当時の人々の考え方というものが、今日の我々と根本的に、1000年も2000年も経過したところで、おおいに、隔たりがあるとも、思われない。形而上学的な宇宙論も、一神教も多神教も、旅をするという心も、外国語を学ぶということも、どれ程の違いがあるのであろうか?そう考えると、四隻の遣唐船のうち、運良く、辿り着けた二隻の船に乗り合わせた二人の運命は、当時の航海・操船技術を考えると運が良かったということなのであろうか?それとも、幸運だけでは説明しきれない何ものかがあるのかも知れない。
ヒト・モノ・カネ・情報では無いが、人脈と資金、写経ですら、アルバイトや専門の僧侶雇わなければならず、大変なプロジェクトであることが分かる。サンスクリットの原語を朗読する者、唐語・漢語に飜訳する者、それを整えて文章化する者、校正し直したり、議論したりしながら、何百人という専門家や学僧が関わることになる訳である。印刷技術が発達した今日では、いかにも、当たり前に、経典自身が、印刷されていると錯覚しがちであるが、当時の写経という行為を考えれば、或いは、つい100年も前ですら、本自体が、人の手から、手へと、書き写されていったことも又、事実である。それを考えただけでも、文化の伝来、その基礎となるべき本や、経典ですら、コピーをベースに、或いは、飜訳・造語を経て、行われていることに、改めて、思いを巡らさなければならない。それ程までに、多大な時間と人的なエネルギーが必要とされていたことであろうし、それは、換言すれば、お金がかかっていたと言うことにもなりえようか?
20年と云われる留学期間をあっさりと2年ほどで、終えて、帰国することになるわけであるが、長安での漢民族ではない不空から恵果へと伝授される密教の極意との出逢い、イラン、ペルシャ、回教徒、景教(ネストリウス派の基督教徒)、マニ教、インド僧、ラマ僧、中央アジアとの異文化・異教徒、異国のウィグル族の商人達との出逢い、謂わば、大いなるシルクロード経由での文明論・宗教観との激突という風景が、今日からでも、容易に、想像されよう。一体、現地では、どんなものを食べて、どんな言葉で、どんな人物と文化交流していたのであろうか?護摩修行とバラモン教、ゾロアスター教、拝火教との関連性は、どんなところから、影響し合ったのであろうか?
何故、空海は、密教の中に釈迦が嫌悪した護摩を取り込んだのであろうか?印度系の土着宗教であるバラモン教から系譜を引いているといわれるが、単に、バラモンの修法が、高度に思想化されて、火を真理として、薪を煩悩に喩えて、焼却し尽くすという思想的な進化を遂げることになるのであろうか?炎と行者と、その行者の前に佇立する本尊という三者の三位一体性ということが、果たして、身・口・意という三密行を感応せしめるということに繋がるのであろうか?それは、又、後の内護摩・外護摩(観念のなかで、具体的なものを抽象化して清浄にする)という二つの思想に分化してゆくになる。
具体的な世界は、すべて、煩悩の刺激材であるとみて、具体的な世界がなければ即身成仏という飛躍はできず、その抽象的な世界を、一瞬で浄化(抽象化)してしまう思想と能力を身につけることこそ、密教的な作業であると、だからこそ、後年、空海は、護摩をも、思想化してしまって、護摩の火に薪という具体的なもの、即ち、煩悩が、瞬時にして、焼かれて消滅してしまうという(抽象化)を遂げるという、そういう考え方を持つに至るのか?
護摩業とか、雑密に今日でも連綿として、残っているものは、どのように思想化されてきたのであろうか?それとも、思想が何故、風化されて、単なる儀式行為としか、残らなかったのか?
密教には、二つの体系があると云う。一つは、精神原理を説く金剛経系、もう一つは、物質原理を説く大日経系で、前者は、インド僧、金剛智が伝え、後者は、善無良という、これも又、インド僧が伝えたと謂われている。金剛智は、これを不空に、更に、恵果へ、更に、空海へと伝えたわけであるから、成る程、インド僧たる般若三蔵について、空海が、長安ので、サンスクリットを学んだとしても、何の不思議はない。更に云えば、キリスト教の宣教師である景浄とも般若三蔵が深い関わり合いを有するとなると、もはや、大日経の経典を入手するという目的だけではなくて、広い意味での当時の中央アジア・インド・ペルシャ・イラン・唐に至る文化的宗教学的な視点が、実は、密教の誕生には、深く、関わっていたのかも知れない。そう思うと、文化交流というもの、宗教の成り立ちにも、様々な、国籍の錚錚たる異国のメンバーが、広く、深く、何らかの形で、直接的にも、間接的にも、関わっていたことが改めて、再確認されよう。それは、これ程、旅が便利になった今日でも、はるかに、想像を超えるものである。単なる大乗仏教と小乗仏教という二つの流れで、アジアへ、仏教が伝播したという単純な問題ではなさそうである。
しかも、西域人であろう不空:インド僧たる恵果:日本人留学僧である空海という系譜の中で、この二つの異質な流れが、互いに、反撥しあい乍らも、生き身の精神の中に、相克しつつ、この両部を一つに、「両部不二」として、空海の中で、止揚・完結されたという事自体が、驚くべき歴史的な事実なのかもしれない。しかも、その密教は、中国では死滅し、国境を超えて、曼荼羅や経典、秘具も含めて、空海により、日本にもたらされたという事実。その意味でも、精神原理と物質原理との双方からのアプローチとしての密教を考えると、今日の素粒子理論やニュートリノ実験の課題なども、まんざら、素粒子だけの問題ではなくて、宇宙理論、物質とは何から出来ているのかという永遠の課題にも、行き着いてしまうほど、底流に、共通項があるようにも思えてならない。
そう考えると、印を結ぶとか、密語を話すとかも、そういう観点からも、考察する必要があるのかも知れない。
何かの番組で、千日回峰を達成した阿闍梨の様子を見たことがあるが、解脱したような老僧の風貌ではなくて、まるで、極地から生還し立ての冒険家のようなエネルギーに、あふれたような風貌であったことを想い起こす。さすれば、若い時の空海という者も、恐らく、当時は、そんな風貌で、山野を跳び回っていたのであろうか?
話を元に戻すことにしよう。
下巻:
千人もの門弟を有すると云われた、金剛界と胎蔵界の二つの密教の世界観を同時に、修めた恵果和尚、しかも、その人生が終わろうとするまさに最後の僅か7ヶ月前に、空海が現れたというその奇蹟にも近い、偶然性、更には、その後、密教自体が、中国でも、消滅してしまったという事実を考えると、得がたい絶妙のタイミングであろうか。
恵果和尚による法を譲り渡すときに行われる灌頂(結縁灌頂・受明灌頂・伝法灌頂という3種類:)の前での投花の儀式での二度に亘る奇蹟、中央の大日如来の上に、投げた花が落ちる。この二回ともというものも、又、偶然なのか?それとも、必然だったのであろうか?そして、恵果より、大日如来の密号で、本体が永遠不壊で、光明が遍く照らすということを意味する、「遍照金剛」という号を与えられる。
灌頂を受けつつも、僅か三ヶ月で両部の秘密(象徴)を悉く学び、二百余巻もの根本経典も原典・新訳・漢語訳を含めて、これらをすべて、独学で、修得したという離れ業。
天台宗を体系自体を全部、国費で仕入れに渡った最澄とは異なり、空海は、謂わば、私費で、経費も与られずに、密教を一個人として、留学生(るがくしょう)として、請益してしまう。しかも、長安での滞在は、僅か2年に満たないで、本来の20年分の経費をも、惜しげもなく、一挙に、曼荼羅や密具への謝礼や経典写経の経費に充ててしまったのである。そして、帰国のタイミングも、後から考えれば、これを逃していれば、帰国できなかったかも知れないという、奇蹟に近い絶妙なタイミングである。入唐時での偶然の漂着、帰国に際してのタイミングという奇跡的僥倖、幸運の強さ、更に、「異芸、未だ嘗て倫(たぐい)あらず、」と唐僧から謳われた異能は、どこから、培われたのであろうか?生来、その人間が有していた固有の才覚なのであろうか?書道の達人、帰国後の三筆と称せられた嵯峨天皇との関係、或いは、長安での文化人との交流、帰国時での詩文の交換など、入唐に至るまでの現地交渉過程での文章力、漢文作成能力、など、こんな多彩な異能は、どう考えたら良いのであろうか?
帰国後から上京までの謎の期間を、必ずしも経典資料の整理の期間とは考えず、むしろ、自分に宗教的、政治的に有利な環境が醸成されるのを意図的に、待ち望んでいた感があると、司馬は解釈する。桓武天皇の死がその後の最澄の政治宗教上の苦境を徐々に、迫ることになる。天台宗が公認されたにもかかわらず、奈良六宗に対する否定的な立場と彼らからの反感を持たれるという相克を生み出すが、空海は、逆に、むしろ、親近感と排撃することをしなかったという政治状況が皮肉にもやがて、醸成されてくる。
最澄は、宮廷に、一定程度の影響力と旧仏教勢力との対決が不可避であったのに対して、無名に近い空海は、むしろ、逆に、それを有していなかった、そのことが、むしろ幸いしたのであろうか?
最澄は、天台過程を止観業と呼び、密教過程を遮那業と呼び、二つを同格視し、伝法公験という証明書紛いまで発行させたことは、密教を飽くまで、仏教の最高地位に位置づけ、これを教学・筆授ではなく、人から人へ秘伝として伝えようと目論んだ空海とは、密教それ自体に対する考え方で、徐々に、相容れなくなる。最澄が、仏教を人間が解脱する方法を道であると考えて、経典を基礎とした教えに、重きを置き、釈迦から自分はこう聞いたということが書かれた経典を中心に、一つの体系として、これを必要とした。むしろ、奈良仏教には、この体系がないとした。
さて、ここで、鎮護国家という考え方:護国思想という罠:について、考えてみよう。
誰一人として、密教伝来の正嫡という、嘗て入唐した日本人僧が得られなかった栄誉を単なる一留学生たる空海が、与えられたという事実。これは、最澄ですら、否定できない事実であろう。空海は、自分が、遠い異国からやってきた異種・異能の者であるという、人種・国境・身分を超えた普遍的な宗教思想家であるという自負、自意識、日本の矮小性を初めから、自覚していたのかもしれない。仮にそうであるとすれば、世俗との関係性において、皇帝とか、貴族とかを認めていたとしても、その宗教上の思想性の展開については、必ずしも、自身の経験と唐での様々な国との、今で謂う外国人との人的文化交流や生活から、そういう類の階層・身分に固執することはなかったのかも知れない。むしろ、異国での異文化交流や様々な宗教に広く触れ、且つ、言語の段階から、直接触れることで、謂わば、当時のコスモポリタン的な視野に、立脚できたのかも知れない。その意味では、国家護持仏教であるにもかかわらず、必ずしも、国という小さな枠では、守れない視点があろう。後の世での高野山の既得権益化と政治支配者化を考えたときに、宗教家の於かれた政治的・社会的な情勢は、権力による庇護なのか、対立・構想へと突き進むのかが、微妙に、別れるところである。
華厳経の世界を具象化した毘廬遮那仏(大仏)が鎮まっているという東大寺の政治的な位置、
新しいものが、旧いものを駆逐するという考えの中では、何故、共に、外国から入ってきた旧来の奈良仏教も、最澄・空海の新しい仏教も、併存する形が可能なのであったのであろうか?純思想的な、或いは、宗教上の純然たる論争による結着ではなくて、むしろ、当時の経済的、政治的、社会的な理由と取り巻く環境の要因が考えられるのであろうか?
平安朝に於ける藤原氏や薬子の乱や道鏡による政争の影響から、或いは、唐での政争を経験することで、安禄山の乱より、如何にして、自身の思想・宗教を守るのか?影響されることなく、如何に守るのかに腐心したのかも知れない。鎮護は、決して、根本的な鎮護国家仏教へと、空海の場合には、繋がるモノではなかったのではないだろうか?
顕教と密教:顕教とは、外側から理解出来る真理で有り、密教とは、真理そのものの内側に入り込み、宇宙に同化するという業法と理論で、空海は、真言宗という体系を樹立することで、密教が顕教をも包含する最高の仏法であるということを、自ら、体現し、明らかにしようとした。顕教を棄教して、宇宙で唯一の真理である密教を、身体と心で、挙げて服することが、本当に、最澄には、出来るのかと疑い始める。書物による伝授法、経典の借用、写経や筆授は、密教に於いては、あり得ないという空海の立場、師承という形以外に、秘事に類する重大なことを含めて、密教は決して相続されないものである。
泰範という最澄の弟子の改宗というエピソード的な出来事についての考察、:
経を読んで、教養を知ることは真言宗では第二のことで、真言密教は、宇宙の気息の中に、自分を同化する法である以上、まず、宇宙の気息の中にいる師につかねばならす、その師の指導の下で、一定の修行期間が与えられ、心身を共に、没入することによってのみ、生身の自分を仏という宇宙に近づけられ得る。宇宙とは、自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、すべての活動という三密(動作・言語・思惟)を止まることなく、旋回しているが、行者もまた、この宇宙に通じる自己の三密という形で、印を結び、真言(宇宙の言葉)を唱え、そして、本尊を念じ、念じ抜くこと以外に、宇宙に近づくことは出来ないし、筆授では、決して、成し遂げられないと考えられた。最澄は、密教の一部を取り入れようとし、決して、密教そのものの行者になるつもりは決してなかったのではないか?だから、灌頂を受けても、あとは、書物で、密教の体系を知ることが可能であると、考えていたのであろう。最終的には、伝法灌頂を授けずに、程なく、経典を貸すのみで、両者は、その途中の紆余曲折の過程は別にして、結果として、断交状態に近い形になる。
飛白書という奇抜な書体についてである:書というよりも絵に近い、文字によって、筆も変えなければならない。能書は、必ず、好筆を用うと、南帖流の王義之や北魏流の顔真卿らの書風・書聖に話は、移ってゆく:「書とは、自ずから己の心が外界の景色に感動して自ずから書をなすもの」であり、「万象に対する感動が書には、籠もっている」と、更には、「書の極意は、心を万物に散じて心情をほしいままにしつつ万物の形を書の勢いに込める」のであると、「すべからく、心を境物に集中させよ、思いを万物に込めよ」、更には、「書勢を四季の景物にかたどり、形を万物にとることが肝要である」と、何とも、悪筆の自分などは、いつも、PCのタイプの助けを借りなければ、文章を書けないのに対して、誠に、苛烈な容赦ない言葉である。
しかも、その書体自体が、思想的な論理構造にも、何らかの形で、関係しているとまで、云われると、もはや、グーの音も出ないし、おおいに、悪筆を恥じ入らざるを得ない。
空海の書には、「霊気を宿す」とまで云われると、何をや、謂わんであろうか?
自然そのものに、無限の神性を見いだすという考え自体、自然の本質と原理と機能が大日如来そのもので、そのもの自体が、本来、数で謂えば、零で、宇宙のすべてが包含され、その零へ、自己を同一化することこそが、密教に於ける即身成仏徒でも云えるのか?
入定という思想:空海は835年に、紀州高野山にて、62歳でその生涯を閉じる。奥の院の廟所の下の石室において、定にあることを続け、黙然と座っていると信じられている。後年、俗化してしまった高野聖や高野行人や後世の中世半ばの荒廃を思うとき、その思想性の高邁さと孤独性が感じとられる。入定と入滅とは、おおいに異なり、この世に、身を留めて、定に入っているだけであると。一切が零で有り、且つ、零は、一切であると云う立場の空海が、「留身入定」という考え方を、信じながら、なくなっていったとも、考えられず、後世の結局は、言い伝えなのであろうか?「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなむ、」とは!!、「薪尽き、火滅す」と弟子の実慧は、師匠の死を唐のにも、伝えている。
風速計で、風力の速度を知ることが、顕教とすれば、密教は、むしろ、風そのものですら、宇宙の普遍的な原理の一部に過ぎず、認識や近くを飛び越えて、風そのものになる(化ける)ことであり、即身にして、そういう現象になってしまうにしても、それはちっぽけな一目的で、本来は、宇宙の普遍的な原理の胎内に入り、原理そのものに化してしまうことを究極の目的とする。当時の宗教のレベルは、1200年も経った今日でも、誠に、不可思議で有り、「人間の肉体は五蘊(ごうん)という元素が集まっているものである」そうであるが、確かに、般若心経の一句でも、「照見五蘊皆空」(ショウケンゴウンカイクウ)「度一切苦厄」(ドイッサイクヤク)となっている。よくよく、文字の一語一語をしっかりと理解して、読経をしなければならない。まるで、ナノテクか、原子物理学の世界に迷い込んでしまいそうである。それでは、ひとつ、般若心経でも、唱えてみることにするか?さてさて、いよいよ、四国巡礼、阿波足慣らしのまずは、決め打ち準備に、掛かろうとするか!?足許不如意だから、サイクリングで、ゆっくり、ゆくとするか?雨が心配であるが、考えてみれば、雨も又、自然、宇宙の一部に過ぎないのであれば、自分も又、同様なのであろう。そう考えれば、濡れることも当たり前なのであろう。恐るるに足りぬか?でも、やはり、レインコートは、必要かな?一応、リストに入れておこう。
今日、これだけ、旅が、何処へでも簡単に、出掛けられ、しかも、ネットで、欲しい情報に、簡単にアクセス出来る時代からすれば、8世紀の時代に、航海術ですら、満足に発展していない頃に、命懸けで、当時の世界的文化的な大都市に、海外留学しにゆくが如きことは、おおいに、大変であったことは、容易に、想像されよう。
目的地へ、きちんと、到着した最澄と異なり、福建省の土地に漂着、辿り着いてしまった空海が、皮肉にも、彼の地で、語学の才と当時の文化的知的な教養である書道(五筆和尚という称号)・文章道・漢詩・文才に恵まれ、奇跡的に、これを活かすことになること、誠に、皮肉な廻り道であるものの、長い人生から、見た時には、おおいに、興味深いものがある。
その生い立ち、渡航目的、そして、何より、語学と書道の才に長けた空海の思想的な成り立ちと時代背景、そして、最澄や当時の様々な僧達との交流と政治的な背景を、1200年以上に遡って、考証しながら、構想・想像するという作業は、並大抵なエネルギーではない。
しかも、それを一日本の仏教の歴史だけに止めずに、広く、中央・東アジア・インドなどとの思想的な交流とも、絡めて、当時の密教の伝来を考察する作業は、単に、空海という一人の宗教僧の思考方式だけでなくて、広く、当時の世界文化史的な視点からも、興味深いモノがある。
改めて、そうした視点から、今日の中央アジアの歴史や中近東での出来事を再考察するときに、仏教の伝来とその東の果ての国である日本という国の思想的な在り方に、深く、考えさせられる。
15歳の時に、讃岐の国を出奔して、778年に桓武天皇時代に、平城京へ登った。
釈迦没後56億7千万年後に出現する弥勒菩薩を待つのではなく、弥勒が常住し、説法をし続けていると謂われる兜率天(とそつてん)にこちらから出掛けて救われようとする機能性を作り上げた。
18歳で、仏教・道教・儒教の盛衰を踏まえた優越論を戯曲風に論じた、三教指帰(さんごうしいき)を著し、儒教は、世俗の作法に過ぎないと断じる。
官吏になる途である大学の学生(がくしょう)を捨てて、官僧としてではなく、私度僧として、仮名乞児(かめいこつじ)として、入唐するまでの空白の7年間を旅に出て、「私は仏陀の勅命を奉じて兜率天への旅に登っている者である」と称し、山野を修行して歩く。
7歳年上の初めからエリート官僧たる最澄とは、そもそも、出発点が、異なるのか?
アジア大陸には、生命とは何かという普遍性からのみ考える以上、そこには、時間とか、誰とかという固有名詞もなく、只、抽象的な思考のみで、宇宙を捉え、生命をその原理の回転の中で考え、人間の有する人種やあらゆる属性を外しに外して、ついには、その一個の普遍的な生命という抽象的一点に化せしめることにより、物事を考え始める。従って、漢民族が引き寄せられる歴史とか社会的な思考には、印度的な思考法は、かけらほども、入ることはなく、密教の伝授という観点から、広義のみでの漢語・サンスクリッド・梵字、イラン語にも、当時は、学ばなければならなかったのであろう。
二つの系統の密教というモノがあるという。純密と雑密(没体系的なかけらのような形の密教、巫女、外法の徒、山伏など)、現世を否定する釈迦の仏教と、現世という実在もその諸現象も宇宙の真理の現れであるとする密教の創始者は、宇宙の真理との交信の手段として、魔術に関心を持った。魔術・呪文・まじない・陰陽五行説・陰陽道・陰陽師など、後の純密以外の所謂、雑密である。最澄のそれは、不覚にも、それを拾ってしまったことなのであろうか?
虚空蔵求聞持法、という万巻の経典をたちまちの内に暗誦出来るという秘術、真言とはやはり、人間の言語ではなくて、原理化された存在である法身たる如来達が喋る言語で、虚空蔵菩薩という密教仏にすがり、その菩薩の真言を一定の法則で唱えて、記憶力をつけると謂われている。その秘宝を会得することになる。解脱という釈迦とは、逆の道を選ぶことになる。虚空蔵菩薩という自然の本質は、それへ修法者が参入してゆきたいと希い、且つ、参入する方法を行ずる時に、惜しみなく御利益を与えてくれるという。
術者が、肉体を次第に、形而上化してゆくことにより、諸仏の機能の中に身を競り入れ、ついには、その機能を引き出し、それによって、現世の御利益をうるというところで、初めて、宗教的に完結することになる。
求聞持法を行ずるには、場所を選ばねばならず、とりわけ、宇宙の意思が降りてきやすい自然の一空間であらねばならないと、それが空海にとっては、阿波と土佐の地だったのかも知れない。室戸崎洞窟での明星が、口に入るという超自然的体験も、決して、密教の概念には、無縁ではないのかも知れない。
密教の断片に於いて、科学の機能を感じてしまった空海と後世が知ったつもりでいる科学なり、自然の本質、とりわけ、原子力やら、津波や地震といった自然災害の脅威を間近に体験した我々の考え方は、どちらが、果たして、1200年も経過した今日、本当なのであろうかと司馬遼太郎は、問いかけている。(むろん。著者は、東日本大震災は、経験せずに、他界してしまっているが)のちの世の平安末期の厭世観的な出家ではなくて、むしろ、肉体と生命を肯定する密教に直進し、解脱を目的とする途とは別のものを追求してゆく。
咒(しゅ)という概念を、毒虫を食ってしまう孔雀の悪食を引き合いに出して、司馬は、説明する。それは、古代インドの土俗生活に於いては、生命を維持する不可欠なもので、苛烈な自然と会話する為に、自然の一部と考えられていた一種の言語であっても、人語ではなく、むしろ、密語の一部でもあり、人間がその密語を話すとき、自然界の意思が響きに応ずるが如く動くと謂われている。自然と人間は、対立するモノではなくて、人間の五体そのものが、既に、小宇宙であり、この小宇宙の人間が大宇宙にひたひたと化してゆくことも可能であり、その化する時に媒体として、咒(しゅ)が、あるのであると、孔雀の鳴き声には、それが、含まれていると、人間がこの密語を発すれば、孔雀に化すると、何か、動物の言葉を話すドリトル先生のようでいて、面白い。
インドに於ける咒(しゅ)の歴史から、古代アーリア人、バラモン教、土俗的な雑密・純密の考察を経て、いよいよ、密教的な宇宙に於ける最高の理念である大日如来なる絶対的な虚構の設定に移ってゆく。
無限なる宇宙のすべてであると同時に、存在するすべてのものに、内在し、舞い上がる塵の一つにも、内在し、あらゆる万物に内在しつつしかも、宇宙に普く充ち満ちている超越者でもあると、しかも、宇宙を過酷な悪魔のようなものとは、考えず、絶対の叡智と絶対の慈悲で捉えて、釈迦のように、敗北感を有することなく、絶え間なく万物を育成して、無限に、慈悲心を光被して止まないという思想で、こうした純粋密教こそが釈迦教の一大発展形態ではないかと考えるにいたる。この空海の陽気さというものは、何処から、来るのであるか?
釈迦以前のインド思想、から、釈迦以後を経て、華厳経の成立へ、西田幾多郎による絶対矛盾的自己同一ということの祖型であり、禅的な武道の中での「静中動有り・動中静有り」という思考法とも、関連づけられる。万物は、相互にその中に一切の他者を含み、とりつくし、相互に無限に関係し合い、円融無限に旋回し合っていると説かれ、毘盧舎那仏の悟りの表現でもあり内容でもあると、
華厳経では応えてくれなかった答が、大日経には、あるのだろうか?即身成仏の可能性とご利益を引き出してくれる法とは何か?そして、どのようにすれば得られるのか?大日経にあっては、華厳のそれより、更に、より一層宇宙に偏在しきってゆく雄渾な機能として毘盧舎那仏は、登場し、人間に対して、宇宙の塵であることから、脱して、法による即身成仏する可能性も開かれていると説く。
奈良南都六宗にみられたような人間の本然として与えられた欲望を否定する解脱だけをもって、修行の目的とするものとは、異なる方向性、有余涅槃と無余涅槃(=死)をも止揚しうる境地へ、向かう。死よりも煩悩や生をありのままに肯定して、好む体質だったのであろうか?大日経は、文章的にも難解で、サンスクリット語で書かれていて、この不明な部分を解読するためにも、漢語だけでは、不十分で、いよいよ、入唐を決意することになる。
奈良六宗に対する「論であって、宗教ではない」という最澄の痛烈な不満、経典は研究すべきものでなくて、声を上げて読誦すべきもので、その声の中に、呪術的な効果があると、読経と止観という瞑想行の必要性、華厳経の注釈書を読んでいたときに、法華経にぶつかる。体系としては、般若経の空観(くうがん)という原理を基礎にして、数字の零(空)にこそ一切が充実している、宇宙そのもので有り、極大なるものであり、同時に、極小でもあり、全宇宙が含まれていて、そこでは一大統一が矛盾なく存在していると、説かれる。
空海は、天台は、宇宙や人間はこのような仕組みになっているという構造をあきらかにするのみであり、だから、人間は、どうすれば良いかという肝心な宗教性において、濃厚さに欠けているとのちに、やかましく、議論することになる。
六世紀半ばでの仏教の伝来を考えるときに、玄奘三蔵が、インドへ経典収集の大旅行を敢行してから、或いは、それ以前のバラモン教や拝火教でも、現地の言葉(言語)というものを、何らかの形で、輸入言語・飜訳語・造語されることになることを、今日、忘れがちである。その意味で、サンスクリッドだけでなく、イラン語、中央アジアや印度・ネパールなどの言語も、改めて、その当時の造船・航海術、通信網やら交通の発展程度、当時の技術も、よくよく、念頭に入れておかなければならないであろう。
しかしながら、当時の人々の考え方というものが、今日の我々と根本的に、1000年も2000年も経過したところで、おおいに、隔たりがあるとも、思われない。形而上学的な宇宙論も、一神教も多神教も、旅をするという心も、外国語を学ぶということも、どれ程の違いがあるのであろうか?そう考えると、四隻の遣唐船のうち、運良く、辿り着けた二隻の船に乗り合わせた二人の運命は、当時の航海・操船技術を考えると運が良かったということなのであろうか?それとも、幸運だけでは説明しきれない何ものかがあるのかも知れない。
ヒト・モノ・カネ・情報では無いが、人脈と資金、写経ですら、アルバイトや専門の僧侶雇わなければならず、大変なプロジェクトであることが分かる。サンスクリットの原語を朗読する者、唐語・漢語に飜訳する者、それを整えて文章化する者、校正し直したり、議論したりしながら、何百人という専門家や学僧が関わることになる訳である。印刷技術が発達した今日では、いかにも、当たり前に、経典自身が、印刷されていると錯覚しがちであるが、当時の写経という行為を考えれば、或いは、つい100年も前ですら、本自体が、人の手から、手へと、書き写されていったことも又、事実である。それを考えただけでも、文化の伝来、その基礎となるべき本や、経典ですら、コピーをベースに、或いは、飜訳・造語を経て、行われていることに、改めて、思いを巡らさなければならない。それ程までに、多大な時間と人的なエネルギーが必要とされていたことであろうし、それは、換言すれば、お金がかかっていたと言うことにもなりえようか?
20年と云われる留学期間をあっさりと2年ほどで、終えて、帰国することになるわけであるが、長安での漢民族ではない不空から恵果へと伝授される密教の極意との出逢い、イラン、ペルシャ、回教徒、景教(ネストリウス派の基督教徒)、マニ教、インド僧、ラマ僧、中央アジアとの異文化・異教徒、異国のウィグル族の商人達との出逢い、謂わば、大いなるシルクロード経由での文明論・宗教観との激突という風景が、今日からでも、容易に、想像されよう。一体、現地では、どんなものを食べて、どんな言葉で、どんな人物と文化交流していたのであろうか?護摩修行とバラモン教、ゾロアスター教、拝火教との関連性は、どんなところから、影響し合ったのであろうか?
何故、空海は、密教の中に釈迦が嫌悪した護摩を取り込んだのであろうか?印度系の土着宗教であるバラモン教から系譜を引いているといわれるが、単に、バラモンの修法が、高度に思想化されて、火を真理として、薪を煩悩に喩えて、焼却し尽くすという思想的な進化を遂げることになるのであろうか?炎と行者と、その行者の前に佇立する本尊という三者の三位一体性ということが、果たして、身・口・意という三密行を感応せしめるということに繋がるのであろうか?それは、又、後の内護摩・外護摩(観念のなかで、具体的なものを抽象化して清浄にする)という二つの思想に分化してゆくになる。
具体的な世界は、すべて、煩悩の刺激材であるとみて、具体的な世界がなければ即身成仏という飛躍はできず、その抽象的な世界を、一瞬で浄化(抽象化)してしまう思想と能力を身につけることこそ、密教的な作業であると、だからこそ、後年、空海は、護摩をも、思想化してしまって、護摩の火に薪という具体的なもの、即ち、煩悩が、瞬時にして、焼かれて消滅してしまうという(抽象化)を遂げるという、そういう考え方を持つに至るのか?
護摩業とか、雑密に今日でも連綿として、残っているものは、どのように思想化されてきたのであろうか?それとも、思想が何故、風化されて、単なる儀式行為としか、残らなかったのか?
密教には、二つの体系があると云う。一つは、精神原理を説く金剛経系、もう一つは、物質原理を説く大日経系で、前者は、インド僧、金剛智が伝え、後者は、善無良という、これも又、インド僧が伝えたと謂われている。金剛智は、これを不空に、更に、恵果へ、更に、空海へと伝えたわけであるから、成る程、インド僧たる般若三蔵について、空海が、長安ので、サンスクリットを学んだとしても、何の不思議はない。更に云えば、キリスト教の宣教師である景浄とも般若三蔵が深い関わり合いを有するとなると、もはや、大日経の経典を入手するという目的だけではなくて、広い意味での当時の中央アジア・インド・ペルシャ・イラン・唐に至る文化的宗教学的な視点が、実は、密教の誕生には、深く、関わっていたのかも知れない。そう思うと、文化交流というもの、宗教の成り立ちにも、様々な、国籍の錚錚たる異国のメンバーが、広く、深く、何らかの形で、直接的にも、間接的にも、関わっていたことが改めて、再確認されよう。それは、これ程、旅が便利になった今日でも、はるかに、想像を超えるものである。単なる大乗仏教と小乗仏教という二つの流れで、アジアへ、仏教が伝播したという単純な問題ではなさそうである。
しかも、西域人であろう不空:インド僧たる恵果:日本人留学僧である空海という系譜の中で、この二つの異質な流れが、互いに、反撥しあい乍らも、生き身の精神の中に、相克しつつ、この両部を一つに、「両部不二」として、空海の中で、止揚・完結されたという事自体が、驚くべき歴史的な事実なのかもしれない。しかも、その密教は、中国では死滅し、国境を超えて、曼荼羅や経典、秘具も含めて、空海により、日本にもたらされたという事実。その意味でも、精神原理と物質原理との双方からのアプローチとしての密教を考えると、今日の素粒子理論やニュートリノ実験の課題なども、まんざら、素粒子だけの問題ではなくて、宇宙理論、物質とは何から出来ているのかという永遠の課題にも、行き着いてしまうほど、底流に、共通項があるようにも思えてならない。
そう考えると、印を結ぶとか、密語を話すとかも、そういう観点からも、考察する必要があるのかも知れない。
何かの番組で、千日回峰を達成した阿闍梨の様子を見たことがあるが、解脱したような老僧の風貌ではなくて、まるで、極地から生還し立ての冒険家のようなエネルギーに、あふれたような風貌であったことを想い起こす。さすれば、若い時の空海という者も、恐らく、当時は、そんな風貌で、山野を跳び回っていたのであろうか?
話を元に戻すことにしよう。
下巻:
千人もの門弟を有すると云われた、金剛界と胎蔵界の二つの密教の世界観を同時に、修めた恵果和尚、しかも、その人生が終わろうとするまさに最後の僅か7ヶ月前に、空海が現れたというその奇蹟にも近い、偶然性、更には、その後、密教自体が、中国でも、消滅してしまったという事実を考えると、得がたい絶妙のタイミングであろうか。
恵果和尚による法を譲り渡すときに行われる灌頂(結縁灌頂・受明灌頂・伝法灌頂という3種類:)の前での投花の儀式での二度に亘る奇蹟、中央の大日如来の上に、投げた花が落ちる。この二回ともというものも、又、偶然なのか?それとも、必然だったのであろうか?そして、恵果より、大日如来の密号で、本体が永遠不壊で、光明が遍く照らすということを意味する、「遍照金剛」という号を与えられる。
灌頂を受けつつも、僅か三ヶ月で両部の秘密(象徴)を悉く学び、二百余巻もの根本経典も原典・新訳・漢語訳を含めて、これらをすべて、独学で、修得したという離れ業。
天台宗を体系自体を全部、国費で仕入れに渡った最澄とは異なり、空海は、謂わば、私費で、経費も与られずに、密教を一個人として、留学生(るがくしょう)として、請益してしまう。しかも、長安での滞在は、僅か2年に満たないで、本来の20年分の経費をも、惜しげもなく、一挙に、曼荼羅や密具への謝礼や経典写経の経費に充ててしまったのである。そして、帰国のタイミングも、後から考えれば、これを逃していれば、帰国できなかったかも知れないという、奇蹟に近い絶妙なタイミングである。入唐時での偶然の漂着、帰国に際してのタイミングという奇跡的僥倖、幸運の強さ、更に、「異芸、未だ嘗て倫(たぐい)あらず、」と唐僧から謳われた異能は、どこから、培われたのであろうか?生来、その人間が有していた固有の才覚なのであろうか?書道の達人、帰国後の三筆と称せられた嵯峨天皇との関係、或いは、長安での文化人との交流、帰国時での詩文の交換など、入唐に至るまでの現地交渉過程での文章力、漢文作成能力、など、こんな多彩な異能は、どう考えたら良いのであろうか?
帰国後から上京までの謎の期間を、必ずしも経典資料の整理の期間とは考えず、むしろ、自分に宗教的、政治的に有利な環境が醸成されるのを意図的に、待ち望んでいた感があると、司馬は解釈する。桓武天皇の死がその後の最澄の政治宗教上の苦境を徐々に、迫ることになる。天台宗が公認されたにもかかわらず、奈良六宗に対する否定的な立場と彼らからの反感を持たれるという相克を生み出すが、空海は、逆に、むしろ、親近感と排撃することをしなかったという政治状況が皮肉にもやがて、醸成されてくる。
最澄は、宮廷に、一定程度の影響力と旧仏教勢力との対決が不可避であったのに対して、無名に近い空海は、むしろ、逆に、それを有していなかった、そのことが、むしろ幸いしたのであろうか?
最澄は、天台過程を止観業と呼び、密教過程を遮那業と呼び、二つを同格視し、伝法公験という証明書紛いまで発行させたことは、密教を飽くまで、仏教の最高地位に位置づけ、これを教学・筆授ではなく、人から人へ秘伝として伝えようと目論んだ空海とは、密教それ自体に対する考え方で、徐々に、相容れなくなる。最澄が、仏教を人間が解脱する方法を道であると考えて、経典を基礎とした教えに、重きを置き、釈迦から自分はこう聞いたということが書かれた経典を中心に、一つの体系として、これを必要とした。むしろ、奈良仏教には、この体系がないとした。
さて、ここで、鎮護国家という考え方:護国思想という罠:について、考えてみよう。
誰一人として、密教伝来の正嫡という、嘗て入唐した日本人僧が得られなかった栄誉を単なる一留学生たる空海が、与えられたという事実。これは、最澄ですら、否定できない事実であろう。空海は、自分が、遠い異国からやってきた異種・異能の者であるという、人種・国境・身分を超えた普遍的な宗教思想家であるという自負、自意識、日本の矮小性を初めから、自覚していたのかもしれない。仮にそうであるとすれば、世俗との関係性において、皇帝とか、貴族とかを認めていたとしても、その宗教上の思想性の展開については、必ずしも、自身の経験と唐での様々な国との、今で謂う外国人との人的文化交流や生活から、そういう類の階層・身分に固執することはなかったのかも知れない。むしろ、異国での異文化交流や様々な宗教に広く触れ、且つ、言語の段階から、直接触れることで、謂わば、当時のコスモポリタン的な視野に、立脚できたのかも知れない。その意味では、国家護持仏教であるにもかかわらず、必ずしも、国という小さな枠では、守れない視点があろう。後の世での高野山の既得権益化と政治支配者化を考えたときに、宗教家の於かれた政治的・社会的な情勢は、権力による庇護なのか、対立・構想へと突き進むのかが、微妙に、別れるところである。
華厳経の世界を具象化した毘廬遮那仏(大仏)が鎮まっているという東大寺の政治的な位置、
新しいものが、旧いものを駆逐するという考えの中では、何故、共に、外国から入ってきた旧来の奈良仏教も、最澄・空海の新しい仏教も、併存する形が可能なのであったのであろうか?純思想的な、或いは、宗教上の純然たる論争による結着ではなくて、むしろ、当時の経済的、政治的、社会的な理由と取り巻く環境の要因が考えられるのであろうか?
平安朝に於ける藤原氏や薬子の乱や道鏡による政争の影響から、或いは、唐での政争を経験することで、安禄山の乱より、如何にして、自身の思想・宗教を守るのか?影響されることなく、如何に守るのかに腐心したのかも知れない。鎮護は、決して、根本的な鎮護国家仏教へと、空海の場合には、繋がるモノではなかったのではないだろうか?
顕教と密教:顕教とは、外側から理解出来る真理で有り、密教とは、真理そのものの内側に入り込み、宇宙に同化するという業法と理論で、空海は、真言宗という体系を樹立することで、密教が顕教をも包含する最高の仏法であるということを、自ら、体現し、明らかにしようとした。顕教を棄教して、宇宙で唯一の真理である密教を、身体と心で、挙げて服することが、本当に、最澄には、出来るのかと疑い始める。書物による伝授法、経典の借用、写経や筆授は、密教に於いては、あり得ないという空海の立場、師承という形以外に、秘事に類する重大なことを含めて、密教は決して相続されないものである。
泰範という最澄の弟子の改宗というエピソード的な出来事についての考察、:
経を読んで、教養を知ることは真言宗では第二のことで、真言密教は、宇宙の気息の中に、自分を同化する法である以上、まず、宇宙の気息の中にいる師につかねばならす、その師の指導の下で、一定の修行期間が与えられ、心身を共に、没入することによってのみ、生身の自分を仏という宇宙に近づけられ得る。宇宙とは、自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、すべての活動という三密(動作・言語・思惟)を止まることなく、旋回しているが、行者もまた、この宇宙に通じる自己の三密という形で、印を結び、真言(宇宙の言葉)を唱え、そして、本尊を念じ、念じ抜くこと以外に、宇宙に近づくことは出来ないし、筆授では、決して、成し遂げられないと考えられた。最澄は、密教の一部を取り入れようとし、決して、密教そのものの行者になるつもりは決してなかったのではないか?だから、灌頂を受けても、あとは、書物で、密教の体系を知ることが可能であると、考えていたのであろう。最終的には、伝法灌頂を授けずに、程なく、経典を貸すのみで、両者は、その途中の紆余曲折の過程は別にして、結果として、断交状態に近い形になる。
飛白書という奇抜な書体についてである:書というよりも絵に近い、文字によって、筆も変えなければならない。能書は、必ず、好筆を用うと、南帖流の王義之や北魏流の顔真卿らの書風・書聖に話は、移ってゆく:「書とは、自ずから己の心が外界の景色に感動して自ずから書をなすもの」であり、「万象に対する感動が書には、籠もっている」と、更には、「書の極意は、心を万物に散じて心情をほしいままにしつつ万物の形を書の勢いに込める」のであると、「すべからく、心を境物に集中させよ、思いを万物に込めよ」、更には、「書勢を四季の景物にかたどり、形を万物にとることが肝要である」と、何とも、悪筆の自分などは、いつも、PCのタイプの助けを借りなければ、文章を書けないのに対して、誠に、苛烈な容赦ない言葉である。
しかも、その書体自体が、思想的な論理構造にも、何らかの形で、関係しているとまで、云われると、もはや、グーの音も出ないし、おおいに、悪筆を恥じ入らざるを得ない。
空海の書には、「霊気を宿す」とまで云われると、何をや、謂わんであろうか?
自然そのものに、無限の神性を見いだすという考え自体、自然の本質と原理と機能が大日如来そのもので、そのもの自体が、本来、数で謂えば、零で、宇宙のすべてが包含され、その零へ、自己を同一化することこそが、密教に於ける即身成仏徒でも云えるのか?
入定という思想:空海は835年に、紀州高野山にて、62歳でその生涯を閉じる。奥の院の廟所の下の石室において、定にあることを続け、黙然と座っていると信じられている。後年、俗化してしまった高野聖や高野行人や後世の中世半ばの荒廃を思うとき、その思想性の高邁さと孤独性が感じとられる。入定と入滅とは、おおいに異なり、この世に、身を留めて、定に入っているだけであると。一切が零で有り、且つ、零は、一切であると云う立場の空海が、「留身入定」という考え方を、信じながら、なくなっていったとも、考えられず、後世の結局は、言い伝えなのであろうか?「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなむ、」とは!!、「薪尽き、火滅す」と弟子の実慧は、師匠の死を唐のにも、伝えている。
風速計で、風力の速度を知ることが、顕教とすれば、密教は、むしろ、風そのものですら、宇宙の普遍的な原理の一部に過ぎず、認識や近くを飛び越えて、風そのものになる(化ける)ことであり、即身にして、そういう現象になってしまうにしても、それはちっぽけな一目的で、本来は、宇宙の普遍的な原理の胎内に入り、原理そのものに化してしまうことを究極の目的とする。当時の宗教のレベルは、1200年も経った今日でも、誠に、不可思議で有り、「人間の肉体は五蘊(ごうん)という元素が集まっているものである」そうであるが、確かに、般若心経の一句でも、「照見五蘊皆空」(ショウケンゴウンカイクウ)「度一切苦厄」(ドイッサイクヤク)となっている。よくよく、文字の一語一語をしっかりと理解して、読経をしなければならない。まるで、ナノテクか、原子物理学の世界に迷い込んでしまいそうである。それでは、ひとつ、般若心経でも、唱えてみることにするか?さてさて、いよいよ、四国巡礼、阿波足慣らしのまずは、決め打ち準備に、掛かろうとするか!?足許不如意だから、サイクリングで、ゆっくり、ゆくとするか?雨が心配であるが、考えてみれば、雨も又、自然、宇宙の一部に過ぎないのであれば、自分も又、同様なのであろう。そう考えれば、濡れることも当たり前なのであろう。恐るるに足りぬか?でも、やはり、レインコートは、必要かな?一応、リストに入れておこう。