小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

「紀元2600年」再読、木村剛久訳、=消費と観光のナショナリズム

2011年09月16日 | 書評・絵本
紀元2600年と言われても、今の若い人達には、「2001年宇宙への旅」と、錯覚してしまいそうだが、紛れもなく、西暦に対して、こういう呼び方が、まかり通っていた時代があった。昨年の暮れ間近に、友人である訳者の木村剛久君から,戴いた本(ケネス・ルオフ著)を、改めて読み返してみた。著者は、「国民の天皇」=戦後日本の民主主義と天皇制を著しているが、戦争が激しくなる前に、空前の消費と朝鮮半島・満州国等への観光旅行が、巻き起こり、それらが、軍事的なロジスティックに、安全を裏打ちされたものであり、且つ、百貨店などの催し物とのリンクで、一大消費ブームと化した時代があった。後半の章で、取り上げられた「日本人」、とりわけ、「海外植民地に在住する日本人のアイデンティティー」に対する論述に、今日的な課題として、大変、興味を持った。ナチス・ドイツのようなゲルマン民族の血統を、重んじるのではなくて、飽くまでも、大和魂的なイデオロギーを、中核にしつつも、海外に移民した2世・3世の抱く、祖父母や曾祖父母の母国、日本に対する想いと、現実に住んで、生活を営んでいるその国に対するロイヤリティーとの「矛盾的狭間と相剋」は、戦後、今日に至るまで、どうやら、新しい創造的な概念を描ききれず、解決・止揚しきれていないように、思われる。むしろ、内向きに、萎縮してしまった感が強い。当時の大和魂や大和なでしこの概念に対して、現代の「中華思想」や、「海外華人ネットワーク」は、どうなのであろうか?そして、「日僑」と呼ばれる海外在住者の存在の増加や、経済グローバリズムの中で、その国に、土着を任務とせざるを得ない日本人は、どのような国家意識を、アイデンティティーを核に、有し、子供達に、伝えてゆくのであろうか?大変、興味深い課題だと思う。小松左京の「日本沈没」ではないが、日本人は、どこへ,漂流してゆくのであろうか?

http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/


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