COP21に思う:
COP21が、厳戒体制のパリで、開かれた当日の北京の空は、TVで見る限り、凄まじいPM2.5 の高い濃度と、スモッグで、車もライトをつけない限り、草稿不可能とおぼしき環境のひどさであった。にもかかわらず、高々と、60%もの削減を政治的に宣言するなど、何とも、減速化の経済運営とはいうものの、何とも、皮肉な出来事である。それにしても、京都議定書の採択が、いつ頃だったのかも、想い出せない。依然として、先進国と途上国との間で、責任のなすり合いと技術協力への資金援助を巡って、鋭いつばぜり合いを行っていて、合意とは、程遠い有様であろう。この間にも、ツバルなどの諸島は、温暖化の影響なのか、海面上昇により、日常的に、水面下に、沈没していっているのが、現状であろう。それにしても、日本では、かつて、子供の頃、柳橋の交差点の鉛の値が、高くて、或いは、川崎の空は、まるで、真昼の太陽ですら、すすけた光だったり、川という川が、ヘドロで、死滅寸前であったものが、下水道の整備やら、石油の無鉛化や、燃焼効率の向上で、見事に再生して、今では、季節季節、川蝉までもが、日常的に、見られるようになってきたもの出ることは、世界的な好例であろう。クリーンエネルギーや、自然再生エネルギーへの転換にも、やはり、高度な技術開発力と総合力と資金が不可欠で、携帯太陽光パネルを設備すれば、すべて、それで良しと言うことではなさそうである。先進国と途上国との間に横たわるテーブルの下での攻防は、一体、どういう形で、その方向性が、定まるのであろうか?やはり、目標達成への検証や、法的な規制とか、shall とか、shouldとかいう表現上の問題ばかりではなくて、その国の成長とエネルギー政策とも、密接に、関わってくる問題なのであろう。そうこうしている内に、国が、土地が、沈没してしまわないかと、心配になる。果たして、そこに住む人は、どうなのであろうか?