我々、団塊の世代、とりわけ、全共闘世代にとっては、60年代に、思想的な影響をもっとも強く、受けた思想家ではなかろうか?当時は、埴谷雄高、吉本隆明、高橋和己、三島由紀夫、大江健三郎、等、戦後民主主義の対局に、何らかの新しい思想の地平を切り拓こうとして、暗中模索していた時代でもあった。「親との思想的な相克」、「思想的な自立」、等、どれも、若い頃の葛藤であった。もっとも、それは、今日でも、別の意味で、改めて、問われていることに、変わりはないし、これからも、ずっと、そうであるかも知れない。今、本棚を眺めると、そこには、様々な著作が、並んでいる。「吉本隆明全著作集」、「共同幻想論」、「自立の思想的拠点」、「擬制の終焉」「情況」、「心的現象論序説」、「世界認識の方法」、「転向論」、そして、右側に、「高村光太郎」、「源実朝」、「最後の親鸞」、「初期歌謡論」、「言語にとって美とは何か」、等、もっとも、その後のエヴァゲリオン等のサブ・カルチャーやポップ・カルチャー論に、関しては、若干、ついて行けなくなったが、その年齢からして、「文学と対等」の立場に、位置づける勇気は、流石である。2年程前、ETVで、長時間に亘る講演の番組を、久しぶりに、見たが、溺れて死にかけた印象は、微塵も感じられなかったが、、、、、、ここら辺が、肉声を聞くのは、最期かとも思わせるものがあった。ひとつの時代が、やはり、終わったという観が無きにしも非ずである。今や、初老となった当時の「思想的な自立」を目指した憂鬱だった青年達は、これから、どのように、思想的に、生き抜いて行くのか?ここにも、やはり、「指標無き時代」の中で、生きて行かなければならないのだろう定めがある。政治も、経済も、思想も、文芸も、混迷を極める中、新たな指標は、どのように、形作らなければならないのか、改めて、その死後に、難しい課題を突きつけられたような気がする。やや、後期の著作は、読むことがなかったが、これを機に、何冊か、読んでみたくなった。時代は異なるが、安田與重郎などは、当時、日本浪漫派の中で、こんな感じで、当時の思想界に、小さな軍国少年に、影響を与えたのではないかと、何とはなしに、ふと、想像する。吉本ばななが、父として、評価しているツイターには、何故か、救われる気がした。