高空に 月はかかりて 隻影の 潜む光に 夜を濡らしつつ
*古語を使ってはいるが、現代的な詠ですね。
「隻影(せきえい)」はもちろん「ひとつのものの影」という意味です。「つつ」は反復や継続や並列の意味を表す助詞ですが、文末に来る場合は「ということだよなあ」という風に訳されて、詠嘆を表します。
高い空に月はかかり、その、一つのものの影だという心の潜む光で、この世界の夜を濡らしていることだ。だから人間は、あの高空の月を見ると、ことさらに自分の孤独を思うのだろう。
まあ、こういうところでしょうか。
月にもののあわれやわびさびを感じる心は、古い時代からあったが、現代ではことさらに、激しく孤独を感じるものです。自分だけが、何かから断絶されて、ひとりどこかに取り残されているような気がする。
それは人間が、愛を馬鹿にしすぎて、永遠に帰れないかと思うほど、遠いところに来ているからなのだが。
そんな心も、月は果てしない過去から照らしてきた心と同じ心で、照らしてくれる。そして教えてくれるのだ。愛から離れてしまった人間の孤独というものを。
わたしたちは、あの月を、かのじょを言い表す言葉として多用していますが、それはかのじょの優しい心が、月の光に似ているからです。やさしい、弱い、馬鹿にしたくなるほどきれいだ。それなのに毎夜毎夜、飽きることなく見つめてしまう。
あの高空に月がなければ、人は闇を生きていく自分が絶えられないほどつらくなるだろう。そしらぬ顔をして、遠い高みで反り返っているかに見えるが、気付けばいつも、みんなを追いかけてきてくれる。走って逃げても逃げても、いつの間にか月は頭の上にいる。
あの月も、たったひとりなのだ。ほかのどこにも同じものはない。孤高と言えば聞こえはいいが、寂しいだろう。誰かに、そこにいて光る訳を、聞いてもらえるわけでもないのに、光っている。
あれは一体何なのか。
月は一体だれなのか。
かのじょという存在は、あの愛の一部です。本当の月の姿は、今のあなたがたにはまだわからない、大きな存在の愛なのです。いつか、わかる。
あなたがたは、月の光の中に、荒野にたたずんでいる自分の隻影を、思い浮かべるといい。そうすれば、そろそろもうやめようという気にも、なれるでしょう。