日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

老々介護の疲れが原因の高齢者殺人を考える

2016年01月30日 09時53分37秒 | 日々雑感
 去る、1月10日に、横浜市港北区の高齢者施設で入所者の93歳の夫が同じく入所者の妻を殺害したとして逮捕された。現在の法体系からして殺人事件に間違いないだろう。事件の詳細は分からないが、多分老々介護の疲れが何かしらの原因となっているだろう。このような殺人事件はたびたび報道されるし、超高齢化社会の現在、益々増加するであろう。

 凶悪な犯人には死刑を、情状酌量の余地がある犯人には更生する手段を残すのが一般的な判決であろうが、老々介護の疲れが原因となるような高齢者の殺人事件を同じように裁く意味があるのであろうか。

 老々介護の疲れが原因と思われる殺人事件に関し、マスコミは公的な介護施設の利用を一様に勧める。一時的な気休めになるかも知れないが、介護施設は手一杯であり、抜本的な解決にはならない。

 高齢化社会が進み「大量死」時代への突入を控え、宗教界は「終活」や終末期医療の現場へと活動範囲を広げつつあるが、高齢者の殺人をどう考えるのであろうか。人間はいつか必ず死を迎える。現在生きていることがつらいのであれば、そのつらさを早く除いてあげるのが宗教の役目の一つであろう。

 宗教的には、死を迎えることはさほど苦しいことではなさそうである。神道には経典が無いため不明な点が多いが、本居宣長によれば神道の観点から見た死生観は、「死は悲しい出来事であるが、古代日本人は、皆に平等に与えられた運命と肯定したから、平常心で死に臨むことが出来た」としている。

 中世日本人の死生観には、仏教の影響が強くなるようだ。仏教の教えは、死後赴く世界は極楽浄土であり、それは無限の希望と夢に満ちた世界である。これに憧れを抱くことにより、本能である死の恐怖から逃れることが出来るようだ。

 近世の日本思想には二つの流れがあり、その一つ、武家社会においては、生に対する執着は醜いもの、という価値観が形成され、潔い死に方こそが理想として尊ばれる習慣が生まれた。もう一つ、庶民の自由な考えでは、あの世を理想の国と考え、心中し死後あの世で一つの蓮に生まれて、一緒になるという一蓮托生の思想も生まれたとのことである。ここにおいても、安楽死や自死が犯罪に相当するとの考えは無さそうである。

 以上、キリスト教の影響を受ける以前の日本では、死に対する恐れや恐怖は少なく、それどころか死への憧れやある目的を達するための手段であったようである。これを重要視するならば、高齢者の殺人は犯罪と言うより善行と言わなくてはならない。

 尊厳死は終末期の患者の積極的な治療を控える、もしくは中止することである。終末期に対する厳密な定義は決まっていないようだが、日本老年医学会は、高齢者の終末期とは、「病状が不可逆的かつ進行性で、その時代に可能な最善の治療により病状の好転や進行の阻止が期待できなくなり、近い将来の死が不可避となった状態」と定義している。

 この考えを更に進め、生きているより死の安寧を希望する高齢者に安楽死を認める制度、法律があってもよいと思う。最近、在宅で療養する末期のがん患者に、「終末期鎮静」という新たな医療が静かに広がっているとのことだ。鎮静剤で静かに寝むらせ、その間栄養補給等は何もしないで自然死を待つと言うことであるので、安楽死そのものと思うが、法律上問題無いのであろうか。世の中、法律より、必要に応じてどんどん変化していくのだ。2016.01.30(犬賀 大好-203)

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