で、ロードショーでは、どうでしょう? 第2419回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『ANORA アノーラ』
ニューヨークの、ロシア系二世の若きストリップダンサーのアノーラが、ひょんな出会いから愛を探すことになる。
第77回カンヌ国際映画祭でパルムドールを、第97回アカデミー賞では作品、監督、主演女優、脚本、編集の5部門を受賞した。
物語。
現代アメリカ。
ニューヨークで暮らすロシア系アメリカ人のアニーことアノーラは、ストリッパーダンスクラブに勤めている。
アニーはロシア語は片言だったが、店に遊びに来たロシアの富豪の21歳の御曹司イヴァンの相手を任される。
彼に気に入られ、アニーは個人的なデリバリー依頼を店に内緒で受ける。
相性が合った彼からロシアに帰るまでの七日間、”契約彼女”にならないかと高額ギャラで持ちかけられる。
その日々の楽しさとイヴァンのある事情から、二人は勢いでラスベガスで衝動的に結婚してしまう。
それを知った彼のお目付け役が慌てて、二人の家に乗りこんでくる。
監督・脚本・編集は、『タンジェリン』『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』『レッド・ロケット』のショーン・ベイカー。
主演は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』『スクリーム』(2022)の新星マイキー・マディソン。
共演は、ロシアの若手俳優マーク・エイデルシュテイン、『T-34 レジェンド・オブ・ウォー』『コンパートメントNo.6』『インフル病みのペトロフ家』のユーリー・ボリソフ。
以下、久々に、紹介寄りではなく、評論寄りの内容となりました。
現在性と歴史を踏まえて作り込まれた、非常に高度な映画文法でつくられた、挑戦的で意欲的なトラジコメディ。
古典的な艶笑系のスクリューボールコメディの作法を使いつつも、あえて裏切った現代的かつ現実的な展開にし、アート映画のトーンも融合している。
画面構成、カラーパレットや目線の振り付け、艶笑ジャンルの定番を踏襲しながら反転させる展開、カメラ配置の的確さ、皮肉とテーマのバランスと提示のさりげなさ、など、語れるところがいくつもあります。
物語と作家の意図と技法が絡み合った作品で、西洋で絶賛もむべなるかなの出来です。
多くの作品の肩に載っていることがわかる。
ショーン・ベイカーは参考作品をリストで出しているしね。
分かりやすところでは、過去にアカデミー賞に絡んだ古典作にも目配せしている。
『カビリアの夜』(リメイク『スイート・チャリティ』も)、『真夜中のカーボーイ』などなど、明確に参考例も分かるうえ、『ハングオーバー』『プリティウーマン』などの娯楽作からの引用も明確(日本人的には『女囚701号・さそり』や『赤線地帯』も入っています)。この点は『エブエブ』も同じ傾向でした。
だが、個人的には『ティファニーで朝食を』が強く意識していると感じました。
ホリー・ゴライトリー(ホリーの名前の皮肉はアノーラの意味とも重ねているのではなかろうか)は映画ではオードリーヘップバーンが演じるために改変があるが、元のトルーマン・カポーティ著の小説では、19歳で富豪を手玉に取る肉感的な小悪魔で、カポーテの主演の希望はマリリン・モンローだった。マイキー・マディソン演じるアノーラをマリリン・モンローとノーマ・ジーン(アニーとアノーラ)の関係、つまり虚構の自分を演じるという点で見ると、今作の奥にあるものが見えやすくなると思われる。
彼女は人生をかけて演じようとしているのだ。(この点を長いと言われる一幕目で丁寧に描いている)
そして、今sカウは日本の宣伝ではシンデレラ・ストーリーの先にある現実という観方をガイドするが、『ロミオとジュリエット』にもなっている。忘れられがちだが、13歳と16歳の破滅的な若気の至りのラブストーリー(当時なら結婚する年齢ではある)であり、今作も21歳と23歳の若さの暴走を描いている点やそれを止めようとして困る従者たちのドラマが主になっていく。
大いなる古典劇のスタイルを踏襲しているのだ。ダメさをきっちり演じたマーク・エイデルシュテインの軸があってこそでもあるし、いない者との関係を映し出した兄弟を古典的なコメディコンビに仕立てたカレン・カラグリアンとヴァチェ・トヴマシアンに拍手を贈る。
ロシアのクズ御曹司を探すアルメニア系兄弟とそのアルメニア系アメリカ人の部下イゴール、ロシア系アメリカ人のアニーという同じ系譜なのに違うと思っている同じアメリカに住む同じ言葉が分かる、分断と一致が入り混じる車内は、まさにアメリカと世界の関係を象徴する。
寓話を現実にする、それはアメリカ映画の王道だ。
そこから今作を読み解くと、古典的な三幕もの、寓話的な象徴性といった演劇的なスタイルとアメリカ文学的なハードボイルドと艶笑要素、記号的な人物でシンボル化し出来事と土地柄と生活の描写というアメリカ文学的なスタイルを融合させ、それを70年代アメリカ映画的なアプローチと文化的カウンターをぶつけ、現代性で包んだ高度にハイブリッドな映画であることがわかる。
撮影でもコニーアイランドのシーンは35mmフィルムで照明無しの70年代のアメリカンニューシネマ的なルックを取り入れ、アメリカという国とアメリカ映画史をクロスさせることにも成功しています。
演出でも目線の振り付けが映画的な組み立てになっています。
脚本では、映像的な説明を重視し、最近のアメリカ映画の潮流でもある、トラウマや家庭といった古典的作劇からの脱却を対立図として提示することで、新しさと古さの融合をここでも果たしています。
現代の多くの映画を見ていると分かる映画の流れの上にしっかりと載っており、アカデミックでありながら現在進行形の若い映画でもあるのです。
カラーパレットも非常に凝っており、アノーラとイヴァンは赤と青の色で、立場が分かるように色づけられている。
アノーラは名前が光を表すように、光について、非常に計算された画面設計がされている。
西洋映画の重要な映画文法であるモチーフ(光と唇)とシンボル(蝶など)がしっかりと組み込まれており、映像語りにおける豊饒さがあるのです。(ちなみに、液体と腕(手と指含む)も重要なモチーフになっている)
映像文法が高度に詰められていて、物語の象徴性を濃くし、現実に近いところで語られると、途端に日本では理解できない方が増えますね。
ただ、今作は、古典と現在性の融合で、賛否両論を仕掛けているところがあるので、大いに賛否をぶつけ合うのが楽しみ方であると思う。
アニーは、セックスワーカーではあるが、店のルールを破って売春を行っているし、ロシア的なアノーラの名前を否定し、アメリカ的なアニーであろうとする。
このロシア移民三世の居場所のなさは丁寧には描かれないが、十分に推測できる。
アノーラの家族が出てこないことにそれは集約する。
アノーラはルルとも友だちになりたいのに、なりきれてないのだ。
アメリカでロシア系というだけで、その苦闘が見えてくる。
彼女は金と結婚で、あるものを求めているのが見えてくる。
だが、話が進むたびに、それをすべてイヴァンが持っていることに気づかされる。
今までの教訓譚や人情話は逆のことを描き、慰めた。「富める者には〇がなく、貧しき者には○はある」と。
だが、今作はそこさえひっくり返して、現在を描く。
格差と差別と貧困がもたらすものの真の姿を暴き出す。
全てを失った後で、彼女は気づく。
始まりと終わり、バンズで具を挟むハンバーガー的作劇で、輪がつながる。
そこに、それでもとアドラー哲学が顔を出し、アニー自身が記号の中に閉じ込められていることに気づかせ、カート・ヴォネガットのあの愛についての言葉がよぎらせるのだ。
ワイパーはくっつかないが、見えないところでつながっているリンク機構で、前を見えるように拭く。蝶の羽のように。
イゴールを演じたユーリー・ボリソフがそこを体現する。
古典的な教訓を実体化させる。
底でもルールはあり、それを守ることの価値はあるのだと。
そして、それでも破っていいルールがあり、それを破れることの価値も示すあたりが今作を深くする。
自分への気づきは、いつでも痛い。
いくつになっても成長痛は起こる一本。
ロシア(ウクライナにも)のソ連からの転換で富豪となった政治的影響力までも有する新興財閥(成金)がいて、それらを「オリガルヒ」と呼ぶ。
イヴァンはその息子。
アノーラがイゴールのことを呼ぶ「ゴプニク」は、ソ連時代の犯罪集団の一員。 チンピラや不良のことを指す言葉が、古臭い言葉でもある。日本語でいうならば「ゴロツキ」や「愚連隊」に近いようだ。
つまり、アノーラは移民の家族のロシア語を使うため言葉が少し古い上、聞き取れるけど上手く返せないので、アルメニア系チームとも交われないことが伝わってくる。(それはイゴールも同じ)
原題:『Anora』(『アノーラ』)
アノーラは光などの意味がある。
制作年:2024年
製作国:アメリカ
上映時間:139分
映倫:R18+
スタッフ。
監督・脚本・編集:ショーン・ベイカー
製作:アレックス・ココ、サマンサ・クァン、ショーン・ベイカー
製作総指揮:グレン・バスナー、ミラン・ポペルカ、アリソン・コーエン、クレイ・ペコリン、ケン・マイヤー
撮影:ドリュー・ダニエルズ
美術:スティーブン・フェルプス
衣装:ジョスリン・ピアース
音楽:ジョセフ・カパルボ
音楽監修:マシュー・ヒアロン=スミス
配給:ビターズ・エンド
出演。
マイキー・マディソン (アニー/アノーラ・ミケーヴァ)
マーク・エイデルシュテイン (イヴァン・ニコライ)
ユーリー・ボリソフ (イゴール)
カレン・カラグリアン (トロス)
ヴァチェ・トヴマシアン (ガルニク)
リンゼイ・ノーミントン (ダイアモンド)
エミリー・ウィエダー (ニッキ)
ルナ・ソフィア・ミランダ (ルル)
アカデミー賞に関しては人気投票でもあるので、ショーン・ベイカーが以前の『フロリダ・プロジェクト』『レッド・ロケット』で上質ながら、アカデミー賞で賞を獲れていないので、今度はあげたいという機運も影響したというのもあるでしょうね。
ただ、カンヌのパルムドールは、審査員による話し合いによる結果であり、そこにはこの映画の優れた点が他の候補作よりも賞にふさわしい納得できる理由が必要なわけで、獲得には明確なポイントがないければ難しい。
インティマシー・コーディネイターを付けなかったということで物議を醸したが、製作側はつけようとしたが、マイキー・マディソン自身がない方が良いと言う提案をしたと言われている上、プロデューサーのサマンサ・クァンはショーン・ベイカーの妻で、彼女とショーン・ベイカーの二人でベッドシーンの見本を服を着て、実際にやって見せたそう。
撮影は、37日間で、中盤の侵入と大乱闘シーンに10日閣かけたそう。
アメリカでのキャッチコピーは、「love is a hustle.」。
これは、「愛は努力の積み重ね」という意味になるらしい。
ネタバレ。
あの指輪の価値は、日本円で2000万円。
それが分かっていてもイゴールはアノーラに渡す。
恋慕という見返りのためではなく、落としていったガラスの靴を持ち主に返す男もいる。
しかも、恥ずかしいと思わずに、おばあちゃんの車に乗っている。
自分のためだけに生きてきた女は、同じようなところにいても、誠実に生きる男に出会い、気づかされる。
『シンデレラ』って、たった一度、舞踏会で会った女に惚れた色恋狂い王子が国中をガラスの靴だけを頼りに無駄金を使って探し、苦しい暮らしの中でたまたま性格は良かったけど自立する能力がなくて魔法使いの手心で救われた貴族の女が美貌で王子の期先になる話です。一目惚れの後で相手を知っていっても愛を育んでもいいでしょう、見初められることと結婚が女性の死幸せという時代の寓話ですから。
ダンスなどの素養などは貴族ゆえのことに過ぎないし、性格以外は姉たちもやっていること。性格と美貌が価値を持つなら、それでも救われればいいという寓話。(元の伝承話では、王子が靴マニアだったり、貴族の娘じゃないバージョンもありますが)
魔法使い無しで、自分の体を行使して、奉仕して、愛してるふりをすれば救われるのなら、21歳の王子の血迷いと結婚という制度を利用して、救われてしまえばいいと思える強かさがアニーにはある(アノーラにならず、演じ(=魔法)ていればいい)。
プロ妻になればいいのである。
愛なんてものは役に立たないと知っているから。
だって、家族からそんなものはもらった覚えは、おばあちゃんから少しもらったかなというくらいだし、姉だって妹の夫を奪おうとするくらいだ。
なのに、このバカ王子には金も愛も仲間も自分の名前で生きていい自由(親から逃れられなくても仕事が与えられる)と暴力さえある。
この騙せると思ったバカ王子は自分が持っていないもののほとんどを持っていて、馬鹿でもそれを守ってくれる人がいる。
自分は、そこに入ることさえできなかった。
でも、アニーは知る、愛は消えるけど親切は残る(byカート・ヴォネガット)し、自分の名前で生きる自由もあったことに。ギャングの手下でも家族の愛を持っている人間がいることを知る。なのに、自分はお礼の仕方も知らない。
まさか、王子ではないゴプニク(水商売の女がチンピラとくっつくなんて最悪だ)に気づかされるなんて。
曇っていた目がワイパーで擦られる。
マイキー・マディソンはキャスティングの条件が、脚本づくりから参加させることだったそう。
しかも、ショーン・ベイカーから数十本の70年代の強い女性やセックスワーカーや性的な抑圧を受けている女性の映画をおくられてきて、それを見たそう。
インティマシー・コーディネイターについて、キャストとも話し合い、ショーン・ベイカーのこれまでの作品を見てきて、プロデューサーの劇外の活動、キャストもこの作品と出演しようと思っている時点で、それぞれがカバーし合う方がいいのではないかという判断をしたそう。
アドラー哲学として、悪人になるものはいるし、善人になるものもいる、がイゴールを通して現れてくる。
彼は暴力は仕事としてしか行わないし、黒い社会にもルールはあるのだと示す。
カート・ヴォネガットの有名な言葉「愛が消えても親切は残る」
今作は、そこに「しかし、女は親切への礼の仕方さえ知らない自分を知る」というラスト。
アメリカ映画の古典作品のように、メッセージをシンプルに言葉にできるうえに、それだけには収まらない人間の複雑さ、愛ではない男女の関係も描いているのですもの、そりゃあ、強いです。
でもイゴールも、盗むという自分の世界の方法で仕方しか親切ができないし、命令(生活のため)であれば、暴力をふるえるのです。