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菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

クソを出しながら象は前に進む。 『バビロン』(2022)(追記あり)

2023年02月17日 00時00分44秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第2190回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

 

 


『バビロン』(2022)

 

 

 

監督・脚本は、『セッション』、『ラ・ラ・ランド』、『ファーストマン』のデイミアン・チャゼル。

 

主演は、ディエゴ・カルバ、マーゴット・ロビー、ブラッド・ピット、ジョヴァン・アデポ。

を主演に迎え、ハリウッド黄金時代を絢爛豪華に再現した群像ドラマ。無声映画からトーキーに移行する変革期のハリウッドを舞台に、それぞれに夢を追い求めて映画製作に携わる男女が、時代の大きな波に翻弄されながら駆け抜ける激動と狂乱の日々を、実在のエピソードをベースに圧倒的スケールで描き出す。共演にTV「アンストッパブル・ガールズ」のディエゴ・カルバ。

 

物語。
1926年のアメリカのハリウッド。
驚異的なバブル経済で映画産業が急成長、サイレント映画が莫大な富を生み出していた狂騒の20年代ことローリングトゥエンティズ真っただ中。

禁酒法施行中ながら、映画会社オーナーノワラッツが丘の上の豪邸で開く豪華パーティといえば、酒池肉林でアル中ヤク中ヤリ中何でも来いの阿鼻叫喚の無我夢中。
ラテン系の使用人マヌエルは、そのパーティのための象運びで悪戦苦闘中。

パーティの最中、サイレント映画の大スターのジャック・コンラッドは車の中、あるもめごとの真っ最中。

贅を尽くした宴に酔っぱらってやってきたスターを夢見る若手女優ネリーはテキサス出身で、目下、庭で事故中。

黒人シドニー・パーマーは、バンマスから「象がラウンジに入ってくるが暴れても演奏を止めるな」と釘を刺されて演奏中。

アメリカ映画界を変える一本の映画の登場まで、あと1年。

 

 

 

出演。

ディエゴ・カルバ (マニー/マヌエル・トレス/使用人)
マーゴット・ロビー (ネリー・ラロイ/ネリー・ロイ/若手女優)
ブラッド・ピット (ジャック・コンラッド/大スター)
ジョヴァン・アデポ (シドニー・パーマー/トランペッター)

ジーン・スマート (エリノア・セント・ジョン/芸能記者)
リー・ジュン・リー (レディ・フェイ・ジュー/字幕制作者/パフォーマー)
ルーカス・ハース (ジョージ・マン)

トビー・マグワイア (ジェームズ・マッケイ/ギャング)
エリック・ロバーツ (ロバート・ロイ/ネリーの父)
オリヴィア・ハミルトン (ルース・アドラー/映画監督)
スパイク・ジョーンズ (オットー/映画監督)
サマラ・ウィービング (コリーン・ムーア/女優)
キャサリン・ウォーターストン (エステル/ジャックの妻)
オリビア・ワイルド (イナ・コンラッド/ジャックの妻)

マックス・ミンゲラ (アーヴィン・G・タルバーグ)
フリー (ボブ・リーヴァイン)
 マーク・プラット (プロデューサー)

ローリー・スコーヴェル
P・J・バーン
ジェフ・ガーリン (ドン・ウォラック)
イーサン・サプリー
クロエ・ファインマン
デイモン・グプトン
フィービー・トンキン
トロイ・メトカーフ

セリフがある役が100人分あったという。

 

 

 

スタッフ。

製作:マーク・プラット、マシュー・プルーフ、オリヴィア・ハミルトン
製作総指揮:マイケル・ビューグ、トビー・マグワイア、ウィク・ゴッドフリー、ヘレン・エスタブルック、アダム・シーゲル、ジェイソン・クロース、デイヴ・キャプラン

撮影:リヌス・サンドグレン
プロダクションデザイン:フロレンシア・マーティン
衣装デザイン:メアリー・ゾフレス

編集:トム・クロス
音楽:ジャスティン・ハーウィッツ

 

 

 

『バビロン』(2022)を鑑賞。
1926年ハリウッド、映画界に憧れる青年、田舎者の若手女優、大スター、黒人トランペッターがサイレント映画の黄金時代の終焉を見る群像悲喜劇。
米国の狂騒の20年代、一次大戦からのバブル経済、禁酒法、文化大爆発、そして大恐慌で幕を閉じる時代。映画は爆発的にヒットして、現代よりも隆盛を誇っていた。なにしろ1921年にはアメリカでの長編映画製作本数は米国史上最多の年間854本を記録。1920年代はアメリカ映画の黄金どころかダイヤモンド時代とさえいえるのだ。
そんな映画が発展しまくって、様々な映画が生まれ、まだまだジャンル未分化の作劇も多かった。その頃のような今で言うミクスチャーのような物語を意識したかのような語りで、今作の物語は構成されている。なにしろ、編集のあるストーリー映画の誕生が1900年。言葉に頼り切らない物語芸術であるサイレント映画はまだまだ発展途上中だったのでね。
監督・脚本は、デイミアン・チャゼル、音楽映画の若き天才は、今回も音楽も主役のように鳴り響く。サイレント映画とはいえ、BGMは流れていたし、初のトーキー長編のヒット作『ジャズシンガー』は1927年公開だ。(トーキー自体は1895年にはすでにあったし、1900年にも上映されている。ちなみに党jの映画は生の演奏家が映画館にいたり、蓄音機でレコードがかけられていることも多かった。無音での上映もあったようだ)
音楽は、もはや二人で一人のような盟友ジャスティン・ハーウィッツ(映画ではデイミン・チャゼル作品しかまだないほど)で、素晴らしい音楽が鳴り続け、3時間のブロードウェイミュージカルのように音の映画にし続ける。物語のために鳴る音楽はに、絶妙に無音が入り、音の渦に叩き込み続けない。シグネチャーのような鳴り物に向かっていくカットは今愛もあるが、今回は少し変則的だったり。
それがライトモチーフ演出に使われてもいる。
ライトモチーフはいくつかあるが、大きくは穴と排泄物。しかも、この映画、暗喩と直喩を織り交ぜているところで、排泄物がまさにそのままクソのような現実や人々と社会として扱われる。それが何をもたらすのか。それはそのままオープニングシークエンス(象を運ぶシーンで起きる出来事。これはアメリカ映画作法の冒頭のシーンにその物語を凝縮させる話法)によって明確にしめされるのだが、そのインパクトとその後のシーンによって、チョと埋もれてしまう。そのこと自体を映画に取り込もうといて、その後のパーティシーンでも象が出る時に同じ暗喩をこめるが、情報が多すぎて、少々取り込めない人も多そう。
ブラッド・ピットとマーゴット・ロビーはどこか自分お今までを模倣した感じの役で、それを躁鬱的に嵌めている。ディエゴ・カルバのまなざしがこの映画のガソリンだ。世界をピストンさせて、ガス欠になっていく。ジョヴァン・アデポの唇に腫れを感じる。それは人生の腫れだ。脇を飾るキャスト体の埋もれぶり奉仕ぶりはまさに往年の昔々いて生きたが忘れられたが、生きていた人々を体現する。彼らに張り合って見せたリー・ジュン・リーこそこの映画の華だろう。
さて、排泄物と対比されるものは何か。その累々とした排泄物の上に咲いた花は何か。
そのヒントの一つは、夕焼けの中で蝶がとまるカットにある。
3時間の間に少しずつ画面のスタイルは変わっていく。『ラ・ラ・ランド』からずっと組んでいるリヌス・サンドグレンはいつものキラキラを画面に載せ続ける。35mmフィルム撮影が時代の色を加える。
シナリオの構成は、いろいろな技法を入れて、盛りだくさんに。基本はブラックコメディだが、後半トラジディに(混合)。この全部入れちゃえ精神がこの映画の意図だったそう。(この次、映画を撮らせてもらえるかだって分からないんだから、やれることはやってしまおうと言っていたそう。『ファーストマン』も赤字だったし、今作も赤字になっている。アカデミー賞クラスの監督だって、いつ落ちるか分からないし、クソ扱いされる世界だ)
製作に当たっては、様々なカテゴリーの専門家に依頼して、当時の逸話などをまとまた100ページを超える映画のための論文を作成したそう。多くのエピソードには、実際の元ネタがある。
逆によく189分に収まったものだ。
この美醜ごった煮の騒乱の大作ゆえに、賛否両論もまたこの映画に取り込まれる。映画作品には映画の外のことも含まれてしまう。そして、時間がそれを脱がせていく。それが残るということだ。
今作は、落とされてしまいそうなことを拾おうとしている。
『バビロン』は古代の巨大都市の名前だが、聖書ではバベルとして出てくる。バベルの塔を建てた街の名前だ。そのことを念頭に置くと見え方はけっこう変わる。
時代の中で、人は無慈悲に物となる。
でも、物はどこかで残り続けることもある。
暴走しないとたどり着かない場所がある。
つくる阿呆に見る阿呆、歌う阿呆に舞う阿呆、逃げる阿呆に追う阿呆、正気の阿呆に狂気の阿呆、同じ阿保なら残さにゃ損ソン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ガスを燃やして、カスを出して、走る輪作。




 

 

おまけ。

原題は、『BABYLON』。
『バビロン』。

バビロンは、実際に古代に存在した当時の世界最大の都市の名前。
聖書では、バベルとされ、あのバベルの塔が造られる都市。

原題邦題も同じ『バビロン』(1980)がある。

 

2022年の作品。



製作国:アメリカ
上映時間:189分
映倫:R15+

 

配給:東和ピクチャーズ  

 


ちょっとぼかしが邪魔よね。
それもまた時代を映す鏡だけども。

どうやら、Dolby Cinemaでの上映はぼかしがないそうです。

 

 

 

1900年頃に初の短編ストーリー映画が誕生。(1カットでストーリー仕立ては、すでに1986年にリュミエール社作品などに存在している。なので、編集のある映画的なストーリーを持つ映画の誕生ということ)
ジェームズ・ウィリアムソンの『中国における伝道会の攻撃』(1900)やフェルディナン・ゼッカによる『ある犯罪の物語』(1901)や『火事だ!』(1901)などが有名。他にも何本も存在が確認されている。
有名なエドウィン・S・ポーターの『大列車強盗』は1903年で、それ以前に制作したポーター作品の『あるアメリカ人消防夫の生活』を世界最初のストーリー映画とする説も根強いが、これは『火事だ!』を元にものと思われている。
現在は1900年のパリ万博ですでにストーリー映画が上映されたという記録もあるし、アリス・ギイに『キャベツ畑の妖精』は、1896年に制作の記録があるがフィルムが現存していないため、フィルムがある1900年制作のリメイク版を世界最初のストーリー映画とする説もある。
つまり、どこの要素を持って、ストーリー映画とするかで意見は分かれているが、少なくとも『大列車強盗』とはいえないが、世界初の西部劇ではある。今作と『あるアメリカ人消防夫の生活』は、人物描写や起承転結などの劇的な展開など複合的な点で現在の劇映画の原型とは言える。
ただし、編集によるスケッチ的な展開、クローズアップ、スーパークローズアップなどの技法は、すでに1900年のジョージ・アルバート・スミス『おばあさんの虫眼鏡』などでも行われているし、火事からの救出劇というアクションでの劇的という点において『火事だ!』でもお紺われているが、4分程度である。
長編ストーリー映画では、豪映画『Story of the Kelly Gang』が最初と言われる。
それから20年、映画は技術的な発展と経済的かつ文化的な発展を遂げ、各地に映画館が出来て、世界中で見世物から芸術としての評価に変わり始めていく。
イタリアやフランス、イギリスで多くの芸術的映画がつくられるようになり、1915年にD・W・S・グリフィスの『国民の創生』が記録的大ヒットとなり、1916年には『イントレランス』のような3時間を超える超大作もつくられるようになった。
1921年にはアメリカでの長編映画製作本数は史上最多の年間854本を記録。1902年代はアメリカ映画の黄金どころかダイヤモンド時代ともいえる。(ちなみに、20年代の日本も最初の黄金時代を迎え、アメリカや長編映画製作本数世界一を競い合っていた。現在の最多製作国はインド、中国、アメリカ、日本、韓国の順となっているが、これはそのまま人口数と対応していると言える。ただ、アジアが映画の大生産地とも言える状態なのだが……花形は今も欧米だし、日本は数だけ状態だったりする)

 

 

アメリカで禁酒法は、1920年に施行され1933年に終わる。

 

 

バビロン (2022) - ポスター画像 — The Movie Database (TMDB)

Babylon (2022) - IMDb

Babylon (2022) - Posters — The Movie Database (TMDB)

Il full trailer italiano di Babylon, il film di Damien Chazelle

Babylon (2022) - Posters — The Movie Database (TMDB)

 

 

ややネタバレ。

彼らにはモデルがいる。

ネリー・ラロイは、クララ・ボウや、ジョーン・クロフォード、ベッシー・ラヴ、セダ・バラ、アルマ・ルーベンス、ジャンウ・イーグルス、ノーマ・タルバッジ他、当時の女優の混合。

ジャック・コンラッドは、ジョン・ギルフォード。サイレント映画時代のスターでトーキーの始まりにより甲高い声で没落し、アルコール大量摂取による心臓発作で死亡。あと、ダグラス・フェアバンクスやクラーク・ゲーブル。
ちなみに、『ハリウッド・レヴュー』でピンクコートを着て歌われる歌『雨に歌えば』は実際にこの映画で使用されて、のちに映画『雨に歌えば』に採用された経緯がある。

シドニー・パーカーは、ルイ・アームストロングとカーティス・モスビー。ルイ・アームストロングは『青と黒のラプソーディ』で黒塗りさせられている。

マヌエルは、ハリウッド初のスペイン語映画『Sombras Habaneras』を製作・監督・主演したキューバ出身レネ・カルドナや『成功争ひ』などの撮影をしたメキシコ移民エンリケ・J・バレホなどの融合。

女性監督はハリウッドでは唯一と言われる女性監督ルースはドロシー・アーズナー(1897–1979)、ドロシー・ダヴェンポート(1895-1977)、ロイス・ウェバー(1881-1939)といったアメリカ映画の創成期に活躍した女性監督たちの姿が反映されている。
ドロシー・アーズナーはクララ・ボウ主演のトーキー映画『底抜け騒ぎ』の監督でもある。

ドイツ人監督のオットーはエリッヒ・フォン・シュトロハイム、フリッツ・ラングかな。

エリノアは、エレノア・グリン、グエラ・パーソンなど。

今作では、実名は出ても実際に登場する人は少ないが、アーヴィン・G・タルバーグが出てくる。

ハリウッドでは、女性監督は少なかったが、サイレント時代のアメリカNYは女性監督はけっこういて、中でもアリス・ギイは自分のスタジオ率いて、大活躍していた。

あのパーティでの死亡事件は、ロスコー・アーバックルが起こした似たような事件(体重による圧死だったという)があった。なので、劇中でも似た感じの太っちょがおしっこをかけられている。

当時は、撮影中に危険な撮影で人が死ぬのも、当然のような状況だった。(今でもけっこう事故は起きてはいるが)

 

1920年代は、近代アメリカでは、もっとも同性愛者が受け入れられた時代でもあったが、1929年に大恐慌が起きると人々は余裕をなくし、強い反発を招くようになった。劇中では大恐慌にはほぼ触れないが30年代に入ると人々の価値観はまるで変わってしまったと描かれる。
同性愛者は1960年代頃から再び受け入れられ始めるが、21世紀を迎えるまで、まだまだ差別は続いていくし、今もそれは残り続けている。

 

キノスコープ社はフィクションで、モデルは、パラマウント社と思われる。現在も残るスタ時の入り口がそっくりなので。(映画の冒頭には1926年時のパラマウントのカンパニーロゴが出る)
劇中で、MGMとワーナーが出てくる。あと、チャップリンはユナイテッド・アーティスツ社。
26年代とパラマウント(1912年創業)、ワーナー・ブラザース(1923年)、MGMことメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1924年)がハリウッドの有力スタジオだった。
(RKOは1928年、20世紀フォックスは1935年創業)
あと、ユニバーサル(1912)、コロンビア(1924)、ユナイテッド・アーティスツ(1919)もあったが、前述の3社より規模が少し小さかったようです。

キノスコープの名前の元は、エジソンのキネトスコープからかな。
キネトスコープ(合同カンパニー)社はNYの映画会社として存在したが、それはキネトスコープを売るのがメイン(それ用の映画制作もしていたようです)の会社で、エジソン・スタジオに変わる。
そもそも、10年代はニューヨークがアメリカ映画の本場だったし、世界の映画の本場はヨーロッパだった。
その欧州に対抗しようと、モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー(英語: Motion Picture Patents Company, 略称 MPPC、「映画特許会社」。1908年12月に当時のアメリカ合衆国の大手映画会社が組んだトラスト。別名、エジソン・トラスト(Edison Trust)、あるいはザ・トラストとも)がつくられる。
映画撮影の特許多数を保有し、映画製作会社も経営していた発明王トーマス・エジソンが、活況を呈した映画業界を管理下に置き、利益を吸収するために形成したトラストでもある。
MPPCはアメリカ国内での映画製作・配給を独占し、ヨーロッパ映画がアメリカ市場を席巻していた状況を終わらせた。またアメリカで製作される映画の質を高めて競争力を強め、アメリカでの映画の配給・上映の方式を標準化した。しかしトラストに加入しないエクスチェンジ業者などの中間配給会社を抑圧したため、エクスチェンジ業者や独立系映画会社はニュージャージー州など当時のアメリカ映画の中心地を逃れ、新天地ハリウッドへと移転していった。
1911年にイーストマン・コダック社がフィルム提供に制限を撤廃、トラストは積極的でなかった長編映画が流行、トラスト外からの融資受け入れを抑制したのが反発を招くなどして、ハリウッドの映画社が力をつけ始め、逆にトラスト各社が衰退していった。
最終的には連邦政府より訴えられ、1915年に反トラスト法違反とされて終焉を迎えた。(wikiより)

ちなみに、シカゴなどにも映画会社はあり、チャップリンはNYを出て、一時期シカゴの会社におり、その後、ハリウッドに移った。

劇中に名前が出てくるハンフリー・ボガートは1930年デビューでほぼワーナー社の専属。
クラーク・ゲーブルは、1930年にMGMと契約し、キング・オブ・ハリウッドと呼ばれるほどのスターに。
二人ともトーキー時代のスターの代表。

劇中でも出てくるパテ社はフランスの映画会社で1908年には世界最大の映画会社となっている。
エジソン・トラストにはパテのアメリカの代理会社も入っていた。

 

 

訳されていない字幕があるのはなぜ?
(冒頭に説明が入る)

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

ケネス・アンガーの著書『ハリウッド・バビロン』からもらっているところが多い。この本には<バビロンの章>があり、『イントレランス』の<バビロン篇>の撮影のことが書かれているが、そこでは狂気の美術(象の石膏像も出てくる)が中心となっている。
このバビロン篇の撮影についての映画が『グッド・モーニング・バビロン』。象の石膏像を造る兄弟の話。
この映画も象運びで幕を開ける。

 

実際、サイレントの撮影は、もう少し広いところで、あそこまで近くなかったり。アメリカ広いからね。

映画内映画の一部は、カリカチュアライズされている。
再現というよりは、時代の熱こそを伝えようとしたのか。
それでも、1930年代になると再現になっていく。

 

デイミアン・チャゼルが言っている今作で参考にした映画5本。
『イントレランス』、『Black and tan』、『天井桟敷の人々』、『甘い生活』、『ミーン・ストリート』。

 

デイミアン・チャゼルの、観客か出演者への遠慮か、主要人物は、汚れたり、赤裸々な状態にはならない。
ネリーの胸部も確実にスタンドインだし。
がっつりベッドシーンにも出さないし。
昔のスター的な扱いをするのよね。

 

権利の問題で一部の字幕がないと冒頭に告知される。
『ジャズシンガー』と『雨に歌えば』の映画の字幕がない。
これはどういうことだろうか、新しく字幕を乗せても権利と権利料が発生するのだろうか。

 

最後見る現在まで続く映画の歴史の羅列は、映画の技術、特に映像技術の発展に寄与した作品が多く取り上げられている。
おぼえている限りとタイトル不明だったものを後で調べたものを羅列。
エドワード・マイブリッジの連続写真、エジソン社の『アニー・オークレイ』、『ラ・シオタ駅の列車の到着』、『月世界旅行』、『大列車強盗』、『イントレランス』、『チャップリンの拳闘』、『裁かるゝジャンヌ』、『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』、『ヂャン・ダーク』、『ジャズシンガー』、『午後の網目』、『オズの魔法使』、『アンダルシアの犬』、『ベン・ハー』、『これがシネラマだ』、『サイコ』、『』、女と男のいる舗道』、『ウィークエンド』、『sunstone』、『2001年宇宙の旅』、『トロン』、『レイダース』、『ジュラシック・パーク』、『ターミネーター2』、『マトリックス』、『アバター』、『仮面/ペルソナ』……。

これ自体が、ある意味では『ニュー・シネマ・パラダイス』だったりするのか。

画面的なオマージュだと、かなりの数がある。
『サンライズ』、『サンセット大通り』、『市民ケーン』、『ブギーナイツ』、『カジノ』、『華麗なるギャツビー』、『ジーザス・クライスト・スーパースター』、『ノスフェラトゥ』、『デモンズ』、『めまい』、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、『グッドフェローズ』などなど。
物語的には、『飴に歌えば』、『マイ・フェア・レディ』など。

 

今作の構成は、前半と後半で映画のスタイルがクァる。1930年を境に変わる。
明確には提示されないが、大恐慌で世界が変わる。ローリング・トゥエンティーズが終わり、30年代が始まるのだ。

前半は誇張された喜劇風味、後半はリアリスティックな悲劇と、フィルムノワール風味に。

ほかのライトモチーフは、円。
ローリング・トゥエンティーズをそのまま映したかのような率直さ。
これは穴とも連動している。
まず、円を描くカメラワークは『ブギーナイツ』から引用して、『ラ・ラ・ランド』で使っていたが、今作では自分のものにして、意図の中に組み込んでいる。
この回転する円は映画カメラのクランク、フィルムの回転を中心にして、扱われる。マニーとネリーの乗った車は町を回る。
画面上に大きく映される楽器、皿、テーブル、マイクも穴と言うよりは円としてとらえられる。
それはまるでステージのようで、そこと世界を分けている。
マイクは場所を物を載せないが、場所を規定するからね。
蛇はとぐろを巻いていて、その牙の傷は穴。30年代のパーティは円に集まって話す。
死は銃口によってもたらされる。


もう一つのライトモチーフは、上下運動。
その人物の状況(未来を予見するようにも)はそのまま上下運動で描かれる。
マヌエルは象と坂を上り、階段を上がり、カメラを運んで丘を登り、地下の穴(カリフォルニアの尻の穴)へと降りていく。
ネリーは屋敷に上がり、酒場のカウンターに上がり、涙を落とし(過去は彼女を落とす)、宴でも高いところに上がり、みなに掲げられ、ゲロのために屈み、マニーに倒れ込んですがりつく。(闇に消えていくのは穴の方だね)
ジャックは二階のベランダから落ち、丘を登り、ジョージを慰めて(トイレの穴に顔を突っ込む)屈む。座っている時や低い場所にいて、穴(電話)を持っているに落ち込ませることが起きる。
シドニーはステージ、演奏する場所の高さで、それが表される。

物語の進行や人物の心情に合わせて画面内の動きも連動する映画技法を使用している。

 

 

ネリーは、自己肯定感が高いように見えて、実は低い。
パーティに参加するときも、すでに酔っているようで車を彫像にぶつけるし、すぐにパーティに入れずドラッグを入れる。ハイだと肯定出来ているとも言える。
出演が決まった時も、罵った者(故郷)への復讐心を叫ぶ。
涙をすぐに流せる能力も、「どうやったの?」と訊かれて、「故郷を思ったの」というセリフは故郷を憎む気持ちと前のシーンによってわかる。
彼女は故郷が嫌い。
涙を自由に操れる女が幸せな人生を歩んできたと思えるか。
胸を出したり、男を誘ったり、性的な方法でのし上がっていく。
売れても、父親から逃れられないのは、故郷=父、ネリーにとって故郷は逃れられないモノ、という仕掛けになっている。
だから、父親を蛇と戦わせて、殺そうとさえする。無能だからって、父親を殺そうとするのか。父親は母親を廃人のようにしたというのをわざわざ映画は見せる。
彼女は、父親から暴力(性的なものもか?)を受けていた可能性がある。(娼婦役でデビューするのもそれを示唆している可能性大。当時の映画女優の扱いの描写の武運は強いだろうが。そもそも代役死んだ女優はまさに実際に娼婦だったし)
少なくとも、男が女性を物のように扱って当然の時代だ。(あの女優は物のように病院へ運ばれるし、父もマネージャーとして食い物にしている)
涙は彼女の武器だった。
彼女の自己肯定感の低さは、依存症(ギャンブル、酒、ドラッグ)を引き起こす。
しかも、同性愛者、それを隠す、奪われる苦しみの中にいた。
あの狂乱のパーティではそれが許されたが、それはもうない。
ロニーの結婚を受け入れられないのは、自分を偽る苦しみを続けることを恐れたからかも。
淑女訓練、偽札事件、その前のシドニーの黒塗り、すべて自分を偽ることが語られる。
マニーはメキシカンでスペイン出身と偽り、ジャックは白人でイタリア系と偽ってきた。
だから、ジャックは言うのだ。「10秒だけ偽るな。これはクソ映画か?」と。

フェイはマニーによって、ネリーから身を引く。
彼女も最初は男装で自分を偽って出てくる(逆にトランスジェンダーで偽らざる自分をあそこで得ていた可能性もある)

マニーにも当てはまる。
マニーも家族には会わないと言い切る。
彼にはジャックを捨て、仲間と成功するはずが、ジョージになりそうな元上司の方へ行き会社を変え、ネリーと組んだはずが失敗し、落ちぶれていく。

上流階級のパーティでも、男のパートナーのように見える女性は尻をまさぐられていて、男の妻でないことがわかる。

エリノアにも結婚の影はない。タイプ係とは口も利かない。

この映画は、連帯による疑似家族を否定していく。

この映画の最大の隠しテーマは、家族でさえ信用ならないという家族(疑似でさえ)否定。
ジャックは離婚しつづけ、ジョージは恋に破れ拳銃自殺する。
シドニーはバンドメンバーに貶され、見捨てて成功するが、そこに仲間はいない(最後はバンド仲間を手に入れてはいるが、本当に仲間かどうか)。
ネリーは結婚から逃げる。
マニーは助けてくれたジャックを裏切り、一人で成功していく。助けてくれた仲間も見返りあってのことだし、逆にピンチに追い込むし、殺される。最後のマニーの家族でさえ、彼のかつての思いでに飽きてしまい、彼は一人、映画館へ。

デイミアン・チャゼルは簡単にはハッピーな家族をつくらせないところがある。
『セッション』しかり、『ラ・ラ・ランド』しかり。(『ファーストマン』は脚本を書いていない)

世界には安らぎはなく、クソのような現実があり、孤独しか存在しない。
時代が変わり、成功の者さえクソにしていく。
本人の努力や才能さえ飲み込んで、消化され、排泄していく。
そうして、世界は進んでいく。
そのクソを肥やしにして、種は根を出し根を伸ばす。
累々たるクソの大地の中に根があって花は咲き、実をつけ、種を落としていく。
『イニシェリン島の精霊』を丸ごと飲み込んだようにして。
だから、マニーは言う「長く続くものの一部になりたい」と。孤独じゃなくなりたいと。
実は、映画館はみんな孤独だと知る場所とも言われたりする。
映画記者のエリノアは言う「100年後の誰かが映画のあなたを見て、友達だと思うだろう」と。でも、その友達は、画面の中にしかいない。

トーキーの撮影で、録音のロイドも部屋に一人で皆の敵、撮影のビルは一人助けも効いてもらえず撮影ボックスの中で息絶える。そもそも、ネリー一人の撮影で孤独であり、女性監督ルースは味方だったが、時代が変わり、彼女もいなくなる。
アップのカットは人を一人にさせる、孤独なカットだ。(映画の最初期ではアップは生首のようだと揶揄されたこともあった)

デイミアン・チャゼルは孤独を描く作家だ。
いや、一時の繋がりが孤独を愛せるようにさせる作家と言った方がいいかもしれない。
彼の映画では、音楽、ダンス、映画、宇宙(というか使命)は孤独を忘れさせてくれるものとして機能する。

そして、これは、名作を支えるクソ映画への賛歌だ。
それは夕焼けの中で蝶がとまるカットに一つのヒントがあった。
当時(今だって)は、偶然撮影出来たものを記録できたことの感動。
だが、今作ではそれが狙われており、あの蝶はCGであろう。
実施あの蝶を離して、とまらせることやったかもしれないが、もはや輪r話われの頭にはCCGだろうと浮かんでしまう。
それは、奇跡をとらえたとして受け取られることは減ってしまった。
もちろん、技術の発展で、容易に完璧に意図を反映できているようになったのだが。
思い出して欲しい、CGが分かりやすく使われている時、「あー、CGがなぁ」と少々がっかいしたことが。実際に取られていないことのへの消沈があったことを。
似たようなことが、トーキーにさえ、カラーにさえあったのだ。
多くの馴染んだもの良さを奪う新しいものは、なじむまで時間がかかる。それを使っていただけでクソとさえ言われたりしてきた。

 

『ニューシネマパラダイス』は成功した映画監督が過去を懐かしむ物語だ。すでに報われている。
成功しなかった者(成功したが落ちぶれた者)が報われやしないのか。
マニーは知られていないから、スタジオの中に入れてもらえもしない。
これは対比だ。
著名な映画監督トトは、閉められた映画館に入れてもらい、自分のための映画を上映してもらう。
誰も知らない元映画監督のマニーは、開ているスタジオに入れてもらえず、みなと一緒に映画館で映画を見る。
『キネマの神様』も近いものを描こうとしていた。
バンドものだが『ガレージ・デイズ』が成功できなかった者への賛歌を描ていた。
みなが楽しんんで見るのは、自分たちの凋落が愉快で美しい物語となった映画。
それをつくっているのは、成功した映画監督デイミアン・チャゼルじゃないか。彼のナルシシズム、俺を見ろという傲慢さが溢れているマスターベーション映画だと言われても仕方はない。マスターベーション的なパーフォーマンスをして人々の白い液体をぶっかっけるところがあるので、自覚的でさえある。
でもこれは、成功した大スターでさえ、簡単に忘れ去られていくと現実を例に出して描く映画だ。聴衆や評論家は簡単に見捨て、映画会社は切り捨てる。理由は分からない、時代のせい、とやらで。
デイミアン、『ファーストマン』で、なにを言われたのかね。(俺は大好きだ)
なら、好かれるように自分を曲げて愛される作品を、と彼はしなかった、エゴイスティックに自分が今できることをやりたかったことを詰め込んだ、失敗してでも、今残せるものを残そうとした、傲慢に。嫌わば嫌えとばかりに。
そうしたら、もうこのクソは出すことをできないかもしれないから。

 

バビロンは伝説でしかない。しかし、その伝説の町づくりの工法は受け継がれ、瓦礫の上に町がつくられ続けていく。

そう、「バビロン」は、かつて実際にあったバビロニア帝国の当時世界最大の都市の名前。もちろん、今はない。
聖書では、「バビロン」は「バベル」として登場する。実は、バベルの塔ではなく街の名前で、その街が塔になっていく。
創世記では、「混乱する」を意味するヘブライ語の動詞ビルベル(bilbél)から、「混乱」という意味で説明されている。
天まで届く塔を造ろうとして、神の怒りを買い、崩され、人々は言葉を乱され、協力できないようになった、という。
サイレントの時は一緒だったのに、トーキーでみなバラバラになる。バベルの塔の寓話と同じ状態になる。
「バビロン」は、まさに、孤独を生み出した塔であり街だ。

最後に、羅列される映画も、孤独や人がいないカット(動物、ロボットやCGなど)が多く選ばれている。

オーバーラップでなければ、カットで繋がれるカットは孤独だが、繋がることで意味を持つ。
闇からじっくりと溶明(フェイドイン)していく時、映画館の暗闇の孤独はゆっくり光が浮かび、見るべきものを目にする。
色も分割され、混じり合わない。
色はそのまま肌の色、土地の色とも呼応する。
水に落された色水も混じり合わない。
同じ水なのに。
でも、映画を映写する光は白く(赤青緑黄は、心理四原色と言われる。光による色は全部混ぜる白になる)なる。
上映中の映画館内を撫でていくカメラは、真俯瞰の画になり、人を点にし、一人一人に分
ける。
それでも、映画館では孤独な人々は一緒にいて、同じ映画を見ている。
まるで、バベルの塔(バビロン)を見上げるように。

 

___________________________

追記。

マヌエルは、ネリーに「どこへ行きたい」と問われて、「映画のセットに行きたい」と答える。
これが、この映画の受け取り方として提示されているのではないか。
本物ではなく、つくられた偽物だからこその夢。
本物は存在しない。
本物=現実は醜い。だから、偽物=虚構は美しいのだ、と。
屋敷に象を連れてきた話の壮大さではなく、象はクソをする生き物であり、めんどくさいし、宴客は喜ばず、逃げ惑うのだ。
映画人は死体を困ったなぁ程度でどうごまかすかに思考が行く。
映画はその最たるもの。
サイレントなら、より偽物でいられたのに、トーキーは本物に近づき、醜くなってしまう。

醜いものを美しくするから、映画の虚構は愛しいのだ。
マヌエルは笑い話、苦労だった過去が、『雨に歌えば』で虚構になることで愛しく見つめることが出来た。
始まりの象のエピソードは現実の醜さを。
終わりの映画館のエピソードは虚構の美しさを。

死後50年後に虚構の中のスターを友達と思えるのは、美しいからで、現実はややこしくて面倒で友達にはなれないのだ。


それはデイミアン・チャゼル自身がそうかもしれない。
音楽の道から映画の道へ入った彼の映画への思いは複雑なのだろうし、このひねくれ者感が映画に出ていて、波長が合わない人もいるだろうしね。

 

 

 

 

 

 

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