信じるものは掬われる
【解説】
元は「信じる者は救われる」で、キリスト教聖書ローマの信者への手紙に書かれている言葉。なので、この場合の「信じる」対象は、神やイエス・キリストとなる。
聖書のいたるところに類語や類似表現がある。
こちらは、信じすぎると、失敗したり、騙されたり、裏切られたりして、痛手を負う、という意味。
「信じる者は救われる」と「足を掬われる」とかを重ねた言葉。
元は「足を掬われる」だったが、現在は「足元を掬われる」という表現の方が一般的になってしまった。
油断をしていると足元を掬われるぞ、なんて使う。
これは、元ネタは、ネットで見つけた言葉。「信じる者はすくわれる足元を」だった。
信じる対象は、日本だと、神というよりも、データか、自分か他人か、指導者か、努力か、愛か。
実際、科学的には疑うよりも信じた方が自分の中の力は出やすいことが証明されている。
プラシーボ(偽薬)効果などがその一例。
ただ、それぐらいでは届かない病気や苦難もあるのだけれど。
それでも、信じるということが自分だけでなく、誰かの力になることはある。
物事は裏と表の一枚のコインで、信じる者は救われるし、掬われるのだ。
仏教だと、大乗のように、なんか掬われるでも救われるイメージがあるけどね。