goo blog サービス終了のお知らせ 

菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

『かく恋慕』の話をつらつら、くんくんと。

2020年03月13日 00時00分14秒 | 創作捜索日記

『かく恋慕』の初上映が2019年3月の【ええじゃないか とよはし映画祭】だったので、一周年を記念しつつ、今日はおいらの誕生日でもあるので、裏話や作品の裏に込めたものや、ちょっとした小話、アイディアの原点をつらつらと書きます。

なので、最上級のネタバレになっております。
鑑賞後に読まれることを推奨します。

 

 

 

 

 

 

 

2010年に『ライフ・イズ・デッド』を企画していて、漫画は音無しで音楽ものをやれる。グルメものもそう。映像作品でもグルメものはある。原作漫画の中でわずかに描かれていたゾンビの匂いの部分を映画ならではの表現で描けないだろうか、と思いつき、嗅覚を表現することにした。
そこから、始まって、制作中の2011年には、これは匂いをメインにした映画をつくれると思いつく。『パフューム』などいくつか匂いを中心にした映画やドラマはあるが、それとは少し方向性の消えていく匂いについて描くアイディアを思いつく。いい匂いを中心に様々な匂いがしないからこその匂い、愛や犯罪、金といった匂いがあるとされるが具体的な匂いがない匂いも描けるのではないか。愛の匂いは特に人それぞれだろうから、ラブストーリーをベースにアイディアをつくりはじめる。

2011年、匂いで浮気に気づいた妻が浮気した夫が死に、愛人と共に匂いで共有する話を書き上げたのが2012年。コンセプト自体はこの時のものが現在の完成形にも残っている。
 
2013年、そこから一緒にいられない人を匂いで思い出すという部分を取り入れて、浮気相手の残った匂いを消す話になり、夫が死亡し、愛人と匂いを共有する話になる。『ライフ・イズ・デッド』の姉妹編と考え、妹と兄の兄妹愛との比較で夫婦の愛を確かめる部分を追加。この頃は妻と愛人と夫と妹の4人の話だった。この頃は、現在のカスミがやる死後の行動は愛人が行っていた。

2015年頃、匂いのことをさらに調べて、フェロモンや女性の生理こも調べている内に、戯曲『甘い薬』を上梓。この頃、愛人を亡くし、ストレートに夫婦の愛情を描く話に。最初の電話の夫のシーンは愛人との会話だった。

2017年に、パン屋の夫婦が子供をつくり、妻はパンと子供に夫の匂いを感じるという話になる。妹は兄のパンの味を覚えており、義姉が再現することで邂逅する、展開に。

この頃、ラブストーリーでも男女の愛情というよりは、それぞれが深く相手を想うことが強調されるようになり、完成形に近づく。

自主映画で予算を組んだら、パン屋できっちりとるのは難しそうだと、普通の夫婦の話に戻し、パン屋は要素として残すことに。

2018年に、入院した際、匂いで病気をかぎわける訓練された犬がすでに医療の現場で活躍しているというのを見て、病気を匂いで見つける部分を加えた。
好きな人の匂いが病気で変わっていく話を軸に置き、ほぼ現在の形に。

キャストとロケ地が決まって、決定稿が上がる。
だが、撮影が期間が置いて行われるので、撮影後に改稿し続けることに。

 

 

ラブストーリーでも、ハードボイルドなラブストーリーを目指した。いわゆる難病ものとしては描かない。涙を絞るシーンはほぼ排除。登場人物がその境遇に涙を流すシーンはない。生活の中の涙は多少描く、病気の痛みからの嗚咽、赤子の泣き声はあえて描いた。ただし、あるシーンでふいに零れてしまった涙は残した。

 

題名は、遊びの"かくれんぼ"と相手が欠けた恋慕="欠く恋慕"をかけて、ラブストーリーであること、ちょい”クサい”感じを狙ってつけた。
新田恵利の写真集に同名のものや、カノエラナの歌『ひとりかく恋慕』やある旅館のプランなどがあったが、もちろん、そこからではない。

多くの台詞やシーンを、あえて明確ではない、いわゆる匂わせる状態にしている。ここにも匂わすという表現を入れた。

 

あの東日本地震以後、東北、特に福島で幽霊の目撃談がかなり増えたそうだ。
津波で本人も物も場所さえ、なにもかも、すべて流されてしまっても、思い出の方からやってくる。
『ライフ・イズ・デッド』でどうしても入れたくなって仕上げ中に、福島まで海の実景を撮影助手の満若とドライバーと3人で撮りに行った。そのとき、強烈な潮の香りを嗅いだ。みんな流されてしまっても磯の香りは変わらない。なら、この香りの向こうに彼らはいると思った。磯の香りを嗅ぐたびにあの時の海が思い出される、今も。
これが、『かく恋慕』の発想の原点。

 

挿入歌の『秘密の部屋』はパフュームの楽曲を意識して欲しいと『ライフ・イズ・デッド』の時にAYSJYTZの五阿弥ルナくんに注文した。もちろん、その時は消子がアイドルに憧れている設定だったからだが、匂いのシャレもこめていた。
ゆえに同じアイドルがいる設定、つまり、同じ地続きの世界。ゾンビ禍の終わった後の世界なので人が少ない。

 

メロドラマの様で、ハードボイルドなラブストーリーといえば、おいらの世代では、ウォン・カーウァイだ。ウォン・カーワァイをがっつり通ってきた作家としてオマージュを捧げた。だが、その画だけではなくテイストをこそ引用したかった。それは『ムーンライト』でも行われていること。エリック・コットの『初恋』(1997)を意識したところもなくもない。
特に『花様年華』の静物による感情表現は大いに取り入れた。

ハードボイルドなラブストーリーとして、アキ・カウリスマキの『パラダイスの夕暮れ』も意識している。

ウディ・アレンの「現実は三流のメロドラマを真似る」にもちょっと影響を受けている。三流メロドラマのような題材でも、映画の力で強いドラマに変えられると。

コーヒーのカットは『コーヒー&シガレット』のイメージ。余談だが、コーヒーよりcoffeeより、珈琲と書いた方が匂いを感じる気がする。

夫婦の関係はO・ヘンリーの『賢者の贈り物』を意識した。

抗がん剤で無精子症になるのは、実際にある副作用の一つで、治療開始前に精子の冷凍保存を勧められたりするし、この副作用の改善方法も生まれつつある。

かくれんぼのシーンは実体験。流しの下に隠れたのは、その時の彼女だった。流しが大きいタイプの部屋だった。流しの下収納も深く、手前にだけ調味料などを置いていたので、奥に押し込むだけで、まぁまぁのスペースが現れる。
今回もその設定のために流しの下が大きい部屋を探すのに苦労した。

妹がカップヤキソバの匂いを嗅がせるのは落語の『疝気の虫』から。

 

最初のベッドのアリカは、ドミニク・アングルの 『グランド・オダリスク』の空間性を多少意識した。頸椎は増やせませんし、構図を引用したわけではない。

かくれんぼで探す制限の1分は『欲望の翼』の1分から。
カーテンなどのインテリアと隙間を見せる実景、物を買ってビニール袋で持ち歩くのは『花様年華』から。
アリカが顔を隠して、かくれんぼの鬼で数えている姿は『花様年華』の木の洞への告解を意識している。
ベットでシャツの匂いを嗅ぐシーンは、『天使の涙』のマネージャーのベッドのシーンから。

コウキの死を暗示するシーンは、『僕を葬る』のラストカットを意識した。
 
アリカはUFOの匂いが嫌いだが食べるようになるように、カスミは濡れるのが嫌いなのに消臭の時に濡れる。
 
匂いの粒子の話の後で、カスミが撒くのは消臭の粒子で液体が粒子化する。だから、洗剤は粒状のものにした。パンが粉でもあることも意識している。
 
 
 
アリカは鼻の人、コウキは目と舌の人、カスミは耳と肌の人になっており、それぞれがそれぞれの領分に少しずつ入っていく。夫は抗がん剤の副作用で鼻の人になり、カスミは病院に行くこととお願いを達成することで鼻の人になる。アリカは電話や外の世界の音を聴き、月を見て妹の行動で目の人に。
アリカもカスミもコウキもカップヤキソバを食べるところを見る。3人でパンを持って嗅ぐ。
 
二人が抱き合うと鼻と耳の間隔がとても近しくなる。そういうことを散りばめてあります。
愛情も、それぞれの優先される感覚から始まったりするものなんじゃないかな。
 
 
おいらは現実の問題と物語に溶け込ませるようにしている。『かく恋慕』はそれが薄目ではあるが、やはり入っている。それは抗がん剤の無精子症のところもそうだが、一番は患者の家族が看病の内に病気のような状態になる第二の患者という状態だ。病人と同じようになっていくが病人が第一になって、身内の方はなかなか顧みられない。その孤独を描くのもテーマの一つだった。だから、アリカは優しい狂気に入っていく。それを治療しようとういうのがコウキのあのお願いだった。
 
 
 
 

コウキ役の役者には病気を表現するため、健康なシーンと病気のシーンをひと月以上空け、約10キロ体重を落としてもらうことを条件に入れる。
どうせならと、撮影も季節に合わせ、初夏、夏、秋冬の3か月です押しずつ取るスケジュールにする。この条件を飲んでもらえるキャストを探すのは厳しいのが予想されたが、それこそ自主映画でやる意味でもあろう、と決断。上記の条件をやってくれる方という文章と鼻が綺麗な人と添え、シナリオもすべて渡して募集。
100名近いキャストが集まり、そのうち80名を三日間に分けてオーディションを敢行。
主要三役にそれぞれ3人ずつ選んだ。
選んだキャストに再度条件を確認し、いろいろあって、現在のキャストに決まる。選んだキャストは順位があるというよりは、それぞれに分かちがたい組み合わせがあったため。夫がこの人なら妻はこの人という状態。落とした役者には優れていたが相手役がいなかったために選べなかったというケースもあった。関係性を描く作品なので、そこをおざなりには出来なかった。

実際に選んだ人数は8名で、妻アリカ役に決まった手島実優は、妹カスミ役の候補でもあった。
芋生悠はイモウだから妹にしたわけではもちろんなく、札内幸太と芋生悠は兄妹の組み合わせは二人の鼻の感じが似ているからというのと芝居の方向性が近く、息が合っていたので選んだ。二人は同じ事務所で、事務所にはなんとなく近しい顔が集まる傾向があり、同じ事務所の稽古を受けていたりして芝居の息が合いやすいというのがある。

芋生悠は名前は見たことがあって、多少有名なので、主演とのバランス次第では落とそうと思っていた。
手島実優は顔は見たことはあったが作品までは知らず、選ぶときに、すぐ見られる作品を見まくった。『カランコエの花』の再上映がK's cinemaで始まる前に選ぶ必要があったので、実は見たのは選んだ後に、手島実優の勧めで見た。あれを見た人によっては妹役の方が彼女はイメージしやすいのかも。手島実優は若いなりのはしゃぐ部分と都市以上に落ち着いた部分があり、アリカの明から暗に変わる部分を見せられるとも思っていた。『赤色彗星倶楽部』はもうキャストに決まった後だったので、なんとなく嫌な予感もして見ないでいた(ネットで見ようと思えば見れたのだが)。だから、『かく恋慕』完成後に入選した中之島映画祭で初めて見た。もし選ぶ際に見ていたら、作品のイメージがだぶるかもしれないと彼女の起用に二の足を踏んだかもしれない。映画制作のタイミングはかように難しい。

他人の作品は演技力はわかるものの、役によって全く必要なものが違うので、結局、自分で演出した相手の状態(時期で演技も変わってしまうので)で見極めないと、役と役者がズレることがある。
とはいえ、多少のズレは当たり前にあるもので、キャストを決めた時点で、その役者と役の人物の間のすり合わせを行い、脚本も修正する。そこで息をしている生きた人に変えるようにするために。あのタランティーノでも、キャストが決まったところで脚本を再度キャストに合わせて書き直すと言っていた。

芋生悠の運動能力を見て、妹は運動系の部活の設定を加え、走るシーンを作った。妻は運動しないことにして、対比を加えた。犬のイメージがあったので別に運土嫌いにはしてなかったが妹カスミとの関係が膨らんでくれたので、よかった。
アリカが病院に行く途中や帰りに公園で休むのは疲れやすいからでもあるし、川の匂いでリセットしているからでもある。

『かく恋慕』で表現したかったのは、喜怒哀楽を通常よりも抑えたハードボイルドな人物たちによる内面の大きなうねりだった。それには難しい人物の理解とささやかな表情で深みを出してもらう必要があり、なにより、シーンの劇的瞬間をわざとズラし、時制も動かすことで、大きな流れで内面を表現しているようなつくりにしてある。

そして、通常とはズラすことで、別の感覚器を刺激し、直接的な匂いを現す映像への感度を上げてもらいたかった。

 

撮影の一部は埼玉県の小川町(おがわまち)で行った。小川町駅は東武線の終点の一つで東京からはまぁまぁ時間がかかる。夜のシーンがほとんどないので、太陽があるうちの撮影が勝負だった。なので、早朝に現場集合になっていた。まだ空はうす暗い頃、そこに着いたおいらのスマホに芋生悠から電話が来た。「すいません。小川町(おがわちょう)に来てしまいました」 都営新宿線の小川町駅と間違えたのだ。「おお、やっちまったなぁ」とクールポコのように言いつつも、明るく急ぎつつ安全に向かうように告げる。これは確実に2時間近いロスになると判断したものの撮るものもないので、赤子との絡みををじっくりと撮影したところ、あの赤ん坊とたわむれるアリカのシーンが撮影できた。まさに怪我の功名だった。芋生悠も遅れたものの気後れもなく、病院の兄妹の屋上での焼きそばを食べながら話し続けるシーンを5つほど食べ続けてくれ、台風が迫る悪天候であきらめようとした屋上シーンをわずかな晴れ間で撮り終えることが出来た。

編集では一度タイトなものも作って人に見せたが、多くの意見は冗長という意見や説明が足りないというものが多かった。そこで、逆に、もっとそれぞれのカットを延ばすことに。なぜなら、意見のほとんどが匂いのことではなかったので、シーンの展開を追うことに集中して、匂いまで意識がいっていないのではないかと考えたからだ。
加えて、分かりやすさのために落としたシーンをほとんど戻し、さらに展開を複雑にした。複雑にしたとはいえ、クリストファー・ノーランの方法論の一つである「観客は勝手に時間を繋げて物語をつなげる」(かなり意訳)に賛同しているので、シーンが増えれば解釈の材料になりえるといった考えに基づいて行った。そのため、シナリオとはシーンのつながりはそこそこ変わっている。

 

感情表現を抑えた人物描写をするのは、人生の苦しみと戦っている姿を見せるのその方が内面が見えるから。コメディでも同様で、ストーンフェイスのバスター・キートン映画の感情の豊かさはその肉体と道具の動きで表されているし、北野武映画では山の下で滾るマグマがにじみ出ている。役の人物の感情を同情や外側からの理解ではなく、観客の裡に発生させるために、そういった表現を選んでいます。
言うほど簡単ではないので、いまだに成功しているとは大きくは言えない。
 

死を表現する黒味は最初30秒あった。何も映らないで不安になる時間として、これぐらいは必要だと思った。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の1分に比べれば短いと言っていたが、映画祭などで上映しているうちに徐々に短くなって、今の長さ15秒に落ち着いた。

手島実優は突発性脊柱側弯症の手術の後遺症で背骨があまり曲がらないため、ベッドシーンの振付に苦労した。『ライフ・イズ・デッド』でもベッドシーンがある。これはかなり複雑な振り付けでの1カットになっており、それを超えるつもりだったが、断念して、シンプルなものに変え、夫婦の関係と伏線や展開に焦点を絞り、邦画では少ない親密なピロートークのシーンをつくることに専念した。それでもそこそこ難しい動きはあり、手島実優はなとか頑張って乗り越えてくれた。あのシーン自体もなかなかのものなので、そういう芝居を当然のように引き受けてくれる女優と出会えたのは幸いとしか言いようがない。こういう役者を愛している。

初めて本格的に撮った自主映画『つづく』と『おわり』で主演だった酒井翠も、映画に献身してくれる女優だった。自主映画をやるときの節目に、彼女らと映画をつくれたのは僥倖で、感謝の言葉が尽きない。もし、おいらの映画が評価されるとしたら、その多くは、おいらのようなしちめんどくさい監督の演出に応えてくれた役者陣やスタッフに負うところが大きい。改めて、ここで、ありがとう、と言わせてください。
そして、見てくれたあなたにも。ここまで読んでくれたあなたにも。私を育ててくれた人たちにも。

「ありがとうございました。」

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第28回 皮膚で見る。 | トップ | Twitterのまとめ 3/13 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

創作捜索日記」カテゴリの最新記事