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菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

悪夢有り。 『ナイトメア・アリー』

2022年03月30日 00時00分54秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第2028回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

 

『ナイトメア・アリー』

 

 

 

20世紀前半、見世物ショーの世界に入り、マジックを学んだ男が野心を抱くサスペンス・スリラー。

ウィリアム・リンゼイ・グレシャムのカルトなノワール小説『ナイトメア・アリー 悪夢小路』の、1947年『悪魔の往く町』以来の再映画化。

アカデミー賞の作品賞にノミネートされた。

 

主演は、『アメリカン・スナイパー』のブラッドリー・クーパー。
共演は、ケイト・ブランシェット、トニ・コレット、ウィレム・デフォー、ルーニー・マーラ。

 

監督は、『パンズ・ラビリンス』、『シェイプ・オブ・ウォーター』のギレルモ・デル・トロ。

 

 

 

物語。

1939年のアメリカ。
ある事情から故郷を後にしたスタンは、怪しげで華やかなカーニバルの座長クレムに気に入られ、働き始める。
スタンは読心術マジックを行うジーナとピート夫妻と出会う。彼はジーナに目をかけられ、ピートからマジックを学び始める。
スタンは電流ショーの美女モリーが気になるが、彼女の親代わりの怪力ブルーノと少佐に目をつけられる。

原作:ウィリアム・リンゼイ・グレシャム 『ナイトメア・アリー 悪夢小路』
脚本:ギレルモ・デル・トロ、キム・モーガン

 

 

出演。

ブラッドリー・クーパー (スタントン・カーライル/スタン)

ケイト・ブランシェット (リリス・リッター/

博士)
ルーニー・マーラ (モリー・ケイヒル/電流美女モリー)

トニ・コレット (ジーナ・クランバイン/天空のジーナ(ジーナ・ザ・シーア))
デヴィッド・ストラザーン (ピート・クランバイン)
ウィレム・デフォー (クレム・ホートリー/座長)
ロン・パールマン (怪力ブルーノ)
マーク・ポヴィネリ (少佐)
ポール・アンダーソン (獣人)

リチャード・ジェンキンス (エズラ・グリンドル)
メアリー・スティーンバージェン (フェリシア・キンボール)
ピーター・マクニール (キンボール判事)
ホルト・マッカラニー (アンダーソン/ボディガード)
ビル・マクドナルド (スタンの父)

 

 

 

スタッフ。

製作:ギレルモ・デル・トロ、J・マイルズ・デイル、ブラッドリー・クーパー
キャスティング:ロビン・D・クック 

撮影:ダン・ローストセン
プロダクションデザイン:タマラ・デヴェレル
衣装デザイン:ルイス・セケイラ
編集:キャム・マクラクリン
音楽:ネイサン・ジョンソン

 

 

『ナイトメア・アリー』を鑑賞。
39年アメリカ、見世物ショーの世界に入り、手品を学んで男が野心を抱くサスペンス・スリラー。
ギレルモ・デル・トロがウィリアム・リンゼイ・グレシャムのカルトな人気ノワール小説『ナイトメア・アリー 悪夢小路』を、1947年の『悪魔の往く町』に続く半世紀ぶりに再映画化。リイマジネーションてやつだが、その作家性が存分に発揮され、独特のジャンル発展を目指している。
共同脚本のキム・モーガンはフィルムノワールの研究家でもある。
なので、がっつりフィルムノワールのようで、ジャンルを広げるピカレスクロマンになっている。
野心に火をつけた男はあの男の言葉のようになっていく姿、二つの予言を見逃すな。
凄まじく整った脚本で、物語は外見的行動にいくつもの道を提示し、内面の謎で推進させる。パルプでありながら古典文学のような格調も与えている。ロワイヤルなハンバーガーてとこですかね。タイトル『悪夢小路』についても劇中でしっかり触れてます。
アメリカ映画的なテーマ、シェイクスピア的かつ神話的な軸で、ズドンと一本貫き、お手本の一つ上を行く応用モチーフなど映像的技法で語るその手腕に唸る。
得意のモンスター描写は内面に入り込み、心理にじわじわと遅効性の毒として黒い虹を咲かせる。
ブラッドリー・クーパーの善良な趣が罪悪感を際立たせて、映画を牽引する。
とにかう、豪華な演技で魅せるスター(=モンスター)が次から次へ現れる。ケイト・ブランシェット、トニ・コレット、ウィレム・デフォー、ルーニー・マーラ、デヴィッド・ストラザーン、ロン・パールマン、リチャード・ジェンキンス、メアリー・スティーンバージェン……。4人の女優に翻弄される色男。イケメンがゆえに、という『美女と野獣』の反転でもある。
中でも、ケイト・ブランシェットの美怖さが悪夢に出る。
つまり、キャストが今作を最上級の見世物小屋に変えている。
美術と撮影と音楽の複合的作用によって、極上の穴へと誘い込む。
カメラワークはあえてスタンダードで積み重ねている辺りのこだわり。
映画は前後の構成で、それはまるで建築物を表から見る楽しみ、中に入ってみる楽しみ。体と心の外面と内面の楽しみともいえる。
そういえば、アンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』(1948年)と、エドワード・ホッパーへのオマージュがありましたね。
定番になりつつある雪の使い方は、ギレルモ・デル・トロ風味の別の味似広げている。少々技に溺れたところも感じなくはない。
ホラーのA級化に心血を注いだ作家が、今度はノワールのジャンルをA級へ戻そうという試みではななかろうか。
わずかにある穴さえもモチーフにさえ感じてしまう。
見世物小屋の地獄アトラクションの毒々しさに見惚れます。
つながりを断てば、返り血に溺れる瓶作。


 

 

 

おまけ。

原題は、『NIGHTMARE ALLEY』。
『悪夢小路』。

 

2021年の作品、

 

制作国:アメリカ
上映時間:150分
映倫:G

 

配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン  

 

NIGHTMARE ALLEY / ナイトメア・アリー(2022年3月25日劇場公開)|eigadays|note

 

Amazon | Nightmare Alley | Spain, Gresham, William Lindsay, Rodriquez,  Spain | Mystery

 

ナイトメア・アリー | 種類,ハヤカワ・ミステリ文庫 | ハヤカワ・オンライン

 

 

 

 

 

 

 

ややネタバレ。

エノク(ヘブライ語: חנוך, חֲנוֹךְ‎; ギリシア語: Ενώχ, Enōkh, エノフ; アラビア語: إدريس‎, イドリース; 英語: Enoch, イーノック、イノック)は、旧約聖書の『創世記』や、エチオピア正教では旧約聖書の正典に含まれる『エノク書』、『ヨベル書』にその名前が現れる人物。エノクとは「従う者」という意味。ヤレド(イエレド)の子、メトセラの父とされる。

創世記の記述
『創世記』では、エノクという名前は二度現れる。一度目は4章17節であり、カインの子としてその名が記される。カインは建てていた町に彼にちなんでエノクとつけたという。
二度目は5章21節から24節である。その箇所によればヤレドの子であるエノクは、65歳でメトセラをもうけ、365年生きたあと、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」という。このエノクはノアの曽祖父にあたる。エノクは『創世記』のこの部分のみにしか現れないが、死についての記述がなく「神が連れて行った」という表現がされていることから以後の人々に好んで取り上げられることになった。(wikiより)

 

エノクが分かると、話の流れは読める。そこにサスペンスが生まれる。
スタンはキリスト教に通じており、その名前にぎくりとしている。

 

ギレルモ・デル・トロは原作も映画も知らなかったそうだが、原作ファンのロン・パールマンが面白い小説があるとギレルモ・デル・トロに薦めたそう。
なので、原作からのリイマジネーションと言っているが、今作を見ると最初の映画『悪魔の往く町』への目くばせも多い。
原作は邦訳がなかったのが今作の公開で、2種類発行された。
原作は、もっとエグイそうですよ。

 

 

マーティン・スコセッシは今作を大絶賛している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

今作が、フィルムノワールをどう発展させたか。
それはいくつかあるし気づいてない点もあるだろうが、二点ある。
一点目は、ノワールとホラーを融合させた点。
つまり、スタンの中には、ずっと恐怖がある。
しかも、それは罪悪感と、自分がまともな人間ではないかもしれないという血の恐怖。
それは、フィルムノワールだったオリジナルをリメイクしてノワールせずにゴアに近い方向にした『スカーフェイス』的な進化。

二点目は、ノワールで特徴的なファムファタールやメンター(指導者や憧れ)や相棒の存在の家族的かつ神話的なアレンジ。
ファムファタール(=魔性の女)が3人出てきて、そのすべてが3つのバリエーションを持つ。肉体的にジーナは相手から、モリーは自分から、リリスとは関係を持たない。
相棒が女性なのも、かなり新しい。
関係が複合的で、家族を形成する。
家族を形成する。父、疑似父(ピートとクレム)、疑似母(ジーナ)、義父
(ブルーノと少佐)、相棒(リリス)、妻で相棒(モリー)と複合的。
スタンと獣人も兄弟のような関係にある。

ちなみに、未来が暗示されるのもノワールによくみられる特徴の一つ。



エノクはカインの息子。
カインは、弟アベルを殺したキリスト教では史上初の殺人者。
身内を殺したということをスタンはどきりとする。
ピートにも父との関係を当てられ、罪の意識が根を伸ばしていく。
しかも、瓶のエノクは生まれる前から母を殺した身内殺しの血を継いでいるように思える。
それにより、最後、スタンが新しい座長の部屋でエノクを見た時、消えたエノクと同じように、消えるべきだと己の宿命を決めてしまう。

それは、そのままスタンが父の血を感じているからで、それを拭うために人の上に立とうとする。
で、マジシャンの呼び名である、グレイト(偉大なる)・スタンへとなろうとする。
幽霊ショーは稼げるだけでなく、彼を罪の意識を拭うほどの尊敬や力を与えてくれてくれた。
そして、ピートが言ったように、嘘を本当にしてしまう。
だが、実際に、嘘を本当にする人々(フェリシアは行動で、エズラは金で、リリスは知恵で)に会い、己を知る。
そこに、逆の意味で、嘘を本当にするモリーの行動により、追いつめられる。

エノクは、消えたことから、「神と共に歩む者」とも呼ばれる。
全てを見通す存在でもあり、神の眼を意識させる。
目がこの映画のもう一つのモチーフ演出であり、メイクでも目が強調されている。
地獄館では無数の眼の絵の前で、スタンと獣人は交流し、獣人に殴られ、スタンは彼を殺しかける。
これは、そのままのちのスタンとエズラの事件と同じ構図だ。


エノクは子宮から出れず、瓶に入れられたまま。
スタンは、燃やす家の中に穴を掘り、父の死体を入れ、灰にしようとする。
父も己も消そうとしたのだ。エノクの伝説のように。
スタンは自分を閉じ込めていた場所から逃げ出したかった。
獣人の穴を上から見た時、それは蘇る。
あれは俺だ。見世物一座に入り、檻の中の獣人を見た時にも、逃げ出した獣人を見た時も思う。
あれは俺だ、だから、俺はあれにならない。
ジーナの家も、風呂も、カーニバルもすべて、俺を閉じ込めるものだ。ここから出るんだ。
床下のピートを見て思う、これは俺だ。
彼らといたら、俺はあれになってしまう。
死刑台をイメージしたのは、彼の罪悪感だ。
だが、そこにかけられても死なない女がいる。モリーだ。
俺は彼女のようになる。
モリーの車の部屋も同様に横になった穴、出ていける穴に見える。
ピートが求める酒のボトルも穴だ。
その酒とメチルアルコールが入っているのも箱という穴。
スタンは再び穴の中で疑似父であるピートを殺し、穴から抜けだそうとする。
しかし、2年後、スタンのショーのホールは円形で、穴だ。
彼はいまだ穴から出ていけない。
横になった穴は長くなり、スタンは出ていけない。
あのカーニバルの天国と地獄のアトラクションの横になった穴の奥にいた獣人と同じように。
リリスの秘密である録音機や金庫はまさに横になった穴。
穴の中の遺品を取り出し、スタンはドリーの情報を手に入れる。
これぞ、穴から出られるチャンスなのだ。
昔の仲間が戻ってきた。呼んだのは壁の穴であり箱である電話ボックスによって。
死刑台は、電気椅子はなく首つり台だと示される。
長い路はすべてスタンを出さない穴となる。
ドリーのための庭の扉を出ても、路地という横穴、車という箱が彼を閉じ込める。
車という箱を捨て、壊すが、リリスの金庫から出てきた封筒と言う穴からは一ドル札の束が出てくる。
横に連なった列車と檻に隠れ、スタンはまた見世物一座に舞い戻る。
座長車の箱の中で、瓶の中のエノクを見る。
スタンは思う。あれは俺だ。
そして、新しい座長はクレムが言ったのと同じように、瓶という穴からアヘン入り(ピートに渡したアルコール)であろう酒をスタンのグラス(エノクの瓶でもある)に注ぐ。
そうか、これが俺だ。
スタンは獣人となること(=罰と死)を受け入れる。

 

同時に、すべてを消し去る火もまたこの映画の重要なモチーフとなっている。
父を燃やす火、モリーの電流、策略とともにある火、拳銃。
何度か、フラッシュバックする火は時折、逆再生で思い出される。
穴に吸い込まれるように燃える日は、スタンがそこに戻ることを恐れるイメージ、戻る予言として彼を苛む。
それは、火を消す水によって、際立たされる。
強い雨、鶏の血、酒とメチルアルコール、雪、モリーの手に塗られる血として。
罪と共に雨が、雪が降る。
スタンの野心の火を消す水。
見世物一座に戻る前にあの時計を手放し、スタンは酒を手に入れる。
だが、その酒は最後に彼をさらに落とす。
獣人へと。

 

獣人はギーク。
ギークは、アメリカでは時代とともにオタクを指す言葉になった。
オタクのギレルモ・デル・トロもそう呼ばれたことがあっただろう。

リリスは、いくつも貌をもつ神話の存在。
アダムのイブの前の妻とも言われ、男児を殺す悪霊、サタンの妻でもある。

最初の獣人を病院に置きに行くとき、路地には十字架のネオンサインがあり、請われて、「us」と「sus」と光っている。
「us」は「私たち」、「sus」は「suspicion(疑念)」の略語で「怪しい」、「疑わしい」、「見抜く」などの意味で使われる。

 

 

時代はあるとしても、幽霊を見せるというところで、スタンは目が曇っている。成功に目がくらんでもいるので失敗しか想像できない。
だが、流石に客としてhそれを信じることが出来ない。
スタンのキャラと心理に乗っかり過ぎたところがこの映画の穴だと思う。
『悪魔の往く町』は同じことが起きるが、全然違う演出となっており、おいらはそちらにポイントを入れたい。モリーの意味がまるで変わる。これは、来月に『悪魔を往く町』の記事で書きます。
スタンの眼がくらんで、万能感と人を下に見ている点は同じなのだが。
あそこで、あえて、スタンかモリーが雪ですべるような手もあったのではないか。
神の手のように。
そして、それで雪の上に出来た穴を見せたらどうだったか。

読心術ショーのステージの上には、円筒状の天井があり、獣人の穴が反転したデザインになっている。




エノクだけでなく、ピートの言葉、タロットなどが予言になるが、天後と地獄のアトラクションの鏡など、ほかにもいくつか予言がある。
それが、裏切られないのが非常に道徳的。

 

読心ショーでスタンはエノクと同じ第三の眼の描かれた目隠しをする。
つまり、「あれは俺」なのだ。

 

 

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