泰勝寺跡(立田自然公園)
泰勝寺は熊本市黒髪四丁目にある細川家の菩提寺跡である。屋敷、庭園、墓地の部分に分かれ全区域が県指定の史跡となっている。肥後の初代藩主になった細川忠利公は寛永九年(1632)の肥後入国後、父忠興(三斎)は八代城に入っていた。三斎は小倉に立てた父藤孝(幽斎)を祀る泰勝院を八代に移築した。肥後城主となった忠利は寛永14年(1636)立田山山麓に祖父母(藤孝、麝香の方)と母(玉子ガラシャ)を祀る寺を建立し泰勝院(三斎の院号)と名付けた。忠利の死後その子光尚は京都妙心寺の住職大淵和尚を泰勝寺の住職とし、正保三年(1646)忠興の死去後、藤孝夫妻、忠興夫妻の四廟が並んだ。四つ御廟と呼ばれている。光尚は八代の泰勝院を廃して立田山に併せ瑞雲山泰勝寺と改めたが綱利の時龍田山と改称した。そのため泰勝寺跡と呼ぶ様になった。昭和三〇年以降は熊本市が庭園部分を借受一般に開放している。池と山林の妙のある三斎好みの仰松軒、苔園、梅園があり気晴らしに訪れる市民も多い、その他、歴代の細川藩主のほか宮本武蔵供養塔、武蔵の棺おけに引導を渡したと言われる春山和尚の供養塔などもある。
(参考熊本県大百科事典)
泰勝寺は熊本市黒髪四丁目にある細川家の菩提寺跡である。屋敷、庭園、墓地の部分に分かれ全区域が県指定の史跡となっている。肥後の初代藩主になった細川忠利公は寛永九年(1632)の肥後入国後、父忠興(三斎)は八代城に入っていた。三斎は小倉に立てた父藤孝(幽斎)を祀る泰勝院を八代に移築した。肥後城主となった忠利は寛永14年(1636)立田山山麓に祖父母(藤孝、麝香の方)と母(玉子ガラシャ)を祀る寺を建立し泰勝院(三斎の院号)と名付けた。忠利の死後その子光尚は京都妙心寺の住職大淵和尚を泰勝寺の住職とし、正保三年(1646)忠興の死去後、藤孝夫妻、忠興夫妻の四廟が並んだ。四つ御廟と呼ばれている。光尚は八代の泰勝院を廃して立田山に併せ瑞雲山泰勝寺と改めたが綱利の時龍田山と改称した。そのため泰勝寺跡と呼ぶ様になった。昭和三〇年以降は熊本市が庭園部分を借受一般に開放している。池と山林の妙のある三斎好みの仰松軒、苔園、梅園があり気晴らしに訪れる市民も多い、その他、歴代の細川藩主のほか宮本武蔵供養塔、武蔵の棺おけに引導を渡したと言われる春山和尚の供養塔などもある。
(参考熊本県大百科事典)