五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

声すみ河 清響灘

2009-10-09 03:25:54 | 五高の歴史
昭和十二年度(二百三十六号ー二百三十九号)
委員―竹内良知、足立正治、古賀廉造、加冷隆美、長屋憲雄(長尾は五月退学、二百三十八号の編集は平戸裕人が参加)
この時代創作の長尾寿雄の作品が多く自分の病気多分肺結核であろうと思うが、転地療養のため熊本を離れるまで編集に努力すると言っている。編集後記に於いては生活のない形骸ばかりの高校生が多いと云われている時、文学することは広義の意味で生活の探求であり主張でなければならない。この時代の特に二百三十八号は五高五十周年記念号であり巻頭言に雑誌部長八波則吉教授自らの執筆、十時校長の所感が掲載され、松浦寅二郎元校長の祝詞、吉岡卿甫元校長の龍南回顧、ハーンの九州学生・・・があり、近藤真澄元教授の追憶、山田準元教授の三十九年前の回顧、佐々弘雄氏の心の追憶、上林暁氏の耶馬渓の墓等々と五高の思い出が飾っている。小説では後の左翼運動で活躍する江口渙氏の隋筆〈蟻〉が目に付いた。




十二境の第六 声すみ河  清響灘 
その昔の黒本先生の紹介
夜に入りて、人も静まり空もさえ行く月のよこらにもなりゆけば、たちたぎつ流れの音の一入たかく錚々零々として千代の林の松風に和し、余音のかのも、このもをかたりて椎の軒端にしぐるゝ一気清空。心の底もすみぬベシ。これぞ名高き、この国の白川なりける。夏も半すぎて蛍飛び交い,川風の袂涼しく、さし昇る月のよすずみ、更に又、羽化登仙の想ありぬべし。こころ尽せぬ楽しみあれど、そのけしき、この辺よりは見ゆべきもあらず。只さやけき岩瀬の声すみわたりて、耳もこころもあろうところなれば、今はその心をとりて、この境の名たぐいには、加えたるなり。物には、声あり、色あり。色のみ物のけしきならんや。迅瀬水咽で声妄想の夢を洗い,青嵐風噛で、響性空の秋を伝う。このうちの味を誰かしる。   誰か知る声すむ川の声きけば
文章がきれいで我には一寸真似が出来ない表現である。
高森先生の解説では 声すみ河  清響灘これは工学部、当時の高等工業学校の裏を流れている白川の瀬の音のことであるという事である。