昭和十六年度(二百四十八号ー二百四十九号)
部長―池田長三郎
委員―今泉素行、宇野太郎、
新体制になり第二百四十八号の巻頭言には添野信校長の報国団予算発表時の訓示の要旨が纏められている。皇国二千六百年記念作文の募集が行われ、目に付くのは後の評論家谷川雁氏が「蒔く人・刈る人」を出している。それに五高教授から教育学部教授であった竹原東一教授の中国紀行「北支の印象」が目に付く程度である。部長を二十年以上努めた八波則吉教授が池田長三郎教授に交代している。
習学寮12境 くろかみ山
さて、千人が岡のうえにしげ山のそそりたてるぞ、問はでも、此の山と知るべき。
能因法師が歌枕に、黒髪山は白川の辺にあり、とかきける。今は龍田山といえり。泰勝寺と言う、済家の大古舎刹ありて、細川侯香火の場なりしが、今はあらためて候の別業となし、そのうちに祖先の神を祭り給えり。むかし、加藤肥州候の祝い祭り給いし。豊国大名神の社などもありて、山路の露踏み分けて登れば、境内にありし石とやあらん、苔むして、累々とたてり、上に蔦もみじの生しげれるに、今は音づるものとては、松のあらかし、草むらのむしの音、その麓に拝聖庵などいう名所ありて,由井の正雪が昔を偲ぶ巨巌などもあれど、問う人はまれなり。何れも有為転変の世の姿。窓より眺めやるにも、そぞろに悲風の煙嵐蒼莾うちより来るを覚えるなり。
いでていなばあめの下おほえ烏玉の、くろかみ山のみねのむら雲
立田山は五高のすぐ裏にある小さい山である。昨日紹介した小峰墓地等があり、細川家の菩提寺泰勝寺があり、熊本市民の憩いの場として、朝・夕には散歩する人も多い。五高時代の寺田寅彦がバイオリンの練習をこの山の広場で練習していたと言うエピソードは有名である。
この山の中腹にある五高東光会の発祥の地に立看の説明文を転記する。
九重之塔建立由来記
元禄15年、赤穂義士四十七名が主君の仇を討った時、大石内蔵助外十六名は、細川家お預かりとなり、その応接方を命ぜられたのが、御使番として禄二百五十石を受けていた堀内伝右衛門であった。伝右衛門は深く義士の志に感銘し、昼夜、心を尽くして親切に接待した。藩主細川綱利は深く之を賞し、褒美として伝右衛門が江戸勤務を追えて熊本に帰任したとき、立田に隠居用屋敷を作って下賜された、その後堀内一族が居住し、堀内屋敷と言い伝えられていた。伝右衛門は2~3年間この屋敷に住んだと思われるが、病を得て宝永6年10月、本人の知行地である山鹿に隠居した。伝右衛門は所謂世に伝わる「堀内伝右衛門覚」を手録したが享保12年8月26日、八十三才にて死去、夫妻の墓地は山鹿市の日輪時に祀られている、なお、伝右衛門は藩主綱利に懇望して、十七義士の遺髪を下与えされ、日輪時に遺髪塔を建てて手厚く供養した。
伝右衛門が立田の隠居用屋敷を出た以後の資料は残っていないが、その後約200年にわたり、代々、堀内家一族が十代余にわたり居住していたことは間違いないようである
堀内家最後の住人は堀内藤太は、明治二十二年所有権の登記をしているが、明治三十四年旧藩主細川護成に屋敷を譲渡、返却したことが登記簿に明記されている。また藤太がこの地を出たことは、このあたり一帯を水田化しようと北側に貯水池を作り、計画したが地下水が出ず、また雨水もたまらず失敗したためと伝えられている。大正15年には細川護立が家督相続によって所有権を登記している。
木炭焼業をしていた石田民治郎は熊本県の木炭品評会で優秀賞を受けたがその技術が時の細川家の家令、長岡岩之助に認められ明治36年この屋敷に入居し、細川家の茶室用桜木炭及び一般燃料木炭の製造に当った。
第一次世界大戦終了後の大正末期は世界的大不況に見舞われ、木炭価格は大暴落し、石田家は倒産寸前に追い込まれたが、宿泊していた東光会学生は鳩首協議を行い、明治末期の先輩達にも激を飛ばして救援金を募集して石田家の倒産を防止した事は、誠に有難く感謝に堪えない所であった。かくして石田家は木炭焼を止めて農業に専念するとともに、長岡県令の指示によりこの付近一帯の細川家の杉林の管理に当った。かくして空家となった木炭焼作業員の部屋に新たに2名の五高生が入居した。障子が破れ、月の光が差し込むようなあばら家で、幣衣破帽、夜は石油ランプの投下の下で、勉学に励んだ、さらに入居希望者が増加したので。屋敷内に6畳2間の屋根は竹林葺きのあばら家を建て、2名の学生が入居した。
大正時代になると、わが国にも社会主義思想が急速に広がり、学生の間にも社会主義熱が盛んになり、五高にも社会科学研究会が作られて、大いに気勢を上げていた。
これに対して社会主義思想に疑問を持つ学生も多く「我々はもう少し胸元を見つめて、日本精神の良い所、東洋思想の学ぶべき所を探求しようではないか、物質より精神面を勉強しよう」と言う学生が集まり、東光会が同志六十七名の結合を以って、大正十二年三月七日結成され、此の屋敷を「東光会立田
山荘」と命名、東光会の本部として、活動することとなった。本部においては、大思想家である安岡正篤、大川周明、笠木良昭、高森良人、鈴木登氏等を招いてその指導を受け、又時には山荘前の草原でコンパを行い、天下国家を憂い論じ、或は放歌高吟して青春を謳歌した。
かくて東光会は、五高においては社会科学研究会に対立する特異な研究会として注目を集め、会員数も漸次増加していった。
然しながら大東亜亜戦争の勃発により万事一変し、終戦前には当地一帯には陸軍部隊が疎開駐留し、終戦後の昭和二十四年、学制改革により東光会は自然解消の運命を辿るに至った。
この間に、会員数は百七十七名に達し、指導的立場についた人々が多数輩出して、日本の社会の発展に大いに貢献したことは特質に値する。因みに著名なる人々を列記する。
星子敏雄(熊本市長)円佛末吉(大牟田市長)広瀬正雄(日田市長、衆議院議員、郵政大臣、江戸時代の儒学者広瀬淡窓の曹孫)江藤夏雄(衆議院議員、佐賀の乱江藤新平の孫)幡掛正浩(伊勢神宮少宮司)納富貞雄(佐賀工業高等学校長、広瀬淡窓の著名な研究家、東光会幹事)
五高九十年祭を機に昭和五十五年五月五日、この地で東光会会員のより東光会記念碑が建立された。高森良人先生の「東光会山荘回顧」の漢詩と、徳富蘇峰先生の「東光会綱領鉄則」が刻まれている。
なお、堀内屋敷は昭和三十三年、建造以来約二百五十年を経過し老朽化甚だしく、住居に耐えなくなったので以前と同様の構造で改築、復原したが、平成五年になり様式家屋を新築した。しかし屋敷内には昔同様、楓、桜、椿、木犀、柿、樫、榊、柚等の巨木、老樹や鬱蒼たる孟宗竹林が繁茂しており、往時の様子が髣髴として偲ばれる。
東光会綱領鉄則
本会は日本精神の真髄を体得し東洋人として自覚を把握し以て社会人として其本念の生活に生きんことを期す
一 義に当りては一身を顧みず必らず履み行う可き事
一 会員相互の間毫厘の妥協腹蔵ある可からざる事
昭和二年吉日 蘇峰老人 応需書之
東光会山荘回顧
輯睦(しゅうぼく・沢山の人が集まって睦ましくする)す八俊(はっしゅん・八人の優れた学生) 癸亥(きがい・みずのと猪大正十二年)の年
青春孰(たれ・誰か)か真詮(しんせん・まことのさとり)を望まざらんや
倶に謀りて講ぜんと欲す陽明学(ようめいがく・王陽明の唱えた儒学の一派、良知をみがき知識と行動を一致させることを主張した)
斎しく議りて為らんと期す良知の賢
旦夕(たんせき・朝夕)山荘にて自主に孜め
時々名世(めいせい・一世に名が顕れる賢人、大川周明、安岡正篤、満川亀太郎氏等を指す)を招きて
渕泉(えんせん・淵と泉、深い人格識見を意味する)に浴す
規箴(きしん・規はただす、筏はいましめ東光会綱領鉄則を指す)裏に在り
蘇翁(沿おう・徳富蘇峰翁)の筆
後進碑に刊す豈偶然ならんや
庚申(こうしん・かのえさる昭和五十五年)首春八七叟楠軒(高森良人のこと創立以来顧問として指導を受ける)
毫厘(ごうり・すこしわずか) 以上
部長―池田長三郎
委員―今泉素行、宇野太郎、
新体制になり第二百四十八号の巻頭言には添野信校長の報国団予算発表時の訓示の要旨が纏められている。皇国二千六百年記念作文の募集が行われ、目に付くのは後の評論家谷川雁氏が「蒔く人・刈る人」を出している。それに五高教授から教育学部教授であった竹原東一教授の中国紀行「北支の印象」が目に付く程度である。部長を二十年以上努めた八波則吉教授が池田長三郎教授に交代している。
習学寮12境 くろかみ山
さて、千人が岡のうえにしげ山のそそりたてるぞ、問はでも、此の山と知るべき。
能因法師が歌枕に、黒髪山は白川の辺にあり、とかきける。今は龍田山といえり。泰勝寺と言う、済家の大古舎刹ありて、細川侯香火の場なりしが、今はあらためて候の別業となし、そのうちに祖先の神を祭り給えり。むかし、加藤肥州候の祝い祭り給いし。豊国大名神の社などもありて、山路の露踏み分けて登れば、境内にありし石とやあらん、苔むして、累々とたてり、上に蔦もみじの生しげれるに、今は音づるものとては、松のあらかし、草むらのむしの音、その麓に拝聖庵などいう名所ありて,由井の正雪が昔を偲ぶ巨巌などもあれど、問う人はまれなり。何れも有為転変の世の姿。窓より眺めやるにも、そぞろに悲風の煙嵐蒼莾うちより来るを覚えるなり。
いでていなばあめの下おほえ烏玉の、くろかみ山のみねのむら雲
立田山は五高のすぐ裏にある小さい山である。昨日紹介した小峰墓地等があり、細川家の菩提寺泰勝寺があり、熊本市民の憩いの場として、朝・夕には散歩する人も多い。五高時代の寺田寅彦がバイオリンの練習をこの山の広場で練習していたと言うエピソードは有名である。
この山の中腹にある五高東光会の発祥の地に立看の説明文を転記する。
九重之塔建立由来記
元禄15年、赤穂義士四十七名が主君の仇を討った時、大石内蔵助外十六名は、細川家お預かりとなり、その応接方を命ぜられたのが、御使番として禄二百五十石を受けていた堀内伝右衛門であった。伝右衛門は深く義士の志に感銘し、昼夜、心を尽くして親切に接待した。藩主細川綱利は深く之を賞し、褒美として伝右衛門が江戸勤務を追えて熊本に帰任したとき、立田に隠居用屋敷を作って下賜された、その後堀内一族が居住し、堀内屋敷と言い伝えられていた。伝右衛門は2~3年間この屋敷に住んだと思われるが、病を得て宝永6年10月、本人の知行地である山鹿に隠居した。伝右衛門は所謂世に伝わる「堀内伝右衛門覚」を手録したが享保12年8月26日、八十三才にて死去、夫妻の墓地は山鹿市の日輪時に祀られている、なお、伝右衛門は藩主綱利に懇望して、十七義士の遺髪を下与えされ、日輪時に遺髪塔を建てて手厚く供養した。
伝右衛門が立田の隠居用屋敷を出た以後の資料は残っていないが、その後約200年にわたり、代々、堀内家一族が十代余にわたり居住していたことは間違いないようである
堀内家最後の住人は堀内藤太は、明治二十二年所有権の登記をしているが、明治三十四年旧藩主細川護成に屋敷を譲渡、返却したことが登記簿に明記されている。また藤太がこの地を出たことは、このあたり一帯を水田化しようと北側に貯水池を作り、計画したが地下水が出ず、また雨水もたまらず失敗したためと伝えられている。大正15年には細川護立が家督相続によって所有権を登記している。
木炭焼業をしていた石田民治郎は熊本県の木炭品評会で優秀賞を受けたがその技術が時の細川家の家令、長岡岩之助に認められ明治36年この屋敷に入居し、細川家の茶室用桜木炭及び一般燃料木炭の製造に当った。
第一次世界大戦終了後の大正末期は世界的大不況に見舞われ、木炭価格は大暴落し、石田家は倒産寸前に追い込まれたが、宿泊していた東光会学生は鳩首協議を行い、明治末期の先輩達にも激を飛ばして救援金を募集して石田家の倒産を防止した事は、誠に有難く感謝に堪えない所であった。かくして石田家は木炭焼を止めて農業に専念するとともに、長岡県令の指示によりこの付近一帯の細川家の杉林の管理に当った。かくして空家となった木炭焼作業員の部屋に新たに2名の五高生が入居した。障子が破れ、月の光が差し込むようなあばら家で、幣衣破帽、夜は石油ランプの投下の下で、勉学に励んだ、さらに入居希望者が増加したので。屋敷内に6畳2間の屋根は竹林葺きのあばら家を建て、2名の学生が入居した。
大正時代になると、わが国にも社会主義思想が急速に広がり、学生の間にも社会主義熱が盛んになり、五高にも社会科学研究会が作られて、大いに気勢を上げていた。
これに対して社会主義思想に疑問を持つ学生も多く「我々はもう少し胸元を見つめて、日本精神の良い所、東洋思想の学ぶべき所を探求しようではないか、物質より精神面を勉強しよう」と言う学生が集まり、東光会が同志六十七名の結合を以って、大正十二年三月七日結成され、此の屋敷を「東光会立田
山荘」と命名、東光会の本部として、活動することとなった。本部においては、大思想家である安岡正篤、大川周明、笠木良昭、高森良人、鈴木登氏等を招いてその指導を受け、又時には山荘前の草原でコンパを行い、天下国家を憂い論じ、或は放歌高吟して青春を謳歌した。
かくて東光会は、五高においては社会科学研究会に対立する特異な研究会として注目を集め、会員数も漸次増加していった。
然しながら大東亜亜戦争の勃発により万事一変し、終戦前には当地一帯には陸軍部隊が疎開駐留し、終戦後の昭和二十四年、学制改革により東光会は自然解消の運命を辿るに至った。
この間に、会員数は百七十七名に達し、指導的立場についた人々が多数輩出して、日本の社会の発展に大いに貢献したことは特質に値する。因みに著名なる人々を列記する。
星子敏雄(熊本市長)円佛末吉(大牟田市長)広瀬正雄(日田市長、衆議院議員、郵政大臣、江戸時代の儒学者広瀬淡窓の曹孫)江藤夏雄(衆議院議員、佐賀の乱江藤新平の孫)幡掛正浩(伊勢神宮少宮司)納富貞雄(佐賀工業高等学校長、広瀬淡窓の著名な研究家、東光会幹事)
五高九十年祭を機に昭和五十五年五月五日、この地で東光会会員のより東光会記念碑が建立された。高森良人先生の「東光会山荘回顧」の漢詩と、徳富蘇峰先生の「東光会綱領鉄則」が刻まれている。
なお、堀内屋敷は昭和三十三年、建造以来約二百五十年を経過し老朽化甚だしく、住居に耐えなくなったので以前と同様の構造で改築、復原したが、平成五年になり様式家屋を新築した。しかし屋敷内には昔同様、楓、桜、椿、木犀、柿、樫、榊、柚等の巨木、老樹や鬱蒼たる孟宗竹林が繁茂しており、往時の様子が髣髴として偲ばれる。
東光会綱領鉄則
本会は日本精神の真髄を体得し東洋人として自覚を把握し以て社会人として其本念の生活に生きんことを期す
一 義に当りては一身を顧みず必らず履み行う可き事
一 会員相互の間毫厘の妥協腹蔵ある可からざる事
昭和二年吉日 蘇峰老人 応需書之
東光会山荘回顧
輯睦(しゅうぼく・沢山の人が集まって睦ましくする)す八俊(はっしゅん・八人の優れた学生) 癸亥(きがい・みずのと猪大正十二年)の年
青春孰(たれ・誰か)か真詮(しんせん・まことのさとり)を望まざらんや
倶に謀りて講ぜんと欲す陽明学(ようめいがく・王陽明の唱えた儒学の一派、良知をみがき知識と行動を一致させることを主張した)
斎しく議りて為らんと期す良知の賢
旦夕(たんせき・朝夕)山荘にて自主に孜め
時々名世(めいせい・一世に名が顕れる賢人、大川周明、安岡正篤、満川亀太郎氏等を指す)を招きて
渕泉(えんせん・淵と泉、深い人格識見を意味する)に浴す
規箴(きしん・規はただす、筏はいましめ東光会綱領鉄則を指す)裏に在り
蘇翁(沿おう・徳富蘇峰翁)の筆
後進碑に刊す豈偶然ならんや
庚申(こうしん・かのえさる昭和五十五年)首春八七叟楠軒(高森良人のこと創立以来顧問として指導を受ける)
毫厘(ごうり・すこしわずか) 以上